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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

批評を批評することの必要性(一億総評論家から創作家へ)

ギャルゲー 批評行為
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1)作品批評を批評することの必要性

 

 

以下の記事では『映画・進撃の巨人』を評論した評論家に監督が怒り、 FBにて友達公開でその怒りコメントをUPしたのが、なぜか2chに貼られて、そのコメントが全世界に発信されてそれを見た読者が監督を批判する……という一悶着 を皮切りに、「創作側が批評する権利」について語られてます。

 

(前略)

このことから、現在の世の中では「批評の権利」はあっても「おこる権利」は無いことがわかります。

 批評家側が一方的に権利を行使できる現状、果たして本当に健全でしょうか?

 今回の件に限らず最近顕著に表れているなと思うのが「批評と創作の非対称性」です。批評は(とても批評とは呼べないような感想、あるいは単なる罵倒に至るまで)自由であるにもかかわらず、創作者側はかなりガチガチに行動が制限され、すこしでも外れれば叩かれる。

  「創作者なら作品で返せ」という言葉も同様のドツボにはまっています。本当に創作者の返答が作品上においてしかありえないと思うなら、作品以外の言動を叩く方こそ間違っていると僕は思います。作品内の反論にのみ注視して、それ以外の瑣末な言動は無視してかかるべきです。でなければ、自分自身で「創作者の返答は作品上においてしかありえない」ことを信じられていないのです。

 この創作と批評の間にまたがるどうしようもない非対称性は、多くの人が「お客様」(そしてイコール神様)であることに起因していると思います。たんなる享受者である大半の人々にとって、批評家側が同じ立場であると感じられ、そちらを応援することが自らの利益にも繋がる、という寸法です。

 ですが、これって実は、単に批評家がナメられているだけのような気もします。

 「批評の特別さ」と書きました、が、この「特別さ」は不名誉な特別さです。

  批評も一つの創作です。少なくとも僕はそう考えている。創作一般に対しては「おこる権利」「批評の権利」はあるけれど、その一部である批評という創作に対してだけは「おこる権利」は無い。(下手したら「批評の権利」さえも)

 つまり創作一般の中にあって「批評」だけは特別扱いされているのです。

 さながら大人の中でハンデを課される子供のように。さながらイエスマンに囲まれた裸の王様のように。

  この例えは本当です。本気で言っています。なにしろ単なる「お客様」でしかない多くの人々に批評家は共感され、あまつさえ同一視されているわけですから。 一般人には課されない様々な特別の倫理的態度や理想像を半ば強制される他の多くの創作者と比べるとその差は歴然。まさに「子供扱い」です。

 言ってしまえば、批評だけがいまだに創作だと思われてすらいない。創作扱いされていないのです。

 

 

――創作と批評の非対称性 創作者は「おこって」いいのか? - 話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

 (よければ全文読まれた方がよいと思います)

 

この記事を読んで、私は「批評する読者もまたその批評を読者によって批評されるべき」と思いました。

つまり創作者からの批評に限定することなく、公の場にて公開しているのだからその権利は当然読んだ人に発生するものだということです。

 

批評を批評する―――なんて事が一般的になれば「地獄」「闇だ」と感じる人は多いかもしれません。

それは気に入らない批評に手斧を投げる理由に使われるだけではないか? 闘争を誘発する文化を形成するのではないか? アニメ批評を批評する、ギャルゲー批評を批評する、◯◯レビューをレビューする事に何の意味があるんだ?

