読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

フロレアールの長文感想を書いた

ゲームレビュー ゲームレビュー-フロレアール
スポンサーリンク

 *24375文字

この記事は『フロレアール』の長文感想であり、読みにくく散文的だが、そこらへん了承のもと読むべきだろうか。

そしてもしあなたに時間がないのなら、次の次くらいに整理された批評記事が投稿されるはずなので、そちらを待ったほうがよいかもしれない。

 

*追記。考察をUPしました

 

 

フロレアール考察―我々は二項対立を超越せねばならない―

 

ちなみにAmazonもDMMもゲッチュも『フロレアール』を扱っていなく、今無難に購入できるとしたらメガストア版なのかもしれない。(興味あったら購入してみてはいかが?)

DVD-ROM付 MEGA STORE (メガストア) 2015年 04月号*1


って、この記事を読むひとのほとんどは本作をプレイ済みだろうけれども。

 

では、ここから先は既プレイ者のみどうぞ。ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、6つのENDによって感想を書き分けていたり

  • 日常A・初夏
  • 日常B・祝福
  • 非日常A・不幸
  • 非日常B・銃声
  • 超越・奇跡→閉幕

 

 

 

 

日常A・初夏 フロレアール

 

 

写実・駄作?

 

現在の僕はエイリアンのデザインや動きを楽しんでいるが、子供の頃の僕の興味はどうやってヒーローが危機を脱してエイリアンを倒すかに集中していた。《作られた作品》というものは、こちらが視点を変えることによって、全く異なった相貌を見せる。恐らく、そのように計算されて作られているんだろう。

そう、物語展開だけを追っていては判らないことがあるのだ。この番組を、退屈で他愛のないストーリーだ、などと言って批判し『駄作』であると《定義》するのは簡単だが、それでは余りにも浅薄だ。

 

――ジャン(フロレアール

 

 小さい頃はどうしても二元論というかもっとも単純で、そしてもっとも大きい流れしか汲みとることができない。それはジャンがいうようにバトルであったり、瞬間瞬間の戦闘と言ってもいいかもしれない。

ただ思うに視点切り替えって意識的にしないほうがいいとは思うんだけどね。というのも、その読み取れるモジュールが内側に存在しているのなら、自動的に、勝手に意味を読み取ってくれるはずだから。

あんまりにも意識すぎると逆に変になる経験がわたしにはある。

 

例えば、写実画を見る目では、シュールレアリスムを理解することはできない。見る者は、写実画に対するのとは違う視点を持たなければならない。それができたならば、作品はきっと饒舌に語りかけてくれることだろう。優れた作品というのは、そのように豊穣な情報量をあらかじめ内包しているのではないだろうか。

 どんなに優れた作品であっても、その半分は受け取り手が作るものなのだ。確か、ヴォルテールもそんなことを言っていたような気がする。

 とはいいっても、もちろんその考え方は、例えば『デッサンのできていない絵』を弁護するための言い訳として使われてはならない。幼児の落書きとシュールレアリスム画は、やはり区別されなければならないだろう。

……というようなことを、僕はテレヴィを見ながらぼんやりと考えていた。

 

―――ジャン(フロレアール

 

 全くそのとおりなんだよね。作品は観測者がいてはじめて完成するので、もしその作品がつまらないと感じたらその責任の半分ほどは自分におっかぶせる姿勢はあったほうがいい。特に「ある何か」があるとその作品から感覚的に受け取れるなら尚更に。

 

 ストーリーだけが作品ではない。大道具・小道具のデザインや俳優の配役、音楽、考証、テーマ、その他想像もつかないようなものまでが、《作品》に含まれる。見る側に必要なのは、作品の匂いを嗅ぎ分け、その作品にあった視点を瞬間的に選択することなのではないだろうか……。

――ジャン(フロレアール

 

特に映画や、アニメのような「映像」が直接的に投射される媒体においては顕著だよね。ストーリーと同じくらいにその形式が重要視され、それはストーリーに限りない深み与えているものが良き作品だったりする。まそれだけではないけれども。

