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原理的思考に固執するのは子どもの、子ども地味た考え方に過ぎない。でもね(ギャングスタ・リパブリカ)

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「私が原理を重視するのは、それが価値を生むからだ。目的達成のためじゃない」

――時守希(ギャングスタ・リパブリカ)

 

「原理」とは多くの物事を成立させるための根本的な法則であり、事象が依拠する最もはじまりの場所である。それ自体が何かに依存せず、またそれ自体が何かに由来する第一義。

だがここで言う「原理的思考」とは"原理的"と言っているように厳密な始原である必要はない。「当人にとって多くの物事を成立させるための根本的な法則」であればいいし、そういった考え方を指している。

『人は自由でなければならない』『公平であるべき』『差別は許されない』といったものから、大衆の総意によって生まれた倫理、不条理をなくすための法律、不快な思いをしないようにしつらえたマナー、お店での場当たり的なルールから会社の就業規則――といったそれらが当人にとって最も優先すべき法則だと考えるならば、それが彼らにとっての原理的思考となる。

多くの場合、原理的思考は机上の空論で現実とは相反する。相反するというよりは "中々食い合わない" と言ったほうが正しいかもしれない。

例えばイェドニア出身の女の子がいるとする。日本とは異なる風習や、考え方、衣服を持ち合わせており、時折彼女がぽろっとこぼす言葉の節々にはイェドア固有の価値観を見せたりもする。

当然、友達はそんな彼女のことをよく知りたいと思うし、物珍しい他国の文化に興味を持つことだってあるだろう。じゃあ今度イェドニアの民族衣装を一緒に着てみる? お、いいね、とかなんとかそういう話しになっても不思議ではない。

あるいは彼女の母親が娘とその友達が仲良くする姿を見たくて、そんな提案することだってあるかもしれない。実現すればきっとそれは微笑ましいワンシーンになるはずだ。

しかし原理的に考えれば、それは許容しにくいものである。

 

「こおりは異文化が……イェドニアの文化が大事だと思うか?」

「それはそうよ」

「 ……動物園で動物を見るように?」

「えっ―――そ、そんな……! そんなんじゃないって……! 動物園だなんて、そんなこと、あたしはぜんぜん思ってないし。シャールカさんのこともシャールカさんの国も尊重するし」

「だとすると、異文化なんてどうでもよくなる」

「…………え?」

「こおりは、ちびっこの文化を尊重すると言う。もちろん、自分の文化も尊重するだろう。でも、だとしたら、異文化なんてもの、存在しなくなる。結局こおりの文化もちびっこの文化も、同じように尊重するってことだからな」

 

――時守希、水柿こおり(ギャングスタ・リパブリカ)

 

この後、『ギャングスタ・リパブリカ』の時守希は「これって人としてアンフェアじゃないか?」と締めくくる。

確かに彼女が言うことには一理ある。

つまり「『異文化交流』なんてものは自国の文化を尊重し他国の文化を下に見なければ成り立たないのである。動物園でも見るように物珍しいから興味がわくのだ。もしも自国と同じように他国も尊重するのであれば、そもそも"異"文化なんてものはなくなるし、その交流に価値は発生しない。ならば、異文化交流というのは原理的に公平ではないということ。アンフェアな行為である

時守希の意見をまとめるとこうだろうか。

原理的に考えれば他国の民族衣装を着て交流するというのは政治色が強く、また不公平な行為で、それに異を唱えるのは筋が通っている。軽はずみにするようなものではないと考えるのは正しいはずだ。

しかし。

シャールカ先輩の母・アネジュカさんは娘と友人の微笑ましい姿が観たくてあのような提案をしたのだろうし、そこに悪意があったり、貶めようとしたわけじゃない。

例え『異文化交流』が原理的に非道い行為であっても、現実的観点からみれば友人と他国の衣服を着てお茶をするだけなのだ。ことさら拒絶するようなものではないように思う。

それに希のような言い方をすれば和やかな空気は壊れ、当事者であるシャールカ先輩もちろんのこと矛先にいる水柿こおりもまたいたたまれない気持ちになってしまうことは容易に想像がつくはずだ。

――原理的思考に固執するというのはこういうことなのだ。最も根本的なルールを優先するために、結果を疎かにしがちだし、場の空気や、人の気持ちを蔑ろにしてしまう傾向がある。

現実と食い合わないのは、実利を優先するのではなく、原理という『過程』を重視しているからだ。『過程』(=原理的思考)に価値があると考えているからこそ、目的達成に見向きもしない。

