猫箱ただひとつ

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ざーっとフロレアール評を読んでみたけどしょっぱいねえ

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先日、フロレアール考察*1をUPしました。

 

 

 

プレイ終了時、本作品を読解するかどうか悩んだんですよね。というのも1999年に発売され既に16年経過したものを今さら私が作品考察しても先行記事があるんじゃないのかなと。

確かにマイナーで知る人ぞ知る作品かもしれません(?)が、当時メーカー13cmに期待していた人、あるいはライターに注目しているならば手に取るだろうし、そういうコアな人ならばこの不可思議な物語に魅入られて考察の一本くらい書いちゃうでしょうと。

ただ、2015年にメガストアにてフロレアールが収録されたので(私はこれを購入)、自分と同じくはじめて本作に触れた人となにかしら共有したく私が観た視点の下地を書いておくのも良いかなということで読解し考察記事を書いてみることに―――したのが↑の成果物です。

 

当該作品の(なにかしらの)記事を書くまでは(考察じゃなくても感想でもなんでもいい)、可能な限り他者の批評を見ないように心がけているので、考察記事を書き上げたことでようやく電脳の海に散らばるフロレアール評を読める! 

―――ということでGoogle検索、批評空間、テキストサイト、web記事が壊れていればサルベージしてざっと読んでみたんですが、うーん、しょっぱくないかこれ……。

 

まず思ったのがフロレアールの最後の最後に浮かび上がる英文章について誰もなにかしらこういう意味だと断言し明言していないこと、Solitaire trapって何状態であること、そして「二項対立」というキーワードを誰も挙げていないことが正直もうダメだなってなる。

・"Solitaire trap"→「独り遊び」に嵌る事→二項対立(=例えば神/人)を区別したところで実際は「ひとつながりの円」であるのにも関わらずそれらを区別しようとする事。

↑というふうな文章が無かったのだけれど何故か。そこから"we must get it over"となっていることから、「独り遊びを乗り越える」とか「二項対立を超越すること」と誰かしら言及してもいいと思うんですけどね……。

これが"正しい見解"とはもちろん言えないけど、少なくともそれを指し示す情報は劇中内で大量に転がっているのだから一人くらいは宣言しててもよいと思うのだけれどさ、少なくとも対立する2つの概念について触れないのはおかしくないか?……なんか、あれなんだよ、結局作品について考えているのかと思いきや最後には「ライターに落としこむ」か「文化に落としこむ」か「他作品を持ってくる」しかerg批評の大半ってやっていないんだなあって改めて。

漁ったフロレアール記事にも印象批評や機能分解する記事も見受けられたけど、こう、腰をすえて取り組んでいる世間的に「批評」っぽい記事はほとんどそれというね、誰も疑問に思わないのかな。

記事の最後にライターの名前あげて棚上げしたやつや、13cmメーカー(具体的には好き好き大好き)の流れとしてフロレアールを捉える文化論的なものや、キルケゴールを出して考えにふけるものや、sensoffと連環させた無意味なものはあるけど、本作を内在的に読み込んだものが一つもない。

16年も経過してる作品なのに、結局はそういううんざりする評論/批評だけあって、劇中内の内実にじっくり目を向ける記事がないのは……どうなんだろう……。私的にはブルーオーシャンだからそっちのほうが良いといえば良いし何の問題もないのだけど。ただやっぱり思う所はあるという感じ。

ノベルゲームは表現/技術(作品外形)を語るのが難しいと思っていてそれを説明するための理論が未だ発達していないから物語の内容に目を向けられがちなのはもう仕方ないのかもしれないけど流石に1999年に発売された作品言及が2015年に至るまで「作家論」「文化に落とし込めるもの」が前面にあるのはいろいろと考えさせられる。

 

 

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*1:メーカー13cm/原画あんみつ草/シナリオ元長柾木・うつろあくた