猫箱ただひとつ

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CARNIVALはひとつひとつ取り払い、こなかなは精一杯の物語を信じた(+魔女こいにっき.11eyes)

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[1]我々は意識することなく多くの物語を取り込みながら

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CARNIVAL、こなかな、11eyes、魔女こいにっきの凶悪なネタバレ注意。4作品未読の場合は絶対読まないで下さい。

   ◆

『CARNIVAL』は木村学をとりまく規範、法律、交換人格ひとつづつ越境していき、果てにはパートナー・理沙の頭を弾丸で貫いた。

(BADEND)

彼を助けなかった“物語”から、彼が守りたかった“物語”までも当該ENDでは取り払ってしまう。もうイヤな事を引き受けてくれる“武”はいないし、救いたる理沙はゴミのような道徳意識と一緒に死んだ。

――これこそが現実から物語が消えた瞬間であり、今まで直視してこなかったセカイの情景である。

 

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――CARNIVAL

 

“物語”がないとはこういうこと。

寄るべき、語るべき、手繰るべき“物語”がないのならば、この世界が正真正銘、完全無欠に、幸福なんて何処にもないのだと、ニンジンを追いかけるだけの人生だと引き受けなくてはならなくなる。救いなんて何処にもないと面と向かって突きつけられるわけだ。

逆にいえば、“物語”はそこを覆い隠す。

悲哀も、絶望もそっとベールをかけられなんでもないように思わせてしまう。だから「大きな物語」を失ってもまだ私達は致命的なニヒリズムに陥ってはいないし、今日もなんとか、いろいろありながら生きて行けるわけだ。

学はひとつひとつ信じていた“物語”を壊していき、理沙もまたキリスト信仰なる“物語”を欲してはいたけれど結局は相容れず手放した。二人に残ったのは、もう二人だけだったし、だからこそ理沙を信じられない結末はBADENDになってしまう。

だが「#1“CARNIVAL”END」では、彼は理沙を信じることが出来た。二人がこの苦しい世界を歩み始めることが出来たのは、ひとえに“物語”がまだ彼らの中に残っていたからだろう。

 

理沙「私、その言葉、信じるよ。信じるってことはすごい大変なことなんだよ? 学君、私の言っていること、わかる? 」

学「わかるよ。僕も、理紗を信じる。何度裏切られても、捨てられても信じる。僕が気が狂っても、理紗がおかしくなっても」

学「世界が平で象と亀が支えてるのが真実だったとしても、空からピンクのライオンがドサドサ降ってきても、理紗だけはずっと信じる」

――#1“CARNIVAL”END /CARNIVAL

 

私はがんばって一緒にいて、学君が幸福になって、そして私も幸福になる。それが正しいと、決めたのです。それがきっと私の幸福で、私は私の幸福を願う。

――理沙/scenario#3/CARNIVAL

 

つまり『CARNIVAL』とは“物語”――社会、神、パーソナリティ――を切り落としながら、それでも残ったのが他者という“物語”であり、その“物語”を信じた人間を描いたわけだ。まだ人間が人間を助けられると思っていることを手厳しく批判しながらも、同時になによりの救済でもあると示した作品である。

 

CARNIVAL

2,880円

 

対して『こなたよりかなたまで』は、「平凡で幸せな日々を無限に生きるように」という“物語”を全力で信じる。

その生き方が間違っているかどうかなんてこれっぽっちも考えないし、論証も、批判もされず、その生き方に到達すれば主人公はあらんかぎり祝福される。・・・のだがその過程には大変な労苦が伴う。

主人公・遙彼方は末期癌であるが故に限られた時間の中で最善の生を選び取ろうとするのは必然であるし、そこに行き着くにはどう動けばいいかは既に理解しているにも関わらず、人間そんな上手くはいかない。

失敗を犯してしまう。

独善を貫いてしまう時だってある。

でも自棄になって「もう意味ないよこんなこと」なんて彼方は言わない。めげずに何度も何度だって望む生き方を求める姿は、“物語”を抱いた者の強さが分かる筈だ。

▼考察

こなたよりかなたまで考察――無限のように生きる――

 

11eyes -罪と罰と贖いの少女-』も一つの “物語” を信じ切る。

――平和な生活は一変した。「赤い夜」に投げ出された皐月とゆかは、突然の変化に心を挫いてしまう。そこは自分達以外存在せず、自分達を害する怪物がいる死の世界。

……希望なんて無いこの世界で生きろと? ゆかと二人で?