 

 

レトリックと無限級数的用法

 

ジャン 「ところが、これもまたレトリックの遊びなんだな。ここでの『それなり』は『結構旨い』って意味なんだ。いや、これが終わりなんじゃないぞ。この『結構』は、今度は『かなり』を意味する。さ、ここまでできたら判るだろう? この次には『すごく』あたりがくる。いやはや、こういう風にして演繹的に無限に意味がエスカレートしていく。僕はこれを修飾語の無限級数的用法って呼んでるんだ。ほんと、言葉の世界って奥が深いよな」

メルン「あの……ご主人様、何言っているんですか?」

 

――フロレアール

 

 ジャンが言う修飾語の無限級数的用法ってまさしく、心に内在する《嵐》のようだ。あらゆる情がまた次の情を生み出し、連鎖し、無限に増殖していく様は同じだろう。

……あらゆる意味が数珠つなぎとして、膨れ上がっていく……ね……。それは二項対立とはまた別の概念だよなあと。なんていうのかな、円環か。となると一緒の概念か?

ジャンはラストで二項対立は円環であると確信した。そう対立などしていなかったのだ、とね。

 

 

世界は未知数

 

 ジャン「……そんなの、信じる方が悪い。そもそも、鹿って草食なんだぜ?」

メルン「そんなの、判らないです。世界は広いんです。もう、どんな神秘があるか判らないです」

 

――『フロレアール

 
世界を全て見たことがないからこそ、メルンは世界の広さを、そしてその神秘性を信じられる。

もちろんジャンだって条件はほとんど一緒だろう。けれど彼はメルンよりはもう幻想の耐性がないのかもしれない。本の読み過ぎだろうか。

 

 

 しがらみと不定形の煙

 

 しがらみというのは大変だ、と思った。こんな不定形な煙でさえも何かに支配され、何かと関係している。

僕という人間は、煙などより遥かに確固とした存在だ。何かからの支配、何かとの関係――そういったものから、逃れられようもない。共和国憲法は人間の自由を謳(うた)い上げているけれど、しかし精神は決して自由じゃない。過去からの記憶から、決して自由になることはない。

僕は、記憶の奴隷だ。

 

――ジャン(フロレアール

 

人は人との間に関係するから「人間」となる。ならばそのしがらみは人間になることにおいて重要なものなんだけれど、大変だよね。

そういう「縁」のしがらみよりは、ジャンは「記憶」のしがらみのことを憂いているようだけれど。記憶、記憶ね。主に《嵐》のことを言っていると思うんだけれど、もうすこし敷衍すると価値観や思想、もしくは趣味すらも包括されるに違いない。あらゆる記憶は、あらゆる今の自分を形作っているのだから。

 

 

二項対立が洗練されたとき第三項となるのでは

 

ジャン「洗練? 僕が?」

ミリア「ええ。ダサいの超越項として洗練されてる」

ジャン「……意味が判らない」

ミリア「つまりね、あなたには《第3項》の匂いがするのよ。洗練/非洗練という2項対立を超越した特異な第3項の匂いが。わたし、その《第3項》こそが、真の意味で《洗練》だと思うな。洗練って、座標軸上を行ったり来たりするものじゃなくて、特異点をこそ目指すんだと思うの」

ジャン「……悪いけど、君の言ってることが理解できない」

――フロレアール


それはまるで地下11F にある吉野ザ・ワールドのように。二項対立を抜け出し、(おそらく外部)の点になるのが超越するという意味だろうか。それは洗練というよりは、自由という意味を真っ先に受けるのだけれど、ミリアが言っているのはそこらへんか? それとももっと別の何か?

