読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

あまりにも他者を自分の思い通りにできると思っている人はキモイ

スポンサーリンク

 

 

以下のツイートを読んで、思う所をぐりぐりと。

 

 

タイムラインに表示される他者ツイート

 

meglogさんのツイートのように、本来なら個々人が勝手気ままにさえずり発言できるのがTwitterの使い方であり目的なわけです。どこどこで飯食ったかとか、絵を書いたり、サウンドを上げたり、連続小説をツイートするわけです。趣味思想が合わなければ最初からフォローしないように、相手が時間と共に趣味思想が合わなくなってきたと感じればアンフォローすればいいだけなんですけど中には「俺が不快なツイートしないでね」と言ってくる人がいます。

要するに俺の思い通りにつぶやけということですね。(今回は直接的にリプライ送ってくる場合を想定しています)

こんなド直球な言い方はあまり見かけませんが、迂遠な言い方で同じ意味の言葉を送ってくる人に出会った事がある人は結構いるんじゃないかなと思います。

上記ツイートのように「あなたのツイートは読んでいてツラい」もそうですし、「カニバネタあんまりツイートしないでください」とか「私は◯◯さんが嫌いなので◯◯さんのツイをRTするのはやめて」などもあります。ドン引きです。ここまでくると正直言ってキモイ。

こういう事を平気でやっちゃう人は「他者を自分の思い通りに出来る」と思っている人か、タイムラインを自分の所有物だと思っていてそのタイムライン上で流れてくる「他者ツイート」もまた自分の所有物だと思っている人なんじゃないかと考えます。だから自分が不快になるツイートに対し「(私が見てるんだから)そんなツイートしないでよ!」と突きつけてくる。恥と外聞とかないのかな。キモイ。

私も似たような事を過去三文字にされたことありますが、ネットは広いなあ……と感じたことがあります。他者と自己の境界線がついてない人とコミュニケーションしても疲れますし、ふと考えればこれは"自己拡大化"と"毒親"のお話に絡められそうな気もします。

参照→人殺しに生理的拒絶がともなうなら、なぜ「殺人」が起きるのか? 倫理的価値観と自己拡大化の影響について

このお話「カメラの前を横切るとそいつが苛ついたり激怒するのはフレーム内に映るものを自分のものだと思っているからだ」のお話と通ずるものがあると思うんですけどどうなのでしょうね。

先述した「他者を自分の思い通りにしようとする人」と「批判(=相手の目的を理解した上で否定的意見を言うこと)」が違うのは、単純に相手が聞き入れようが聞きいれまいが構わない姿勢にあるのかなと思います。前者はその度合が強く、後者は弱い。私的にあらゆる批判(=相手の目的を理解した上で否定的意見を言うこと)は肯定するものの、他者をコントロールしたいだけの醜い拘束欲は見る度に理解に苦しみます。いちばんひどいのが当人は「批判」だと思っているけど、実はただ「相手をコントロールしたい」だけだったりするのが手に負えません。(当人も無自覚な事もありえるのでしょうけど)

 

なんかいろいろ書いてきましたが、正直理屈なんかどうでもよくて、心底どうでもよくて、私はこういう行き過ぎた人間を見る度うわーひくわー……って思うだけですね。きもい。ぺっぺ。

 

   ◆

 

「恋も戦争も相手を征服したいという一点において違わない。用いるのが性愛か暴力かってだけだ」

ていう言葉を思い出すんですけど、私も違わず、基本的に人間は自分の思い通りにしたいんだろうね。間接的か直接的か、規模の大小はあれど、相手をコントロールするという点においてあらゆる行為にその要素はあるんだと。交渉…説得…教育…も結局そうですしね。芸術だって世界を隷属させたらんとする行為だと私は思っているので、これもまた似たようなものかもしれない。たとえばイデオロギーや社会システムだって誰かが構築したものに過ぎずその誰かの思惑によって(そこに気づかぬ者は)気づかぬまま支配されているとも考えられるし(これは幼少期から刷り込まれているので尚たちが悪い)、ブログだってミーム拡散の視点からいえば自己選択した文化の継続を促しているとも言える。

そんなふうに「他者をコントロール」することは誰でも日常的に行っているし、したことがない者はいないのだと思う。

だがこの記事で問題にしているのは「それが行き過ぎた直接的な命令」であるという状況だ。やはりというべきか「間接的なもの」は対象にしない。なぜなら先にも言ったようにそこまで含めるとあらゆる行為が対象になってしまうからだ。

例えば『ソーシャルゲーム批判』と題された記事があるとしよう。それは現在のソシャゲの課金システムから″ゲーム″としての在り方を否定したものだが、これもまたソシャゲを製作している者たちへある意味で自分が望むソシャゲ像へ書き換えようとする行為になるのだと思う。とはいえ、それは名指しで、直接的に、誰々へ「こうしろ」と命じたものではなく、今現在蔓延るソシャゲ市場全体を痛烈に否定した文物でしかなく、私がここで対象にしている「行き過ぎた他者を自分の思い通りにできる」行為とはまったくの別だと考える。

例えばこのブログでは「作家論」を明確に批判し、それがいかに有害で読んで益体のないものかを語っている。けれど作家論を行っている者に直接「書くのを止めろ」と命令したことはないし、当該記事でもあくまでも否定的な意見に留めている。

自分が書いた記事が作家論の抑止としての意味合いを多分に孕んでいるのは事実だろうけれどね。

つまり、「行き過ぎた直接的な命令行為」と「間接的な命令行為」の2つは別物であるとし、後者は許容できるものの前者は否定しているという事になる。

 

そんな純度の高い「征服欲」と呼んでいいものは見ていて気持ちがいいものではないし、もちろんされて気分がよくなるものでもない。そしてツイッター(=文字媒体によるコミュニケーションなら何でも)はそれが否応もなく可視化してしまう性質を持つんだろうなと思うこの頃である。