猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

共感性羞恥は物語読みに必要なスキル?

スポンサーリンク

『共感性羞恥』というワードが去年話題になった。

これは「他者の恥ずかしい行為を見て、それを見ている自分もまた恥ずかしくなること」を指したものであり、話題の起因となった[マツコ&有吉の怒り新党 ](2016年8月24日放送) が10-80代500人にアンケートを取ったところおよそ1割の人しかこの感情を知らないのだという。

でもTwitterを眺めてみると多くの人が「私、共感性羞恥なんです!」と明言していることから1割っていう数字に疑問が出てきたりと、その様子が下記記事にてまとめられている。

togetter.com

まあでも10人に1人と考えればそんなもん?とか、アンケート方法に問題があるのでは?とか、少数派に属することがある種の優越感とアイデンティの確保につながっており真っ先に自分は共感性羞恥だと宣言する様子が地獄だとか、桑村幸恵氏によればこの羞恥感情が共感性を媒介として発生するものでは分かっていないとし観察者羞恥として呼んでいるのだとか*1、現時点では明らかになっていないことが多いのも当該感情なのだとかも耳に入ってきた。

兎にも角にも、私はこれって単なる「感情移入」の話のようにしか思えないんだけどと……と考えていたら、いや違うのかもしれないという考えに至ったのでそれについてまとめておく。

 

共感性羞恥は物語読みに必要なスキル?

 

私の関心事としてこの『共感性羞恥』は物語を読むさいあったほうがいいのかどうなのか?、ということである。

私自身感情・感覚派であり、「他者廃絶性」「芸術的盲人」「他者の感情をエミュレートする力」「多視点」「センス・オブ・ワンダー」について触れてきたように、物語を読むさい観測者の心的機構や能力を注視する傾向がある。

 

 

なぜそういった要素に着目するかというと、多分、私は「現実/虚構」を隔てている「/」をぶち壊すためには、知識をいくら溜め込んでも無意味だと考えているからだと思う。

つまり物語を皮膚感覚としてリアルに感じるためには、観測者の心的機構や能力が必要であり、それを実感として知っているからこそそういったものに注視せざるをえないのだろう。

その意味でいえば『共感性羞恥』は物語を読んで我がことのように羞恥にあえぎ、ひどいときは読むのを中断するまでに生々しいまでの感情が励起するため、持っているのならばそれはそれでいいんじゃないのかなとも思う。(社会生活は大変だろうが】

このとき疑問なのは、それは「感情移入」と何が違うのか?ということ。感情移入とは登場人物の心を読み取り、入れ込み、それを我がことのように感じるというもの。悲しい、楽しい、虚しい、恥ずかしいといった気持ちを登場人物が感じており、そして観測者がそれに同期できるならば感情移入という現象は引き起こせるのだろうと思っている。

だがおそらく「共感性羞恥」と「感情移入」は違う。

なぜなら共感性羞恥は「他者の恥ずかしい行為を見て、それを見ている自分もまた恥ずかしくなること」であり、他者が恥ずかしいと思っていなくても、自分が恥ずかしい感情を励起させるものだからだ。

例えば『Re:ゼロから始める異世界生活』第13話では、差別的視線に苦しむエミリアを助けようとしてナツキスバルが大声で叫ぶシーンがある。だが当のエミリアはそんな助けを求めてはいなかったし、無知無能な少年が自らの立場を弁えず、王戦候補者とその従者が連なる厳粛な場をかき乱す者として描かれた。

このシーンにおいて、ナツキスバルは「恥ずかしい」なんて感情は持っていない。彼はただただ好きな女の子を助けようとしただけだったし、その女の子を苦しめている連中を許せなかった。だが守ろうとしたエミリアによって彼は部屋から追い出され、後にユリウスと決闘することからも分かるようにナツキスバルはこのことに関して反省も後悔もしていない。

関連→幼年期のコミュニケーションとペルソナスバル/Reゼロ13.14話感想

ここで強調したいのは「ナツキスバルは羞恥的感情を持ち合わせていない」ということだ。

そしておそらく『共感性羞恥』を持つ者は、このシーンを見て恥ずかしくなり、いたたまれなくなり、途中で視聴をやめてしまうのだろうと思う。(実際に上記togetterではそのような意見があった)

