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あの作品はなぜつまらないのか、を詳らかにすることは

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――敬遠されるものだと思う。

いかにその作品がつまらなく、ダメで、魅力に欠いているのかを指摘していくことは好きな者にとってはやりきれない気持ちにさせてしまう。かつその弁舌が的を射ていればいる程に、納得できるが故に、読み手はその瑕疵と対峙しなければなくなるからだ。

ある作品を好きな人はごまんといるが、その中で「瑕疵を認めた上で好きな人」はどれくらいるのだろう? 欠点を指摘されて「それでも己の好きを保ち続ける人」はどれくらいいるのだろう?

――おそらく少ない。

だからこそ『評論家気取り』というレッテル貼りが横行し、『好きな人もいるんだから否定しないで!』という(あまりにも)わがままな主張がいたるところで飛び交うのではないか。

もしもその作品批判に立ち向かうのであれば、相手の主張の根拠を切り崩せるよう励めばいいだけの話だ。それが己の力量不足で出来ない場合、上のような倫理観でもって相手の行動を制限しようとしてしまう。

――それは好きな作品の欠点に立ち向かわないどころか認めることさえも出来なかった証なのかもしれない。

人は(理性ではなく)感情に依拠する動物なので、批判という行為がいくら正当性があり、理屈が通るものだとしても、そこには少なからず「不快」が生まれるものだと考えている。

つまりそれが正しくとも、好きなものを否定される不快――に繋がるのであれば「人気」や「好感度」を売りにしている者の場合致命的なのかもしれない。だからある著名人は「ぜったいになにかを批判しない」と宣言するのだろうし、きっとメディア戦略として正しいのだとも思う。

     ◆

ただその批判を公開するかは別として、「あの作品はなぜつまらないのかを考える」ことは有意義だなと思う。

例えば『恋色空模様』を茶番だと感じるのであれば、それは自分の趣味に合わないだけか、それとも瑕疵が作品内に存在しているのか、見定めていくことになる。

「なぜ自分はそう感じるのだろう?」「なぜこういった要素が茶番になりえるのだろう?」「なぜ」……そう疑い続けることで、当人にとって確かな――あるいはその時点では不確かな――答えを手にすることになるだろう。

もしも「世界観が書き換わること」が茶番への条件だとするのならば、超展開作品はどう見ればいいのか? いや……単なる世界観の書き換えではなくそれが都合よく行き来することが問題なのだ。では「都合よく」とはどういった処理を示すのか?……それはまだ答えられない。

といったふうに必ずどこかで思索が停止してしまうはずだ。

このときその考えを放置しておくと――いつの日か――「世界観が"上手に"書き換わり続ける作品」に出会ったとき、行きづまった問いのヒントを得られるかもしれない。

巧みな作品と、粗雑な作品を行き来することでその差異はより分かりやすくなるし、それがどのように違うのかも理解しやすくなる。

そうして思索は少しづつ(少しづつ)深化するし、何故あの作品はつまらないのか?と考えていたことが、やがて良い作品はなぜ「良い」のかを詳らかにする手助けにもなっていくわけだ。

そんなわけで「つまらない作品はなぜつまらないのかを考えること」は私は有益だなと考えるのである。案外、ぜんぶ繋がっているんだよね、という。

(了)

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