猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

あらゆるものを好きになりたいという願いは、あらゆるものを好きになれないという前提から始まる

スポンサーリンク

f:id:bern-kaste:20160709194422j:plain

 

なんて無理なお話なのでしょう

 

あらゆるものを好きになりたい」と思っている人はいるだろう。

私もその一人で嫌いなものをどうにかして好きになり、「嫌い」という状況をなくしたかった。嫌いな人間、嫌いな信条、嫌いな口癖、嫌いな音楽、嫌いな虫……それらを一つづつ解消していけば――そして全てを好きになれるのならば――目の前に広がる景色はより輝き幸せな時間を送れると思っていた。

けれど、それは無理な話でもある。

「好き」というのはようするに「優劣」だ。対象が他のモノよりも優れているからこそ生まれる感情であり、逆に劣っているものがなくては「好き」なんて感情は生まれない。

好きな人間がいるから嫌いな人間が生まれる。好きな信条があるから嫌いな信条が生まれる。嫌いな言葉があるから好きな言葉が生まれるのである。太極図の陰と陽のようにそれらは二つで一対であり、単独で存在することは出来ない。

もしも世界中の人間が美男美女ですらっとしたスタイルを得られたのならば、その世界で(私達が思い描く)美男美女は当たり前なものになるだろう。見慣れている「ふつう」となり「美しい人」なんていう意味は消失する。皆同じような顔で、同じような体型なのだ。そこに何かしらの価値が生まれるのは難しい。

そんなふうに優れていて・劣っているものがあるから「好き」が存在し、「嫌い」や「ふつう」なものがあるからこそ「好き」は「好き」として機能し始めるのである。

逆にいえば「あらゆるものを好き」になってしまえばそれは優劣が無い状態なので、あらゆるものが「どうでもいい」ものとなってしまう。そう、どうでもいい。価値がない状態。そこに価値を見出せないこと。そこに価値が存在しないこと。doudemoii。

「差」がないというのはそういうことでしょう?

  

   ◆

 

だから「あらゆるものを好きになりたい」という願いは、「あらゆるものを好きになれない」という前提から始めなければいけない。そしてその願いが成就した暁には「好き」さえない世界で生きるということでもある。

――そんなふうになりたいのか? 

と問われれば私はNOと答える。大事なのは「あらゆるものを好きになる」ことではなく「嫌いなものを肯定」することなのではないのか。嫌いを受け入れ、間違っているものの価値を見届ける。そういう思考の仕方がいいように思える。

もちろん「好き」を "程々に" 増やすことに異論はないが、それだけが全てではない。そんなお話であった。

 

 

関連記事