だとするならば、『共感性羞恥』とは登場人物の感情を読み取りそれを我が事のように感じるものではなく、単なる自分の感情を優先した自己投影に過ぎないのではないかということ。

普段私たちは何気なく他者の気持ちに寄り添い、その気持ちを読み取ろうとしている。そこに必要なのは他者に共感するだけではダメで「自己感情」を「抑制」し、その上で相手の気持ちを斟酌しなければならないということだ。

でなければ「私がこう思っているんだから相手もそう思っているに違いない」という発想になりかねない。「自己」と「他者」の区別をつけず、「自己」と「他者」がイコールであると見做すならば、自分が思う相手の気持ちが食い違ったときどう処理するのか?

それこそリゼロ13話でスバルが引き起こしたコミュニケーションの断絶を引き起こしてしまうだろうし、「お前は俺の気持ちが分からない」と殻にこもるしかなくなる。

 

「小僧よ。俺が玖渚のお嬢さんを人間扱いしないことに激昂したようだが、人間扱いしてないのはそちらも同じだろう。小僧、お前に分かるのか? 年端もいかんこんな小娘から、見下される老人の気持ちがよ」

「分かるわけないでしょう、そんなこと」

「俺の気持ちが分かるか、なんて、そんなしみったれた台詞、年上の人間からは聞きたくないもんですよ」

 

――博士、いーくん/サイコロジカル(上)

 (おっとこれは違った)

 

確かにそういった共通的感情があると仮定して他者の気持ちを読み取ることしか私たちには許されていないし、本質的には他者なんて100%分かるわけでもない。でもだからこそ「相手と自分は違う存在」という前定項をを欠いてしまえば、分かるものも分からないままになってしまう。あるいはそれがコミュニケーションの拒否という状態なのかもしれない。

そんな複雑なプロセスを一瞬で処理しているのが私は「感情移入」というものだと思っているわけで、そう考えると共感性羞恥って感情移入とは別の感情プロセスで物語を読んでいるのだろうなあと思える。

で、今まで語ってきたことは荒唐無稽だけど仮に真だとして、さらに当該番組のアンケート結果も真だとすると、「自己感情を抑制できずかつ自己感情を優先して物事を捉える人が1割いる」という話になるんだろうか。

   ◆

こうなると、共感性羞恥の「共感」って一体なんなんだろうね。 

先述したリゼロでいえばあの場面で「恥ずかしい」なんて感情を覚えている人間は誰一人としてはおそらくいないのだから登場人物に共感なんてものはありえない。ならば「状況」に共感しているのだろうか。状況に共感ってどういうことさ。

   ◆

タイトルの問いに戻る。

共感性羞恥は物語読みに必要なスキルか?――んーどうなんだろ。「生々しい感情が励起する」という点においてすごくいいと思うものの、自己感情を優先しすぎるきらいがあるのは物語を読む上で恣意的で独善的な読みになる危惧があるし、多視点の記事で語った1視点的な読み方のような気もする。それって正直、好ましくはないような。

もちろん自己感情を優先することなんて物語を読んでいれば数多くあるし、それが「ダメ」とか「いけない」なんて言うわけではない。絶対的な読み方も、正しい読み方なんてものも物語には定まっていないのだから尚更だろう。でもね「作品のこのシーンにおいてこの感想は妥当ではない」というのはありえる。具体例を出せば一発で、「かんなぎにおけるナギが非処女か否かで漫画を切り刻む写真をUPするくらいに憎悪が沸いた人の感想」は妥当だろうか? もちろんそんなことはない。

同様に『共感性羞恥』って大分行き過ぎた読み方なのかもしれない、という考えを置いておきたい。解釈に真偽はなくただ優劣があるように、読み方にも優劣ないし妥当かどうかの判断はあるのではないだろうか。いやまあ別にありだとは思うんですけどね。

あと思ったのが「自己感情」が「生々しさ」に由来するものであるならば、「自己感情の抑制」というのはあまりやりすぎてはダメってことになるんだろうか。それともONOFFの話ではなくバランスというものに集束されていくんだろうか。あるいは…

(了)