猫箱ただひとつ

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作者探しをする人は物語を「継時処理」してるのかも

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*これだけが理由ではないと思いますが、その要因の一つではないかという記事。

 

「同時処理」「継時処理」という情報処理の仕方があり、人はそれぞれどちらかに当て嵌まるそうです。

・同時処理―視覚的に全体を見渡すようにイメージ出来るので、一度に多くの情報を把握し全体から細部へと処理を進めていく。処理が早く全体の差異や違和などに気づきやすいそう(全体→細部)

・継時処理―聴覚や言語から情報を取得して、時間を追いながら、順番に、部分から全体を理解していく。そのため全体のバランスが時に悪くなるが、論理的な処理の仕方だそう(細部→全体)

 

 

K-ABCでは、認知処理の方法には「同時処理タイプ」と「継時処理タイプ」という二つのパターンがあるといっています。

同時処理とは、一度に多くの情報を全体的に大雑把に認識し、その中の部分同士の関係性から情報を処理する方法です(九三ページ図参照)。一方、継時処理は一つひとつの情報を時間的に順序立てて連続処理していく方法です。

つまり、同時処理が、はじめに全体を把握してからそれを構成する部分に着目して情報処理するのに対し、継時処理は構成している部分同士のつながりを理解してから最終的に全体の情報を処理するのです。

――本田真美.医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)p91-92

 

視覚優位者は同時処理にあてはまる場合が多く、言語優位者・聴覚優位者は継時処理にあてはまる場合が多いそうです。ですが必ずしもそうでもないと言われてます。

 

 

作者探しと継時処理

 

 ▼

 

 

以前から私は「作者」の情報っていらないと思っていてブログでは何度もそのことを言及してきました。

というのも、物語は物語ですでに出来上がり自立したものに、作者情報なんてのは "余計なもの" を差し込まれているようにしか見えないからです。


あなたが "見て""聞いて""感じた" 物語はそれだけでしょ? その "見て""聞いて""感じた" もの以外の要素を持ってくるのは一体全体どういう了見なのか。物語の中に「作者」なんていう情報が表現されたわけでもないのに何故それを持ち寄ってくるのか。自分で見たものを信じられなく、何かの外在的情報に頼らなければ自分の見た物語さえも語れないとはどいうわけなのか。

正直彼らがやっていることは理解に苦しみますし、その物語を自律的なものと見なす場合不可思議です。

しかし彼らが物語を「継時処理」しているならば当然なのかもしれません。

なぜなら継時処理は多くの「細部」「部分」をつなげ合わせて最終的な「全体像」を把握する処理方法なので、逆にいえば最初から全体像を把握できないということです。

だから物語の全体像を把握するために、物語に関係しそうならば作者情報、そしてそれ以外の文脈・背景もまた持ち込んだりするのではないでしょうか。行き着く場所が見えないからこそ、使えそうなものなら何でも取り敢えず持ってきて差し込むことで万全を期したいのではないかと思います。

特に物語は抽象的であり、工芸品や電化製品と違って最終結果が決まっておらず、その全体像は読者に委ねられますのでその傾向がより顕著になるはずです。

とすると、これは推測ですが、物語を継時処理する場合、どこまでもいってもその物語の全体像を把握できないのではないかと思うんですけどどうでしょう。

れは良い言い方をすれば「物語は無限大」とか「無限の意味を引き出せる」というものになるのかもしれません。

 

 

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逆に物語を「同時処理」している人は、物語の全体像を把握してから→物語の細部へと処理を進めいくので、物語の内在的・外在的区分けに敏感な場合が多く、外在的な要素を差し込まれると不純物を混ぜるなと怒ることが多いのかもしれません。

物語を継時処理をしている人は作者情報を大事な「アイテム」だと思っているけれど、同時処理している人からすれば「毒」にしか見えないみたいな。


物語に外在的要素を率先して差し込む人たちの理由がこれ "だけ" ではないにせよ、そう考えると腑に落ちる気がします。また内在的に物語に接する人の理由もいくらか解るのではないでしょうか。そうでもない?

 

 

 

医師のつくった「頭のよさ」テスト 認知特性から見た6つのパターン (光文社新書)

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