 

 

 

ミリアのような他者

 

カフェで噛み合わない会話を延々と繰り返す、そんな関係だった。

彼女によると、その噛み合わなさが楽しいのだという。

《他者》と出会ったような感じがする、と言っていた。


――ジャン(フロレアール

 
ミリアの気持ちはわかると思う。慣れ親しんだ相手ではなく、理解できないような相手のコミュニケーションが楽しいことがたまにある。本来ならそういうのって意思疎通がうまく出来ないので楽しいとは無縁なのだけれど、その相手が興味深く、好奇心をくすぐるような何かを持っていた場合、それだけで嬉々とできる。

 

 

終局・メルンの内部にある幸せ

 

 ――メルンは幸せなのだろうか?

たまに、そんなことを考える。答えは、自問する前から解りきっている。

メルンは幸せだ。なぜなら、メルンには適応力があるからだ。誰とでも、きっと巧くやっていくだろう。『本当の親と一緒に暮らした方が幸せに決まっている』とは考えない。

ボーリャンに人の親となる資格があるとは、とても思えない。普通の女の子ならば、彼の下では幸せにはなれないだろう。

けれど、メルンは幸せになる。それは、メルンが自分の内部に幸せを持っているからだ。

そう、メルンは《本質的に幸せな人間》なのだ。そしてその本質的な幸福は、周りの人間をも幸せにする。それは、恐ろしく陳腐な(そして安易な)言葉だけれど、《癒やし》と言えるのかも知れない。

――ジャン(フロレアール

 
メルンは《本質的に幸せな人間》だからこそ、どんな苦境においても「不幸」にならない。そしてその特質ゆえにジャンは苦しむようになる。なぜなら彼女といることで全てがハッピーエンドになってしまうのだから。

対の関係のうちどちらか一方が「満足」できてしまったら、いくらが状況が悲惨であってもそれは不幸にはならない。なぜならその満足は一種の砂金のひとつぶのようなものを残すからだ。それを手にすると、なんだか、大丈夫かなと思えてしまう。

 

 

僕も、癒やされた者の1人だ。きっと、ボーリャンも癒やされるだろう。

そのことを、僕は嬉しく思った。仇敵とも言える彼の幸福を、祝福してやりたい気分になれた。それを可能にしたのが、メルンという少女の存在だ。

僕が――僕たちが生きていくのに必要なのは、虚無でも怨恨でもなく、《平穏》だ。

春に種を蒔き、夏に草をむしり、秋に収穫し、冬に筵(むしろ)を編む……。例えばそんなルーティンこそが、大切なのだと思う。

青臭いことを承知であえて言うと――

何のために生きるかではない。生きることこそが目的なのではないだろうか。

 

日常Aは状況から考えるに、最善の、最良の、めちゃくちゃハッピーエンドとは言いがたい。しかし、それでもジャンの心は満ちたりているし、きっとメルンもまたジャンに会いたがっているだろうがそれなりに満ち足りているかもしれない。

彼と彼女は、どう足掻いてもこのような幸いをいつも手にしてしまう。

 

――ここまでが日常1・初夏・メルンがポーリャンに引き取られてさよならする――

 

 

 

日常B・祝福

 

 

人間を単純化し概念化させて見ること

 

 メルンのことを考えたりも、たまにはする。ただ、彼女について心配はしない。あの少女は、僕などより余程勁(つよ)い心を持っている。

 彼女は、何者にも影響されない。全ての人に影響を及ぼすけれど、彼女自身は変化しない。そう、まるで《幸福》が具現化したような存在なのだ。

 メルンと一緒に暮らしていた時、僕はそのことに気づかなかった。僕は彼女の保護者を自任していたけれど、本当のところ、保護者は彼女の方だった。それは、身の回りの世話をしてくれたから、という理由じゃない。もっと精神的な意味で、彼女は僕を守っていてくれた。

 
メルンは幸福が具現化したような存在だとジャンは言う。メルンは必ず幸福になるしその周囲のものも幸福にするという意味だろう。

そしてこういう見方は、メルンという人間の複雑性をばっさり切り落とし、単純なものにしようという働きに他ならない。「幸福のような存在」、だけがメルンではないのだけれど、そう見ることでメルンという意味を手元に置くことができる。

人間の認知は案外狭いからねえ、複雑で深長なものをそのまま把握することは困難なわけさ。

 

