読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

そんな考え認められない、絶対に認められるわけがない

スポンサーリンク

f:id:bern-kaste:20140930050625j:plain

 

 

どうしても認められない考えに出会った時

 

たまにどうしても認められない考えがあります。主張されるだけで「違うよ」と否定してしまうものがあって、私はそれを絶対に許すことができなくて、毒づきたくなる気持ちが湧き上がってしまう。

その考えや態度がとても憎い。憎い。苛立たしい、苛立たしい、苛立たしいにも程がある。

――しかし人はいろいろな考えを持ち、いろいろな価値観、趣味、嗜好を所有しているものです。みんな違うからこそ、そんな多様性を一概に否定し踏みにじってはいけないし、しちゃだめだというのも理屈の上では理解しています。

出来るだけそれを実行したいとも思っているし、可能な限りこの考えを遂行し自分の中に定着させたいとも思ってます。自分とは違う思想は、"そんな考えはあってもいい" と処理し放っておき、理解しようとするのではなく距離を置くことでおそらく多様性というものは守られるのではないか。例え私自身が嫌いでも、理解できなくても、その考えは""ってもいいとするわけです。

それが私が考える多様性の肯定方法であり、嫌いなものは嫌いなままでいいしわざわざ好きになろうなんて思わないでいいし理解しようとするから闘争が起きるのであり嫌いなものを嫌いと宣言するから無意味な諍いが始まる。ならば「関わらない」という非交流の仕方が最善ではないかと。

でもねー「差別してはいけないという考え方を否定する考え方」とか正直どうなの?って思っちゃうし、多様性の肯定を否定をする思想さえも肯定しなければいけないのか?……ってなるといやいや……それはないよって言いたくなっちゃう。別にこれだけに限らず、無関係な人からみれば本当どうでもいい派閥争いとか、派閥内の信条争いとか、別段どちらの信条が多数派だからって社会的に大きな影響を与えない本当どうでもいいものでもその領域内に属しているからこそた自分とは違う思想を許せなくていろいろ言っちゃうことも私にはある。

 

"そんな考え認められない 絶対に認められるわけがない"

 

あらゆる思想争いは、正直「外」からみればどうでもいいことが多い。いやちがうな、完全に「外」視点で眺めるならばあらゆる思想信念の対立で起きる争いは本当にどうでもよくなる。

「まあまあみんな仲良くしようぜ」とか「みんな好きになやればいいんだよ」とか日和見の意見に集約されていくのは、「外」からすればどうでもいい事だからだ。どうでもいいものはどうでもいいからそれらがどうなろうと知ったことではないので「お互い好きにすればいいのね」という言葉として現れる。興味がないからこその態度。

けれどその「中」にいる者ほど、こういった何の役にも立たない中立で中庸的な意見は反吐がでるほどに嫌いなのではないだろうか。「中」にいるということはその領域内の価値観は自分にとって大切なものになってしまいがちだから。だからその大切なものを守るために、あるいは価値向上の為に、あるいは大切にしすぎた結果「対立する考えを認められなくて」争いが起きてしまうではないか。それを「まあまあ」なんていうひよった意見で流して欲しくはないはずだと思う。

「外」から日和見な意見を言っている人も、ひとたび自分が深く関係するものになれば「◯◯は許せない」とか言ってしまいがちなのは面白いと思う。みんな自分に関係ないものはどうでもよく、そして自分に関係あるものはどうでもよくなくなってしまう。そういものなんだなと思ったもの。

 

だから「多様性の肯定」とは、自分自身がある領域内にいて、その領域内の価値観を大切いしている状態でも、他の価値観もまた認められる状態のことを含めて言うのだろう。


「外」から多様性を肯定するのは簡単でも、「中」から多様性を肯定するのは難しい。

 

けれどそれってどうすれば可能になるのか? と考えると、正直まだ私には分からない。ひとつ答えが出せるとすれば「執着しすぎない」ということなんだけど、常時"サティ"でもしていればいいんでしょうね。(難度高め)

 

 

しねま「コーティングでも人生でも……迷ったり悩んだりして行き詰まったら、無理に解決しようとせず、思い切って『寝かせて』しまう。それもひとつの立派な『処理』なんですよ、と」

 

朗「それってつまり、ほったらかして、そのままにする、ってことだよね……?」

 

しねま「はい」

 

 

――木洩れ陽のノスタルジーカ

 

 

ハイ。

 

 

▼他の記事こちらです