結果。言葉の上では正しいのに、現実ベースではズレた発言になってしまう

もちろん原理的思考が悪いわけじゃない。ただそれを重視しすぎるのは時と場合によるし、今回のように現実に利さないルールを当てはめようとするなんて子供っぽい"正しさ"にすぎないと私は思う。

例え誰もが望む、誰もが異を唱えられない、とても正しいことであったとしても――現実に実りが少ないのであれば原理的に正しくてもどうしようもない。

  ◆

時守希はそんな自分の在り方を理解している。自分を『子どもの世界』に居ると考えているし、そしてそういった覚悟が世間では『ガラクタ』だとも分かっている。

ただ、彼女は『個人の自由』を尊重したいだけなのだ。人が好き勝手な信念を持って生きることを大切にしているだけなのだ。だからそれが侵害された時、黙っていられない。

とはいえ「理屈をすべてに優先させる無味乾燥なマッドサイエンティスト」というわけじゃないし、原理を重視するのはそこに価値が生まれるからだ。

つまり、多分、時守希は「楽しい/面白いが生まれるから原理を優先させる」のだと考えている。

 

おもしろく感じることにこそ、価値の源泉はあるんだ。

私が原理を重視するのは、それが価値を生むからだ。
目的達成のためじゃない。

価値とは、原理的思考から生まれるものだ。

――時守希(ギャングスタ・リパブリカ)

 

彼女は触手エ口同人大好きっ子で、お兄ちゃんラブで、文字通り近親恋愛を成就させるのも厭わない女の子である。けれどそういった『趣味』『生き方』はこの国では忌避されるものであり、女性がエロ同人を読んでいれば白目を剥かれその趣味はどうなの?と詰め寄られるし、兄妹同士で愛し合えば非難の的にだってなる。

 

「こおりだってわかってるだろ?
だから『まだ早い』なんて言い方したんだろ?
『触手はダメ』って言えないのわかってるから」

「でも、もうちょっと他に……」

「エンデでも読んでれば安心か?」

 

――時守希、水柿こおり(ギャングスタ・リパブリカ)

 

人は自由に生きていいはずなのに、それが未だになされていない社会。

だからといってそんな社会に諾々と組み敷かれるのをよしとすれば、時守希は自分が望むことを何ひとつ叶えられないだろう。原理を優先するのは自身の幸福(=趣味/恋愛の獲得)に繋がるからであって、"原理的な正しさ"を求めているわけではないように思う。

この在り方は、よくある「ルールさえ守っていればいいんですー!ルール守らないヤツは死刑なんですー!」系の委員長キャラと一線を画しているのは言うまでもない。(今ぱっと頭に浮かんだそいつです)

前者は考え続けた結果としてルールを優先するのに対し、後者は無思考/無理解のまま「ただそうなっている」という理由だけでルールを重視しているからだ。

原理的思考に陥る人間の多くは、「おもしろく感じることにこそ価値がある」なんて思っていない。ただ組み敷かれたルールを丁寧に守り、ルールの正しさを守っている自分に価値があると思っていることが多い。

自身を不幸にする規則であっても、『守る』ことに価値を見出していれば、実行し続けるに違いない。でもそれは「おもしろい」から「たのしい」から行っているわけではないだろう。

希ちゃんが素敵なのって、まさしくこの思考を錬鉄し続けた上での発言をかます所で、昔からあったルールが絶対的に正しいとか(伝統主義)、偉い人間が正しいとか(権威主義)、多くの人間が支持しているから正しいとか(多数論証)、そんな盲目的な人間になっていないところ。

例え原理を優先しすぎるきらいがあっても根っこの部分は「おもしろい」 事にこそ価値があると分かっているのがとっっても魅力的だと思う。だからミニ四駆を走らせて喜んでいるお兄ちゃんの時守叶の隣にいられるんだろうなあと思うし、相性いいんだろうなあってニヤニヤしちゃうよね。ちびっこ先生ほんとかわいすぎである。らぶ。

 

「あの……お兄ちゃん、前にも言っていたけど
どうして私がいつも同じ時間に帰ってくるかわかる? 」

「それはね……その時間が、お兄ちゃんが晩ごはん用意しおわる時間だから、 その時間にいい匂いがしててお兄ちゃんがお帰りって言ってくれてそういうのが嬉しいから、いつもあの時間に帰ってた」

 

 ――時守希(ギャングスタ・リパブリカ)

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ホワイトソフト (2011-02-25)

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