私も以前まではそのように考えていたし「批評を批評する」必要性が分かりませんでした。(いやねは「批評スタイルを批判する」ことはよくしているのだけれど、単体の、ある個別の作品に対し書かれた一批評に対してさらに批評することの必要性が分からなかった)

しかしQ9qさんの記事を読むと、なるほどこれらは批評を「創作物」として見なしていない考え方なんでしょう。確かにそんな気します。

私たちはアニメ・小説・映画といった創作物に文句を言いますし賞賛だってします、「物語展開がひどい」「退屈」「時間の無駄だった」「すごい!」「ヒロイン同士の掛け合いが素敵」そんなふうに。

そしても批評もまた同じ創作物として見做しているならば、ネット上で公開された批評物に対してさらなる批評が加えられたとしてもさほど驚くことではないはずです。

 

 

「そこの読みは矛盾してる」

「解釈が甘い」

「時代性を語る批評はそいつの妄想でしかない」

「社会的コンテクストでぐちゃぐちゃに絡めて作品を語ってんじゃねえぞばーかばーか!」

 

 

しかし、いざ自分が書いた「創作物に対して批評した、批評」に対し同じことをされると苛ついてしまうのが大半の人でしょう。

 うるさいな個人の意見だろ! 人それぞれだろ! じゃあお前が書いてみろよ!と言ってしまうに違いない。いや実際に言っている人はいます。

 

しかしもしプロの作家なりアニメ監督がこのような発言をしたならば、多くの人は「何言ってんだこいつ、そんなに批評されるのが嫌なら世の中に向けて公開すんなよ」と言い出すんじゃないでしょうか?

別にプロでなくてもいいです。「小説家になろう」で小説を投稿している素人、自分のブログでweb小説を連載してる素人、pixivでイラストを投稿している素人、ノベルゲームを作っている同人サークルが批評&批判を受けて「別にお前の為に書いているわけじゃないから」「そんなに嫌なら見なければいい」「じゃあお前が書け」と言ってきたら苦笑してしまうんじゃないですかね? 失笑してしまうのでは?

 

そんなに批評されるのが嫌ならチラ裏にでも書いていればいいし、わざわざ公の場に上げる必要は全くありません。

にも関わらず手厳しい批評を拒絶するのならば、あまりにもそれは都合が良すぎる。もちろんこのブログを運営している私にも言えます。

 

ただ多くの人(私も含めて)批評を創作物だと見なしていないからこそ、批評批評行為は「地獄」「闇」「暇だなあ」「草生えるわ」と揶揄されるのでしょう。

しかし、アニメや小説や映画を作っている人たちはそんな「地獄の中で作り続けている」とも言える。

作品を丁寧に読み込むこともできない無知蒙昧な読者、カレーライスを食べて「これショートケーキじゃないか?おいどうなってるんだ?!」と怒り狂う哀れな読者、辛辣で的確な批判をしてくる読者に晒され、突き付けられ、揉まれる中に彼ら創作者はいるのです。

もし上述した揶揄が正しいのならば、「批評」「批判」「レビュー」といった行為もまた地獄であり、闇であり、暇人がするものであり、草生えるものに他なりません。

 

創作物に対しては文句も感想も批判も批評さえするのに、その文句や感想や批判や批評については、文句も感想も批判も批評も許さないムードになっているのはおかしいのでは?

 

つまり「批評を批評することを拒否している風潮」が今現在蔓延っているものであるならば、やはりそれは上述した記事と同じくとても良くない状態ではないのか?と私も思います。

 

 

 

2)一億総評論家から、一億総創作家へ

 

 

以前、『良質な読者』という記事で「あらゆる作品が評論され、評価され、批判される土壌がある市場は発展し、逆にその土壌がないと縮小していく」説に触れたことがありました。

それは何も作品だけではなく、その作品を批評する事にも当て嵌まるのではないでしょうか。

 

・参照

 

 

批評物にも創作物と同じくレベルの低いもの高いものがあります。もちろん"良い批評"は良い作品と同じく、その数は少ないです。

「作品が批評・批判される文化があることで、良質な作品が生まれる土壌になる」という説が正しいのならば、作品を進歩させる契機を生む "良い批評""良い批判" を生成するために「批評を批評する土壌」もまた必要なのではないでしょうか。

つまり批評を批評する文化は、良い批評を生み出す土壌になり、それはそのまま良質な作品を生み出す土壌にも繋がるかもということです。

 

 

