物語における『世界観』は十全に使い切るべきか?と言われればそうではないが、そう思ってしまうのは何が原因なんだ(甲鉄城のカバネリ~こなたよりかなたまで)

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こなたよりかなたまで』『甲鉄城のカバネリ』ネタバレ注意

 

 

Q,「世界観が十全に使いきれていない」という不満はどこ?(こなかなからカバネリまで)

 

ずいぶん前に『甲鉄城のカバネリ』の視聴を終えた。

何層にも色を重ねた美麗なフィルム、躍動感ある挿入歌、鮮やかな戦闘アニメーション……それら作品外形はこれでもかというくらいに質が高く終盤までとても楽しめた。中盤から少し質が落ちることもあったが許容範囲内であり、他のアニメ群と比べても一線を画していた画面作りだったと思う。

ただ物語のほうは、少しだけ――少しだけ――不満を憶えてしまった。

本作はカバネといわれる人間に害をなす怪物が蔓延る「終末世界」であり、そんな脅威から人間が逃げ守り戦うお話になっている。そこでは独自の文化が発達し、砦を「駅」、駅同士の物流を「駿城(装甲蒸気機関車)」で取り行い民衆の生活を保っていた。他にもカバネに怯えるしかない民衆に対するような「狩方衆」というカバネ狩り精鋭部隊がいたり、中々に濃厚な世界観である。

しかしそんなスケールの広大さとは裏腹に『甲鉄城のカバネリ』が描いたのは、生駒の克己、無名の傀儡からの解放、天鳥美馬の復讐劇(←これで言い表すのは無理があるが本記事では省く)でしかなかったと思う。もちろんそれがダメというわけではない。あの終わり方は終わり方で綺麗だったし、好きだったりする。

ただ私が問題にしたいのは「序盤で提示された世界観が最終回まで通すと十全に使い切れていなかった」というある種のしこりのようなものである。

本作で起きた最も大きな出来事は、生駒が望んだ「カバネがいない世界」でも、無名が夢みた「お米がお腹いっぱい食べられる世界」でもなく、美馬によるいくつかの駅の崩壊に過ぎない。

あるいは美馬による「力ある者だけが生き残れる世界」を描いただけだったろうか。

駅に入り、民を殺し、人工的な融合群体で砦を壊す。そこには確かに「カバネ世界」だからこそ美馬による傲慢な行動が意味あるものとして見えてはくる。形而上な理屈がいかに堕落に満ちたもので、理想論を口にすることがカバネとの戦いに役立つわけでもないと突きつけた。

――戦うことでしかこの世界は生きれず、守っているばかりでは今日さえ過ごすことはできない。

美馬の考え方が例え極論だとしても、それはある種の真実で、実際に彼はそう生きてきて、そのような事を皮膚感覚としてぴりぴりと実感できるのが『甲鉄城のカバネリ』という作品なのである。

……そこは分かるのだ。

しかし「カバネ世界」をなんらかの方策・対処・解決を試みたわけではない最終回は、これからも生駒達の戦いは続く!的な何とも(私には)消化不全な最終回だったのである。

これが50話の流れでの12話だったならば、全然OKだと思う。美馬の復讐劇が途上の盛り上がりであるならばなんら問題はない。とはいえ本作はここで終わってしまった

明らかに途中での終幕だろう(と思える)ことが、「世界観が十全に使いきれていない」という不満に繋がっているのかもしれない。

もしくはここは「チューホフの銃」に近いものがあるだろうか? つまり「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない」というような考え方であり、また『1Q84』という小説で端的に示されているので取り上げてみよう。

 

チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」

「どういう意味?」

タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。

「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」

 

――1Q84 BOOK2

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 

 

 

素直に受け取るならば、こういった「小道具」での意味で『甲鉄城のカバネリ』は問題はなかったと思う。だが「世界観」は「チューホフの銃」に引っかかるのではないだろうか。怪物が出てきたら怪物は人を襲わなくてはいけない、の逆をいく感じで怪物が出てきたら怪物は解決されなくてはいけないというふうに。

甲鉄城のカバネリ』はそこに到達できなかったからこそ、(私は)不満を覚えるのだろう。

……とはいえ

とはいえ、私自身「チューホフの銃」の考え方は好きではないし、別段「広大な世界観」を回収し切れなくたって「それでいい」と思える作品をいくつか知っているのでこの考え方ではダメな気がする。

例えばそれはADV『こなたよりかなたまで』という作品だ。

 

 

 

ネタバレすると言っているので遠慮なくすると

本作は癌を患ってる遥彼方の闘病生活から始まる。家に誰もいないのは両親が他界し天涯孤独だからで、ヒロイン・早苗に病気のことを言っていないのはひた隠しにしているからである。そして学校に行き、病院へと寄り、家に戻る日々なのである。時には癌治療の副作用として半日(寝ずに)嘔吐し続けることもあるそんな作品だ。

――そこに突如現れる吸血鬼・クリス
――クリスを追ってきたハンター・九重二十重


あとはご想像のとおり能力者や異形の者の殺し合いが始まる………………かと思いきや始まらない。いくつかの戦闘はあるけれどまるでそこは大事ではないというふうにあっと言う間に過ぎ去るのだ。

この作品はどこまでも遥彼方の「病」に焦点が当てられたもので、「生きる」ことを巡る作品以上でも以下でもないのだ。だから吸血鬼とは何か? 他にも異形の存在はいるのか? 九重二十重が属する組織とは何か? この世界はなんなのか? に対して一切説明はされない。

でもそこに不満は憶えない――というのが本作なのである。世界観が広いにも関わらず、不満を持つことはなかった要因は何なのだろうか。

1つの仮説として、「物語が描きたいこと」がちゃんとこちら側に分かる描かれていたか、というものがあるかもしれない。

こなたよりかなたまで』だったら「無限のように生きる」ただこれをひたすらに追っている作品であり、これを最初から最後まで丁寧に描いてるので「もしかしたら能力者バトルが始まるかも……」といった期待や予測がうまれる余地がなかった。

逆に『甲鉄城のカバネリ』はスケールが大きく、何を描き、何に到達するか最初から最後まで未知数な作品だったからこそ、私は未知数な世界に期待を膨らませ、あの最終回に不満を灯すことになった。そう考えてもいいかもしれない。

2つ目の仮説は、「物語にはその物語に相応しい終わり方」があるというもの。 

こなかなは吸血鬼世界観を十全に使い切ったわけではないが、それでも紛れ無く(全ての)√Endingは『こなたよりかなたまで』らしいしそれに相応しい終わり方だった。それは《物語そのもの》に相応しい結末であり、物語の内在的文脈に沿った終幕と言えるかもしれない。特にクリス√(1周目)の美しさに絆された人は多かっただろう。

だが『甲鉄城のカバネリ』はそうは見えない、終わり方、だったのではないか・・・。

そう言われてみればそんな気もする。

先述したように50話の内での12話だったならば不満はなかった。それは裏を返せば「美馬とのいざこざを巡る戦いで幕を下ろすことが『甲鉄城のカバネリ』という作品に相応しくない」という気持ちの表れだろう。

ではどんな終わり方が相応しかったのだろう? と問いかけても答えは出てこない。今の私ではまだ答えられないんだろう。

 

 

 ▼ 参照

 

 

おわり

 

一応考えてみたけど、半分くらいはまだ納得できていない状態なので、もっとこうスマートな考え方があるのではないかという気持ちもある。

 

 

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