この不安は元の世界に戻ることで解消され……ると思いきや、繰り返される「元の世界」⇔「赤い夜」の移動によって根本的な解決とはならなかった。

これからもあの死地へ投げだされ、逃げ回る日々が続くかに見えた……がしかしそこに異能者が現れ、皐月達の仲間となってくれる。これでもうあの不気味な怪物から逃げ回ることはなくなるんだ!

 

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――11eyes -罪と罰と贖いの少女-

 

……その希望は、今までの数十倍強い存在「黒騎士」によって砕かれた。

このように『11eyes』は不条理な物語だ。希望を抱けばすぐさま絶望が押しつぶし、まるで生きることが間違いのような、この世界が地獄と言わんばかりの鬱屈感。

しかしそれでも皐月達は諦めない。突然命を奪われることになっても、強大な敵が立ちはだかろうとも、生きることを諦めない。だって自分達がこんな目にあう理由もないのに、諾々と殺されるなんて有り得ないからだ。

本作の面白いのはこの「自分たちに正義があり、お前らが悪だ」という価値観をぶっ壊すことだ。本当は皐月達がこの世界を破滅に導く存在で、黒騎士たちがそれを阻止する正義の味方だったと終盤で明かされるのである。

つまり、皐月達は死ぬべき理由がある。

 

――世界が望んでいる、死ねと

――みんな望んでいる、自害しろと

――じゃなきゃお前たちのせいで人類は終わりだ。

 

この信じていた “物語” を一切合切粉々にされる、体感は、圧倒的で、グノーシス主義的世界を見事に表現仕切った。何度も何度も生きる意味を見出しながらも、何度も何度も根こそぎ剥奪されるこの虚無感……これだよ……これが本物の不条理……。

この世界が、いかに、生きることを諦めさせる力を持っているかを描き*1ながら、それでも皐月達は希望を抱くのは「人は幸せを望む」からだと結論付けた。

そしてそう思えない場合は自害ENDに直結するのは―――人には “物語” がどれ程必要不可欠なものか分かるのではないか?

 

 

逆に『魔女こいにっき』は“物語”を懐疑する。

美しい物語を語り続けた王は、結局なにも残せなかった。永遠の時計塔も、在るべき未来も実現できなかった。ならばそれは虚構。いくら耳触りがよい音色も演奏が終えれば何も残らない。ならばそれは幻。

――物語を語ることに疑問を覚えた王は、その意義を探す旅にでる。

物語は無価値か? くだらないお伽噺なのか?……時にの無力さに膝を屈し、時には空っぽになりながら、最果ての場所でその答えを見つける。

 

「ありす」

「最後の物語を君に語ろう」

「あるところに二人の夫婦がいた」

「美しい男と美しい少女は自然な成りゆきといくつかの偶然を交えながら恋に落ちます」

「互いが互いを好きで。それだけで世界の何もかもは、華やぎ、優しくなり」

「まるでおとぎ話のような時間が二人に訪れる」

「この世にこれ以上はないというほどの美しい瞬間に、二人は永遠を誓う」

「おとぎ話ならここでめでたしめでたしで終わるだろう」

 

「けれど、人生はそうはいかない」

 

