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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

何も語りたいことがなかったアトラク=ナクアについて語ってみたい

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以前、『アトラク=ナクア』は古典化だと語ったことがある。

物語の内容自体もすでに現時代からすれば普遍的でありきたりなものになっているし、作品外形も(2015年作に比べると)素晴らしいとは言いがたい。

少なくとも「作品外形」の見劣り感は誰もが認めるところだろう。CG・BGM・演出その他外形に関するあらゆるものが古典化したといっても反論は出ないんじゃないだろうか。もし出るとすればその人はノベルゲームの現行作品をやっていないだけだろう。

もしもこのアトラク=ナクアの作品外形を現時代のものに再装填する事ができれば、物語の中身自体も息を吹き返すかもしれない。

そのくらいに作品外形というのは大切だと思っている。

 
参照→2015年に「アトラク=ナクア」をやっても退屈なのはもう古典だからだ

 

 

 

私が『アトラク=ナクア』に触れたのはこの記事だけで、他に感想といったものを書いたことはなかった。

というのも、表題でも言っているが「語りたいこと」がさしてなかったのだ。彼女達の生い立ちから、歩み、それについてこう思う、こう感じた、こういうことだったのか?……そういう雑多な思考すらもとくに浮かばないからこそ今まで言及しなかったのだろう。

「ゲー無」という言葉があり、ゲームをやって虚無感しか得られなかった時に使うそうだが、私にとってアトラク=ナクアとはその3歩手前を行く作品だった気がする。

"何も得られなかった、何も手応えがなかった"―――そこまでは言わないが、あと数歩歩けばその領域に入っていったであろうなという感じだはするのだ。

 

ここまで語りたいという動機を与えなかった(あるいは私がそう思わなかった)作品も珍しい。


論理構造が破綻した駄作だろうと、ちょっとイマイチな作品だろうと「言いたいこと」って結構ある。キャラクターがどうだったとか、あそこのシーンはカッコ良かったとか、あの展開はないんじゃないとかそういうの。

『いろとりどりのセカイ』は、作品評価でいえば(私の中で)あまり芳しくない出来だけど、でもトータルで10記事前後書いてるし、悠馬は悪くないよだって☓☓だから、とか二階堂藍ちゃんまじ天使とか言いたいことは山のようにある。

 

作品の出来と、プレイヤーが語りたいと思わせるのって、おそらく関係ない。

 

じゃあこの2つの何が分水嶺かというと、それらが粒子になっていたかいなかったかというお話じゃないのかな。つまり"観て"いたかどうかってこと。

私にとってアトラク=ナクアはモノがモノになる前の粒子化した状態に近く、意味が伴わず価値が発生しづらかった。道路におちてる石ころを見ても何も思わないように、そもそもその石ころに気を留めることもしないように認知すらしてしない状態だったんじゃないだろうか。

いわゆる、人間が"人間"ではなく"肉と骨"で出来たものであり絵は色素の重なり合いということ。もちろん本編で起きていたことは記憶に収納され再認し再生できることから、純粋な粒子状態ではないだろう。

けれどもそういう状態に"近かった"―――そう考えると自分の中でいくらか納得できそうだ。

 

(やっぱり作品外形って大事なのよ。アトラクに限らずSenseoffも物語あのままでいいから作品外形を2015年版でやってみたいなーって思う。いやーさー現時代のギャルゲーの演出やら音楽やらCGはやっぱり2000年前後のと比べちゃうと雲泥の差だもの。すごいよまじまじ、ってそんなこと皆知ってるか。『ぼくの一人戦争』で工藤ちゃん・沙代・徹が授業中に「立ち絵がくるくる入れ替わる」シーンはiPhoneのぬるぬる感をはじめて触った時と似ていて感動したもの。ああいう快感はたまらなくいいしああいう積み重ねが物語の奥深さに直結していくんじゃないかな。物語の「内容」だけではギャルゲーは出来ていないのだから)

 

そしてアトラク=ナクアについて語ろうと思っても、やはり何も語れないことだけが分かった記事だったなこれ…。語ってみようと思っても語りたいと思わせない。そんな作品もあるのか・・・ということが分かっただけでも収穫なのかもしれない。

正直、この作品の良いところが全く思い当たらない。主観-擬似客観視を働かせても、どういう人に合いそうなのかも分からないし、紹介するのも難しそうである。

この作品を好きな人が想定できないだろうな私には。自分にとって粒子化している作品とはそういうことなのかもしれない。