 

負の無限増殖

 

……僕は、負の感情を自分の中に溜め込むたちだった。日常の中で発生した自責の念が、精神を責めさいなむ。 そんな厄介な精神構造をしていた。その感情は、どこかに開放できるような性質のものじゃない。例えば、スポーツか何かをして発散してしまえうようなもの じゃない。そんな単純な、ストレスのようなものじゃない。そうじゃなくて――

例えば『ストレス』というのは、心に積もった塵みたいなものだろう。それをなくすためには、ただ払ってやればいい。

 けれど、内攻する負の感情というのは、そんな単純なものじゃない。ある1つの感情が、心を責めるとする。すると、それと同時に、そんな感情を抱いてしまう自分を責めるもう1つの負の感情が誕生する。その感情はさらにもう1つの感情を生み出し……。

 そのようにして、負の感情は合わせ鏡のように無限増殖する。ウロボロスのように、自己循環する。

 

――ジャン(フロレアール

 

ジャンはこのあと、負の内攻する感情を解消するのが人類の課題だというふうなことを言っていたが、実はそれってもう完成されているんだよね。シッダールタによって。シッダが取り扱う瞑想によって解脱できるかは正直わからないけれど、ただ理論の説明を聞いていると「もしかすれば解脱出来る人もでてくるかも」なんてことを負わせるくらいには筋が通ったものだとは思える。

簡単にいえば瞬間瞬間を生きるという方法論なんだけど、奇しくもジャンもまた日常に埋没することでその瞬間の生を擬似的ながらも実現できていたってところなんだろうか。ここの方法論が重なり合っているのが興味深い。

 

……僕は、メルンによって負の感情を無化する術を学んだ。

それは、《日常に埋没すること》だ。ルーティン・ワークのような生活に埋没し、ただ瞬間瞬間を生きること。

 メルンは、僕に《日常》を与えてくれた。《日常》が、僕を癒してくれた。馬鹿みたいに平穏で幸福な《日常》が。

……ただ、これは1つの個人的なワークに過ぎないと思う。

 
思考せず、ただ手段を繰返していくとそういう状況に陥りやすい。良い意味で。なのでメルンのような存在がいなければ、手っ取り早いのがArtに限る。創作はほんとうに時間の感覚を忘れるほどに没入させてくれるからこれほど「手段に集中」するという点において生産性を兼ね備えたものもないとは思うけどね。

Artに生産性なんて求めちゃいけないのかもしれないけれど。

 

 

しかしメルンは概念ではない

 

 僕は、メルンのことを大切な存在だと考えてきた。

けれどそれは、僕の一方的な思いに過ぎなかった。メルンが僕に何を欲しているか。……そのことを、考えていなかった。メルンは決して超越的存在なんかじゃなく、あくまで1人の人間だ。《保護者》や《メサイア》である以前に、メルンは人間なんだ。……そして、人間ならば心を持っている。

 メルンがどうして僕と一緒にいたのか。どうしてあんなに楽しそうにしていたのか。……それは、確かに生来の性質ではあっただろう。けれど、決してそれだけじゃない。僕に対する何らかの気持ちがなければ、あんな顔を見せるはずもない。

 


――ジャン(フロレアール

 

人間は複雑なものを複雑なまま認知できない。だからこそ複雑なものを理解しやすくするように単純化し、もっとも重要な部分のみを抽出しようとする。

しかしそれは目の前にいる人間を概念化し、人間として見ないことにも繋がるよねーと。メルンは救世主でもなければ幸福の具現化であったとしても、その前にひとりの女の子であり多彩な感情が渦巻いている存在であることを認めなければいけないはずなのだ。

この事を忘れてしまうと、一面のみがクローズアップされ続け、その人間に向けられた感情はいつのまにかその人自身ではなく、自分がつくりあげた概念だったということもしばしばあるだろうね。

 

 

  

 

 

 なぜメルンは「主従関係」を求めるのか?

