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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

アニメを楽しく見たいなら誰かと感想を共有するのをやめればよかったのに(pixiv漫画への感想)

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以下のpixiv漫画を読んだ。

www.pixiv.net

 

 今回はこの漫画についていろいろ語っていきたい。おもしろい漫画なので是非読んでみてほしい。

 

 

だれも幸せにならないアニメの話(pixiv漫画)、について

 

……それでも読みに行かない人のために、軽くまとめるとこんなお話だ。

――女の子が愛するアニメ・モラトリオンは「人気がない」「監督の作り方が悪い」という理由で他者から切り捨てられ、けれどまた別の他者によって「惹きつけるものがある」と認められた。

女の子は大好きなアニメを否定されれば傷つき、肯定されれば心が高揚したのだ。そしてその高ぶった気持ちを機に、同級生にモラトリオンの愛を伝えようと決心したもののその言葉は第三者の介入によって遮られてしまう。

結果、女の子は本来対立するはずだった同級生三人との会話を「外野」として聞くことになり、この一言で物語は終幕する。

 

わたしは たのしく アニメが 見たいだけなのに

 

――女の子/ 『だれも幸せにならないアニメの話』

 

私はこの子の気持ちは分かると思う。好きなアニメを引き合いにして対立したり批判したり反論なんてしたくないのだ。もっと楽しくお喋りしたいし、もっと幸せな時間を、大好きなアニメをきっかけとして送りたい。

――誰も幸せにならないアニメの話なんてしたくはない

しかし、この女の子は勘違いをしている。そもそも「自己」と「他者」は別々の存在であって価値観が合致するなんてことはない。自身にとって好きなアニメがあればそれを否定したり貶す人間もいるし、例え好きなアニメであってもその "好き" は質・種類・大きさは人それぞれに異なっているものだ。互いにある作品を「好き」だったとしてもその「好き」は重なり合うことすら難しい。

同じ作品が好きでも「どこ」が好きなのか「なにが」好きなのかが意見が違えることはとても多く、どいつとどいつがカップリングかでもめる場合だってある。同じ作品が好きだからといって、相手が「好き」な部分が自分も「好き」な部分と同じになるとは限らない。

それくらい自分と他者の「好きと嫌い」さえも一致することはない。分かり合うことはない。分かり合えた時があったとしても、大抵は勘違いかお互いにそうしたほうが都合がいいだろうと思っているだけだ。私が彼女に「彼女の気持ちはわかる」と言っても「わかる」気が完全にしないように、彼女はこれを皮膚感覚として分かっていないのだと思う。

もしも楽しくアニメが見たいなら他者と気持ちを共有するのをやめればいい。他者と意見のすり合わせを行うからこういう悲劇が起きるし、会話なんてするからダメだったのだ。もっと言うならブログなんてやめた方がいいし、ネットにすら繋がないほうがいい。

他者の意見とはすなわち「自身とは違う意見」の連続だ。それに耐えられないならば――他者の意見と自己の意見を区別できないならば――それが見えない環境に行ったほうが幸せなんじゃないかな。

それに、アニメを「見る」のと「語る」のは別物ですらある。この2つは交わらないから尚更に「楽しくアニメを見たい」のならば「語る」必要性はない。「語る」ってのは所詮作品を見終わったあとに発生する行為であり、見たものを言葉にする行程であって見たものを見るためのシーンではない。もちろんこの2つは多少影響するものの根本的に別次元のお話、ということを理解しておいて損はないと思う。

そしてもしも自身の "好き" だけでは不安になる、満たされない、他者からの肯定が欲しくてたまらない、一人だけではアニメを楽しめない―――ということであればあなたのその「好き」は如何ほどのものなんだろうね?と指摘もしてみたい。

誰かの否定によってその作品が愛せなくなったり、たった一人で完結することの出来ない好意感情に一体どれほどの重みがあるのだろう。

 

   ◆

 

ここまでを読めば、私は「作品談話」を否定しているようだが、別にそういうわけでもない。

好きな作品の批判を受け入れられないなら、誰かと感想を交えないほうがいいと言っているだけだ。他人の感想が目に入る環境にいるのはやめた方がいいと言っているだけだ。

そこを受け入れられるなら作品談話は楽しいものだし、「互いの分かり合えることと分かり合えないこと」が明確になる瞬間も面白いと思うもの。

 

 

とはいえ

 

件の同級生3人の作品批判が鼻につくのも確かだろう。作品の出来の論拠を売上・注目度・舞台裏でしか見積もれないこと、「この作品を観ている私勝ち!」なる価値観つまり『覇権』という考えが見え透けてくるので話し合うだけ無駄だろうなとは思う。

参照→一橋大学KODAIRA祭 山本寛×山本貴光講演会「アニメコンテンツの過去・今・未来」 翻訳こんにゃくお味噌味(仮)

 

「作品批判」といってもレベルがあるので、視聴して気に食わない所、不満を持った所を他者にも分かるように語る事ができず「とりあえずクソだからクソ」に終始するトートロジー意見な場合、それは汲み取ることすら叶わなくなってしまう。

2chTwitterでやたらと汚い言葉を使ってる人がいるが――「クソ」「カス」「ゴミ」「キモい」「アスペ」「ガイジ」の6つで作品否定を行う人々――ああいうのだ。(←差別的言葉を平然と使ってる時点でお察しか)

ああいうのは誰かと会話して作品価値を見定めたいのではなく、マウントゲームをして相手より優位に立ちたい人間。あるいは憤った気持ちを吐き出したいだけだろう。そんな作品批判は誰にも伝わらないし何の参考にもならない。批判にすらなっていない事も多い。

だから私は作品談話は楽しいとは思うが、作品批判の体にもなっていない主張を聞きたいわけではないし、他者にも分かるように語ることを放棄している意見を汲み取りたいわけでもない。

 

 

 

 

おわり

 

私だって好きな作品をぼろくそに言われたら悲しくなるし、ムカっとするけど、作品批判がない市場こそ最も忌むべきものなので、他者にも分かるよう批判されているのならば問題はない。

できるならば汚い言葉が排除されているならばグッドだが……憤るほどの作品に出会ってしまったならばそういう言葉を付け加えたくなる気持ちはわかるので、多少は仕方ないのかなあと思ったりもする。(いやいや)

数年前の私はこんなマッチョな意見を採用してはいかなったけれど、段々、好きな作品の批判が耐えられるようになってきたのだなと感慨深い。でもそれは『耐えられなかった頃』を忘却しているのと同義かもしれない。『耐えられなかった頃』は遠い彼方にあるからこそ、私は平然とこんなことを言ってのけられるのかもしれない。他者の批判が耐えられないならネットに繋ぐな―――と。確かにそれは正しく、有効な方法だとは思うけれど、、、

 

 

 

 

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