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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

世界の深層を見せてくれるアニメ批評が私は読みたいわけさ

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結局のところ私が読みたい作品批評ってのは世界の深層に到達したものなんだろう。

そのアニメ世界を理解し、考え察し、一度の視聴では見えなかった別の "景色" を見せてくれる批評だけが好きなのだ。読んでしまったら最後思わず涙腺がゆるみ、心が揺れ、そのアニメの深層に手を伸ばすことができた実感を与えてくれる批評だけが[本物]だと思う。

たまにあるんだ。滅多にお目にかかれないけれどそんな批評文物が。(これはゲーム批評だけど)kanonはいかなるものかを展開し、リトバス来ヶ谷唯湖夏至クドリャフカのタグ、Alicemagicと神北小毬の関係性を言語化した作品批評を読んだ時の「熱」は忘れてないしあれを読んだから私はこのブログでずっと内在的考察の価値を訴えているんだと思う。

今後の展開予測に終始するもの、時代背景を鑑みるもの、他作品を連関させたり作家という無意味な情報で繋ぎ合わせる―――それら全ての批評がパチモンに見えてしまうのもこの為かもしれない。それらは「作品世界」の奥深くには決して到達できない。原文に密着しない外在的批評は作品を「広げる」ものの、決して「奥深く」には進めない。本来関係しないであろうを別要素をリンクさせ「意味」を与えたり、別のものと別のものを繋ぎあわせて「価値」を見出すことは可能だけれども――そして無関係なものを関係あるものと偽装させるのも外在的批評の十八番――でもね、ぶっちゃけ、傍からみればただのこじつけにしか見えないのも確かだ。

関連→作品批評は誰のために、そして何の為に(18205文字)

興味深いのはその「こじつけ」に価値を与えている人々だろう。私にとって無価値だし[偽物]と呼ぶに相応しいものなんだけど、中には作家論,文化論,精神分析批評を好きな人もいるし「原文密着した内在的批評」を最上位に置いていないところにすこしだけ興味深くはある。当該作品の《物語そのもの》から遠いところにあるものを近くにあったと思わせる――それは民族性によって自身のアイデンティティを規定する愚かさと同じではないか?――やり口はやはり好きではないな。勝手なイメージだけど作品をフィクション(=作り物)と見ている人は外在的批評が好きそうだなってイメージがある。それがいいかわるいかと言われればどちらでもないのだけれど(ほんとかー?)ただ"私"という回路であり・檻であり・器から見て下す価値観はいつだってそこに価値はないと判断してしまうだけだと言われればその通りかもしれない。

とかく、世界の深層を見せてくれる作品批評を私は読みたいのだ。と最近強く感じる。

 (了)

 

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