 

ジャン「ま、誰も聞いてないにしてもだ。『ご主人様』はもうやめてくれよ」

メルン「だって、ご主人様はご主人様です」

ジャン「僕はもうメルンのご主人様じゃない。僕とメルンはもう主従じゃないんだ。……言ったろ?」

メルン「でもぅ……。だったら、何て呼んだらいいんですか?」

ジャン「何でもいいよ。その……恋人同士にふさわしい呼び方だったら」

メルン「ええと……」

ジャン「判ったか?」

メルン「はい、判りました、ご主人様っ」

ジャン「あのな……」

メルン「ご主人様、『僕とメルンはもう主従じゃない』ってさっき言いました。だから、ご主人様が何て言ってもわたし、ご主人様のことを『ご主人様』って呼びます」

ジャン「……聞き分けがないな」

メルン「だって、恋人同士って平等なんですよ。それに……わたし、ご主人様のためにいるんです。だから、わたしにとってご主人様はやっぱりご主人様なんです」

ジャン「……メルン、言っていることが矛盾してるぞ」

メルン「いいんです」

ジャン「なるほど。……まぁ、別にいいような気がする。いいことにするよ」

メルン「わぁい、ご主人様、大好きですぅ!」

 

――日常BEND・フロレアール

 

主従関係と恋人関係どちらがいいかと尋ねられれば、そりゃ後者のほうがいいと言うと思う。なぜなら前者には上下関係がしかれているものの、後者は対等で平等な関係を築こうという意志があるからだ。

自分とあなたを同軸上に立たせたい。あるいは自分が下位である関係を充分に認めようとするのはうまく理解できない。

けれどメルンは主従関係をのぞみ、恋人関係を「だって平等なんですよ」という理由になるのかよく判らない理由で却下した。メルンにとって今までの関係が心地よく、崩したくないというのならば理解はできないが納得はしよう。そんなふうに思っていた。

 

しかし、これはおそらく違うな。と

フロレアール』目線からすると「主従関係は二項対立の状態なんです、けれど恋人関係になったら平等――つまり私たちの二項対立の関係が崩れてしまうじゃないですか」とメルンの言葉は示しているのだとしたらどうだろう。

 

(日常B・祝福・ポーリャンに迎えられたメルンであったがジャンの元へ離れることが気に食わなく戻ってきてしまった。そしてジャンと一緒に家を手放し遠いとおい土地に向かったENDである。余談。恐らくここで出てくるオーナーの「老婆」って非日常Aででてきたメルンの遠い親戚の人とリンクしているのかも? 同じとはいわないが似た存在)

 

 

 

 非日常A・不幸

 

 

 

痛みとエンコード

 

 僕は頭が痛い。

 そのことを、誰かに話すとする。すると、その相手は僕の痛みを理解してくれる。誰でも、一度くらいは頭痛に襲われたことがあるからだろうから。ただ、その理解は中途半端なものでしかない。そこには、『僕の痛み』を『その相手の痛み』に翻訳するという手続きが挿入されてしまっている。

 僕は頭痛を感じる。そのことを『僕は頭が痛い』という言葉にエンコード(記号化)する。『僕は頭が痛い』という記号は、相手に伝わる。その相手は頭痛を想像して、僕に同情する。しかしその相手が想像した頭痛は、『その相手が体験したことがある頭痛』という風にデコード(復号)されてしまっている。

 そう、エンコードとデコードとの間に、致命的なノイズが入り込んでしまっているのだ。

 

――ジャン(フロレアール

 

そう私たちは決して人と「分かり合う」ことは出来ない。あらゆる感情も痛みも完璧に伝達することができないし、齟齬が生まれるのだからそれは必然なのである。

ただ、ジャンは「痛み」であればその他の感情とは違い「同軸上」に自分と相手の感覚を並べることができるから(例えノイズがあろうとも)分かり合うという意味においては最も相手に迫れる……というふうなことを言っていた。

この考えのもと、非日常A・Bではメルンに暴力じみた重なり合いを何度も行う。メルンが痛みに耐えるているとき、その痛みはジャンにとって最も「分かり合える」感覚だからだ。