 その意味で、最も切実に批評を必要としているのは、実は作り手のはずである。批評がなければ、作品が検討され、進歩するための契機が切り開かれることもなくなってしまう。

(中略)


 以下に引用するのは、『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』より、辛口の映画評論で知られるアメリカの批評家ポーリン・ケイルとの、ゴダールの対談である。

ゴダール 私は自分の仕事が批評され、自分はどの点で間違っていたり正しかったりしたのかを知ることを強く必要としています。でもその場合、そのことの証拠 が示される必要があります。私は自分ひとりで自分の映画を裁かなければならなくなることを恐れているわけです。私は批評されることを、ただし明白な証拠を もちいて批評されることを必要としているのです。かりに私が犯罪をおかしたとされるとすれば、私はあなたに、私にその犯罪をおかす理由があったかどうかを証明する証拠を示すよう求めるはずなのです。あなたが私の最新作について書いた批評は読みました。でも私には、あなたがあの映画を気に入ったかどうかはどうでもいいことです。私がほしいのは証拠なのです。

ケイル まさか。どうでもよくはないはずです(笑)。

ゴダール いや、どうでもいいことです。

ケイル そんな……

ゴ ダール いや、まったくどうでもいいことです。私が望んでいるのは、批評家たちがより多くの証拠を与えてくれ、それらが私に次の映画のためのアイディアをもたらしてくれるということです。こんなことを言って申し訳ないのですが、でも私はあなたの批評からは、私はポーリーンとは意見が合わないということ以外は、自分の次の映画のためのどんなアイディアも手に入れることができないのです。そして私とあなたの意見が合わないということそれ自体は、私の助けにはならないのです(拍手喝采)。

 

――The Red Diptych 批評の必要性について

 

 

上記事で引用されているゴダールのように「次の創作への進歩するための批評」を望み受け入れようとする骨のある創作者はなかなかいないかもしれませんし、そういった批評を手に入れるべく数多の塵芥のような批評を掻き分けて探すとも限らないのかもしれません。

何故なら創作者はすべからくナイーブでしょうから。

ただこれは創作者自身が批評をそのまま読むのではなく、編集者のような人がフィルターになって意義ある意見のみを抽出し届ける体制であるならばよいのかもしれません。

 

参照:小池一夫のツイートを見て思い出した筒井康隆の「作家にとってのよい文芸評論とは」 - YAMDAS現更新履歴

 

またアニメのような複雑な構造で制作されいろいろな人間の思惑が絡む所では、そういった批評のフィードバックが難しいとする意見もあります。

 

それでも私たちはそんな創作者がいるとし、制作チームがあるとし、今後の良質な作品が生成されることを願いながら批評を書き続ければいいのではないでしょうか。もちろんただの悪文や罵倒といったものではなく、意味のある批評を。

そして自分の批評物をおなじ創作物だとみなし、さらなる批評を受け入れて向上を続けていくことには意義があると思います。

 

私は前段のそういった創作者目線で批評を書くことは好みませんが(あんまり好きではない)、しかし少なくともそういう文化形成を促進させることで物語の名作・傑作が生まれる可能性を上げてくれるのならば同意したいです。

一億総評論家から一億総"創作家"への時代へ―――そんな風潮へシフトしていくことを願ってみたいです。(でもたぶんきっと無理)

 

 

 

3)批評批評の3つの問題点

 

さてこの「批評を批評すること」には問題がいくつかあります。

 

1つは「コンテンツパワー」、2つ目は「文化圏が分断されてる所」、3つ目は「批評批評はどう書けばいいか」です。

 

1つめは要するには「その批評を読んで批評したいと思うか?」ってこと。アニメやギャルゲーは本当に作りこまれた創作物だからこそ、それを見た人に「言及」させるだけのパワーがあります。

けれどそこらへんのペーペーの素人が書いた批評物に、言及したい!って思わせる力なんてあるでしょうか? いや無いです(反語)

