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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

類推が苦手ならば、他者を理解するのもまた苦手

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類推とは、「一方と他方の類似点を元にしてそれらを推し量る行為」のこと。

 

これは思考・対象把握に貢献し、巨きすぎて全容不明なものや複雑すぎてよく解らないものへの理解の道すじになるものです。人の心もまた同じであり、自分の価値観と他者の価値観に類似を見出さなければ、他者の心を推し量ることは無理でしょう。

逆に言えば、類推が苦手な人は他者の心を推し量るのもまた苦手なのではないかと思います。

 

夫の鉄道グッズを断りもなく捨てようとする妻のお話あるじゃないですか。ああいいう状況の時に、「この鉄道グッズはお前が大事にしているバッグと同じなんだよ」と夫が訴えたとしても、類推が苦手な妻ならば「それとこれとは違うでしょ」と言うのではないでしょうか。

夫が所有する鉄道グッズと、妻が所有するバッグは"本質的"には同一ではないです。構成する物質・素材・値段・社会的価値はバラバラだからこそ、そこに「類似点」を見つけられない妻は「鉄道グッズとバッグは違うもの」と考えてしまう。

だから、私のバッグとあなたの鉄道グッズは違うものだ、と。

けどそんなのは当たり前なんです。夫が言っているのは「大切にしているものを捨てられたくないという気持ちをお互いに持っているでしょ?」と言っているのであり、鉄道グッズとバッグを "そういうふうに見てくれ" と言っているのです。

 

しかし「類推」という行為が苦手だった場合、ここがよく解らない。

 

他者理解に必要なのは類推なのではないか

 

他者を理解する時に必要なのは、ある事柄の2つが本質的に似ているかどうかではなく、「自分の価値観を押し広げて、相手の価値観を汲むこと」です。

つまり類推行為そのものであり、言うなれば自分と相手に類似性がなくても「類似性を設定する」ことから他者理解は始まるのではないでしょうか。

『レトリック感覚』(佐藤信夫)では、直喩は類似しているもの同士に基いているのではなく、直喩によって類似性が結ばれると言ってます。「ふと上を見上げると、コールタールのような空が堕ちてきた」という文章があったとしたら「コールタール」と「空」に何の類似はありませんよね? でもこれは表現として成り立つのです。

直喩の本質は、他者を理解することとまた同じであると(これも類推)私は思います。

 

「私のこれと、あなたのそれは同じだ」と言われれば、(それが真実かどうかはさておき)まずはそういうふうに見ることで、相手の気持ちを推し量ることができる。

逆にこういった「自分の価値観と他者の価値観に類似性がある」と設定できなければ、いつまでたっても他者理解は育まれことはありません。

よく「自分がされたら嫌なことを相手にするな」と幼少期に教えられるのは、(断絶され別個体である)他者を自分と"同じように"見做そうとする訓練なんじゃないですかね。

 

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類推はもろてをあげて肯定する事は難しいですが、その分強力なツールです。あらゆる人間は類推をして言葉を交わしていますし、"世界"を"世界"と認識しているのもこの力のおかげです。

よく「やさしい人」と言われる人は、類推を的確に使っている人なのではないかなと思ってて、自分の立場と相手の立場を繋げるのが上手いからこそ人の気持ちをよく理解でき、気が利き、慮れる、その結果としてやさしい奴だと評価されるのではないかなと。(ただそのぶんそういう人を見ているとどうも精神的に疲れることが多いみたいなのでやり過ぎには注意なのかもしれませんが…)

そして議論などではなく、日常生活レベル(=先の夫婦のやりとりのような出来事)なぜか類推を拒んでいる人がいたらその人への警戒レベルを一つ分上げたほうがいいかもしれません。きっと自分主観でしか物事を把握出来ない人だと思いますから。