「いつか少女は歳を取り。おばさんとなり、皺ができ。生活の疲れはかつての美しさを蝕み」

「貧乏は彼女の心を僻ませ。夫とのすれ違いは彼女の愚痴を多くする」

「一方の夫も、頭は薄くなり。腹が出て。いつでもどこか遠くを見ていた夢見がちな瞳はただ、日々の暮らしの往復を映すばかり」

「あれほどみずみずしくお互いに満ちていた想いはどこかに消え失せて。二人はほとんど話すことすらなくなりました」

「いつか見た、あの美しいおとぎ話の面影すら、そこにはない」

「ある日男は……妻を連れて、散歩に出かける」

「今更かわす話題もなく。見慣れた所を歩くのは、二人にとって苦痛でしかないようだ」

「妻もまた、気まずい思いに駆られている」

「ふと通る車の窓に映った自分の老いさらばえた姿と、そこに乗っていた美しい女性を引き比べて、憂鬱を感じる」

「今日に限って自分を誘った夫の気まぐれを、うっとうしく思う」

「そんな感情は夫にも伝わり、二人の散歩は、ぎくしゃくとしている」

「そもそも俺はどうして今日に限ってこいつを誘ったのか。さっさと帰ろう。そして、テレビでも見ようと思ったとき」

「ふと、ほのかな木漏れ日が妻の顔を照らし。そこに、一瞬、若い頃の姿を見て、夫は思う」

「あらゆるものが繋がって、今があることを。何ひとつ、消えたわけではない。ただ、遠くにいっただけなのだと」

「そして……」

「男は口にする」

「君といられて幸せだったと」

「妻は……何言ってるの……と、口にしながら、少しうつむいて……」

「そうして二人は家に帰る」

 

「それが物語だ」

 

――ジャバウォック/『魔女こいにっき』

 

わかるか?

彼は物語はそれでいいと言っているんだ。

いつでも理想を語り、夢を語り、何も残せなかった彼が物語の最果てで語るこれこそが『魔女こいにっき』なのである。現実には有り得ないからこそ、私達は物語を紡ぐんだ。激情を胸にヒステリックに叫ぶんだよ。噓でもいい。噓でもいいから語らなくてはいけない時がある。

――美しい物語を。

例え何も残らなかったとしても。

だからこそ南乃ありすは本来老婆にも関わらず「その姿」が劇中で一切描かれないし、ラストでは「美しい姿のまま」踊るのである。物語の無価値さを受け止めた上でジャバウォックはありすとの物語も「物語として語りきった」。

この事実が、無価値なはずの“物語”の価値をいっとう輝かせるのである。

 

 

[2]物語を選べる自由が生まれ、それが苦しみとなる

 

多くの人間が信じ、共有し、絶対視する物語はなくなった今日。

その分その物語に相容れない人は無理して “読む” 必要はなくなったので生きやすくなったかもしれない。だが自分が “どの” 物語を読めばいいか悩まなくてはいけなくなってしまった。

・・・物語を選ぶことが出来る。それは選ばなければいけないということ。

選ばないという選択肢もあるが、それは今まで語ってきたように悲劇的な結末を迎えやすい。物語を抱かないことは虚無思想に陥りやすし、なにより生きる上で何も指針がないのは辛い筈。一途に、これだと信じられるモノがあるってのは貴重だってもう分かるでしょ?……。

でもあらゆる物語は、別の角度で、別の立ち位置で見れば必ず「欠陥」がある。必ず。それは現実には相容れないものや、叶うことのない理想論。あるいは矛盾かもしれない。

そこに潔癖になっても、全ての要項を満たす、完全無欠な物語など探した所で見つかりはしない。存在しないからだ。必ず何処かに瑕疵があるものだし、大事なのはそれを飲み込んでも目の前の物語を信じられるかどうか。

これは難しいことだと私は思う。

噓が入り混じったものを全力で認めるのって、やっぱり、中々出来ないものだし、もちろん批判と懐疑をした上で選ぶことは出来るけれど瑕疵は消えてなくならない。

実利的判断で選ぶことが原理上出来ないので、結局は感覚と好悪で選ぶしかなくなるし、そのインスピレーションで選択した責任は全部自分が負わなければいけなくなるのが尚更キツい。

つまりそれが信じるってことなんだろうね。自分の選択に後ろ盾がなくても信じられますか? 保証がなくても大丈夫ですか?って。時守希は信じる過程に懐疑を求めたがそもそも「信じる」ってのは何処までいっても盲目的なものだ。

 

理沙「私、その言葉、信じるよ。信じるってことはすごい大変なことなんだよ? 学君、私の言っていること、わかる? 」

――CARNIVAL

 

逆に言えば、こういうゴチャゴチャした事を考えずに自分の“物語”を決め、信じる事が出来る人間は強いのだと思う。ギャングスタ・リパブリカの凛堂禊、鉄血のオルフェンズの三日月はまさにそんな感じだよね。

っていうか、『ギャングスタ・リパブリカ』って皆既に自分の“物語”を持っている人たちなので通りで強度高いわけね。納得。

(了)

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*1:という点で傑作だと思う。ただ後の展開が微妙なので凡作-良作に落ち着いてしまったもったいない作品