 

 

日常から非日常へ飛んできたジャンの記憶失調

 

  僕のある部分は考えた。

 僕の記憶は今、完全に失調している。現実にあった(らしい)ことを覚えておらず、実際にはなかった幻想を偽りの記憶として持っている。幻想と現実が、どこかで入れ替わってしまったのだ。だとすると――

 さっきの夢こそが、僕の《本当の記憶》なのかも知れない。隠されていた真の記憶が、夢という形で顕在化したのかも知れない。

 

――ジャン(フロレアール

 

実際は「本当」も「嘘」もないのだが、ジャンがここまで取り乱すのは、日常√の記憶を有している彼がそれとは全く別世界である非日常√へなんらかの理由で来てしまったからだ。

だから、この世界にいるジャンがメルンを痛めつけている記憶を見ては、「ばかな!」と狼狽するのである。

 

日常←―――→非日常

 ●

日像←―――→非日常

     →●

 

こんなふうに移動してしまったんじゃないかなってさ思うわけよ。(●=ジャン)

 

 

フォルキシアという病

 

伝染性精神病δ型。通称を、フォルキシアの概要は以下である。

 

・フォルキシアは古くから確認されていた。

 ・伝染力は極めて強い

・宿主と口の利いた95%は感染。残り5%の人間には感染しないがその者達の共通性はわかってない。

・宿主と口を利かなければ大丈夫。

・感染者は《不幸に魅入られる》

・宿主が心を開いた人間に特に強く感染する。

 

日常√ではジャンの懊悩は心に発生する負の無限増殖である《嵐》であったが、非日常では《フォルキシア》という心を開くことで対象者を不幸にする病になっている。

日常√ではあくまでもジャン一人だけの問題だったけど、非日常√では被害が他者にも拡大している。

・《嵐》負の内攻、負の無限増殖による懊悩

・《フォルキシア》宿主の声に応じたものは感染者となり、不幸に魅入られる。宿主の心の開き具合によってその不幸の強さは変わってくる。

 

 

非日常√のなかにさらなる二項対立

 

 僕たちは、ずっとそうだった。

 昼の馬鹿馬鹿しいほど平穏な《日常》と、夜の逸脱した《非日常》。

 僕たちは、それを完全に分けていた。

 無言のうちに交わされた協定のようなものだった。

 僕たちは、2つの世界を生きていた。

 昔からずっと、僕とメルンはそういう生活を続けてきた。

 

――ジャン(フロレアール

 

【非日常√A】という大きな物語の中にさらに、その中でメルンとの平穏な昼の「日常」と、夜の逸脱した「非日常」と分けられていて二項対立になっている。

整理してみるとこうなる。

 

・√世界

日常A、日常B、非日常A、非日常B、超越、閉幕という6つの区切られた流れ。

 

・√内世界

ひとつの√世界に、さらに「日常」と「非日常」に分かれている場合もあるし、よく注意してみると至るところで二項対立になっている。例えばメルンとジャンの「主従関係」、「平和な日常√と凄惨な非日常√」、「非日常A√内の昼と夜で隔てられている「日常」「非日常」」「純真なメルン・乱れているメルン」などなど。

おそらく《嵐》と《フォルキシア》もなんらかの点で二項対立だと思う。

 

 

 

主従関係をここでも

 

(僕と一緒にいることをメルンは嫌がっていたか? そんなことはないはずだ。メルンが毎日見せる笑顔は、偽りないものだった。メルンは僕との生活を喜んで受け入れていたのだ)

(馬鹿な。そんなことはあり得ない。人間と人間が主従で結ばれるなんてことがあり得るはずがない。それを強要されることは、《不幸》以外の何ものでもない)

――ジャン心の声・フロレアール

 

 日常BENDでメルンは恋人関係になったにもかかわらず、主従関係を続けたい意志を表明した。本来ならば「主従関係」とはあまりいいものではなく、恋人関係という対等な関係が望めるのならばそれを望むに違いない……。

しかし「対等」になってはいけなかったとしたら? つまり対立しあった2つの関係もまたジャンとメルンの関係性で言い表しているのだとしたら?