もちろん良い批評であれば「これはいい批評だ」と言いたくなるし、クソみたいな批評であれば「本当ダメなこれ」と言いたくなるでしょうが、それ以外の動機は持ちにくいかもしれません。

ふつうのごく有り触れた批評物にたいして言及したくなることなんてないと思います。

 

 

2つ目は、アニメといった文化圏はバラバラで「まとまった空間」というのが設定されていないことです。

ギャルゲーならば一応ですが、「批評空間いっとけばユーザーの大体の傾向は把握できるんじゃないの?」みたいな感じはあります。それくらいに、一応ユーザー同士が集まる場所として機能していると。(私はあんまし利用していないが)

ギャルゲーユーザーの全員が全員あそこ見ているわけじゃないし、レビューを投下しているわけでもないでしょうが、「ある程度」のまとまりきった空間があると言っていいと思います。

けれど、アニメなどはそういう場所ないような気がします。強いていうなら2chかな……。こうなると、「良い批評」を手軽に見つけられる場所がないというのがちょっと不都合かなと。

 

 

3つ目は、批評を批評するのって具体的にどうすればいいの?ってこと。作品を批評するのだって膨大な批評スタイルがあって、中には高度すぎて素人では扱いすら難しいものもあります。

とはいえ、ここは単純に「評価」の視点だけでいいのではないかと。つまりその作品批評が妥当か否か、どこが評価されるべきか、どこが悪い部分か、有用か否か、作品に貢献するかどうか、作品に奉仕するか否かの基準でレビューすればいいんじゃないかな。

……つまり印象批評でいいってことなんですけど、これだと私の場合だったらマルクス主義批評・文化批評・精神分析批評で書かれたものは軒並みOUTになる。それは作品を簒奪する批評だと見做しているからです。

 

「いつまで~、外在的文脈で作品の内実と関係ないこと言ってお茶を濁しつづけるんですかぁせんぱ~ぃ?(半ギレ)」となる。(誰だこのキャラ)

 

だからどうしても評価するに値しないってことで低評価になるのですが、まあそれでいいのかもしれない。

 

・参照

 

ただもう少し、なんらかの良い批評の「基準点」を作り出し、おおくの人間が「こういうのが良い批評」の指標を共有するものが欲しいなとは思いますね。

 作品批評でもこの部分は意見が分かれるのに、批評批評で普遍的なものがあるとは……流石に思わないが……うーんまあぼちぼち考えてみます。

 

 

4)批評=創作物

 

私自身、このような記事を書いていますが、「批評は創作物なんかじゃない」という意識をまだ完全に捨てきれてはいないです。

 

というのも、私がここで指す創作物とはつまり「物語」のことであり、別世界を具現化する物語と、その別世界を具現化した物語の在りようをただ言及した批評では、同じ文章という形態を取っていても天と地ほどの差があるとどうしても思ってしまう。

それは批評を創作物として見做さないことで「自分の書いた批評への批評を逃れたい」という動機からではなく、「物語(創作物)と批評は存在としてのレベルが違いすぎるからこそ同じ土俵に立てるとは思えない」という畏敬からです。

 

もうすこし「批評物は創作物だ」という認識になるまでには時間がかかるんでしょう。

 

 

 

 5)評論家が嫌いな人たちはこれで溜飲を下げてみては

 

評論家気取り」というレッテル貼りをする人達や、評論家そのものが嫌いな人たちは、その評論・批評をさらに批評すればいいのではないでしょうか。

こちらのほうがまだレッテル貼りしているより建設的な気がしますし。どうっすかね。

 

 

 ・参照

 

 

おわり

 

ということで私も練習がてら「批評批評」を8月から4本ほど書いてみましたが、三日坊主になってますねはい。

やはり「言及」させるだけの批評を書ける人が少ないですし、プラスよりマイナスの言及をしたくなる批評のほうが多いです。そりゃレベルの低いもののほうが圧倒的に溢れているので当たり前なのかもしれませんが。

うーんどうしよ。

 

 

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