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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

増田の妖精、とPsychopath

思考の種子
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良心が異常に欠如し、他者に冷淡で共感しえず、慢性的に平然と嘘をつく。 行動に対する責任が全く取れなく、罪悪感が皆無で、自尊心が過大で自己中心的で、 口が達者で表面は魅力的……

wikiによれば犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以上のようにサイコパスを定義したという。

精神病質 - Wikipedia

これを聞いた時、増田の妖精*1が脳裏を過ぎった。類推が嫌いだというのは他者の感情をはかることが出来ないからの裏返しであり、慢性的に嫌がらせ・迷惑行為を行いつつそれを指摘されれば知らぬ存ぜぬで平気で噓を吐き続ける。見るからに罪悪感などなく、一貫性が欠如しているため言動はちぐはぐで自己中心的かつ支配欲が強いため思い通りに他人が動かないと癇癪を起こす……これらの一致は単なる偶然なんだろうか?

  ◆

さて、以前物語に感動するには「他者に寄り添える心(=祈り)」が鍵になると語ったことがあった。

もちろん『登場人物起因型の感動』という前提ではあるものの、人が持つ「情動」が(絶対的で異質な)他者にでさえも共感し、自分事のように、涙することができるのではないか。そういう考え方。

 

物語に感動するには【祈り】が鍵になる

 

そしてもしも「他者に寄り添える心」を失うのであれば、それは何らかのストレスや健康状態の悪化といった後天的な環境変化のせいかもしれない。それが慢性的に続くのであれば『芸術上の盲人』と呼ばれる存在になるのだろうとも。

 

eroge-pc.hatenablog.jp

けれどそこには、「良心や善意を持たず、他者を"物"扱いするサイコパス」の可能性を全く考慮していなかったなと思う。

ただの思考遊びにすぎないけど、そういった「他者を想えない(=1視点の人間)」は現実世界をどのように把握し、また物語をどのように読むかについて興味がある。

 

物語における『視点取得限界』を考える(24463文字) -

 

 

後々意見を変えるだろうが現状で私が思い描く偏見絡むサイコパスをどしゃどしゃ垂れ流して終わりにしたい。

彼らが物語を読むときおそらくその目に映るのは「要素 」「構造」のパズルゲームで、いかにしてその組み合わせ方が上手いか、面白いか、楽しいか"のみ"に注目が集められるのではないか。

登場人物の情動や気持ちに目を向けることはないし、あったとしても「自己」 と区別が出来ず「自己=他者」の構図 で物語を読むか、あるいは完全に自己 と他者を区切って登場人物をストーリ ーを駆動させる「駒」のように見做しているのかもしれない。

もしそうであるならば、まず自分の感想を置いておいて他者の感想を読み漁りそこから得た「一般的な感想」を知り得た上で 自身の感想を捏造するのではないか 。なぜならあまりにも彼らの『他者を思い遣れない感想』は社会的に異質すぎるので、それを偽装するために、そういった心理が働くかもね?と。

ここから想像するならば「情動型の批評」が行えないし、そういった批評に価値を感じることが出来ない人物といえるかもしれない。

まあ…そもそも「良心」「善意」「愛情」を欠如している心的状態が、私には想像しづらいのだけれど、それでも擬似的に試みるならば自己切断に近いのだろうか?…。というかそういう人間が「物語」を読んでも、一体どこらへんを愉しむのかよく分からないのーというのが率直な意見。人々の機微に想いを寄せられないならばやはり物語を「商品」や「構造物」としか位置づけられないのではないか。

とかくそれらを有している人間は、有していない人間を認めることはないようにも思う。なぜなら

 

 

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*1:某サービスにぴよぴよと生息する形而上学