 

(メルンと僕が主従関係を結んだこと。それは確かに不条理な運命だった。しかし、それが何だろう。我々はあらかじめ運命づけられている。それは疑いようのない真実だ。問題は、その運命の中でどれだけ生を謳歌することではないのか?)

(メルンは僕との生活を受け入れていたのか?)

(当然だ。疑うのも愚かなことだ。それを疑うのは、メルンの笑顔を疑うことだ。そんなことは決してできないはずだ、僕には)

 

――ジャン心の声・フロレアール


主従関係を不条理な運命だというジャンの心。たしかにそうなんだよね。人間を人間を従わせるというのは人格的な意味においてあまりよろしくないのだがしかし……我々は二項対立という不条理な運命の中で生きていると言っているようにも聞こえるねこれ。

内と外があるように、内部の我々と外部の神の存在を認めるかのように。そしてそんな二項対立の中でどれだけ生を謳歌することなのではないか?と。

そんなこと気にしてても仕方ないよと。

ジャンはこの構造に取り憑かれて病んでしまったけれど、メルンのほうはというとそんなの一ミリも気にしてなさそうである。神様とかどーでもよくないですか、私たちが精一杯生きて楽しければ、と。

 

 

2人は最後になって出会えた?

 

メルンが窓から転落し、ジャンは叫ぶ、その刹那、二人の精神は地下室におくられそこでもまた彼らは暴力的な営みを繰り返した。

そうしてこの一小節が現れる。

 

 俺たちは、

   最後になって出会えたんだろうか……?

 

――ジャン(フロレアール

 
どうだろうね……。たしかに二人は毎日のように出会ってはいたが、ジャンのいう出会ったとはおそらく「お互いを完全に理解できたか」という意味だろう。ならば、それは出来なかったのかもしれない。

例えそれが「痛み」による他者との同期の仕方であっても、何も残らない接触方法であったと思う。私には。

あまりにも無為な営みだよな……ってさ。ただメルンならば、これを「奇跡」と呼びならすのかもしれない。

 

 

 

我々はこころを開いてはならない?

 

1人で田舎を旅行していたあの時、僕の心はいつになく開放感に満ちていた。それは多分、初めての土地に旅行する時に誰しもが覚える感覚だったろう。しかしその感覚が、彼らには致命的になった。

フォルキシアは、宿主が心を開いた人間に特に強く感染する。そういうことだろうと思う。

これには、傍証がある。パリで表面的な付き合いしかしていなかった友人たちには大した《不幸》に見舞われなかったけれど、僕が好意に近い感情を寄せていたミリアという女の子はバイクの事故で鎖骨を折った。

フォルキシアのそんな性質に、僕は今になって思い至っていた。

 

――ジャン(フロレアール

 

フォルキシア。

それは、決して特別な病じゃない。

人間というもののある本質が先鋭化したものに過ぎない。

それは、人間という存在の本質的な欠陥だ。

つまり……《人間は他人を理解するようにはできていない》。

そんな欠陥を、運命的に背負わせれている。

人間というのは、極めて不完全な存在なのだ。


フォルキシアという病は、そのことを象徴的に示している。

そして、暗闇の中で僕は理解したのだった。

…………………… 

………………

……

―――ヒトは、心を開いてはいけない。

 

fin

 

(ジャン)

 

 ジャンは《フォルキシア》という病を、《人間は他人を理解するようにはできていない》を現したものにすぎないと言う。

その考えに至ったのは「心を開いた分」だけ「相手を不幸にする」フォルキシアの性質ゆえからだろう。

ただどうもうまくここをそういうふうにして理解できない。

相手を理解しようとするそのとき、その相手は致命的なダメージを負う。理解しようとするその行為は、攻撃になり、対象者を殺してしまうかもしれない。理解しようとすればするほどに。

それは「人間は他人を理解するようにはできていない」というよりは、「理解しようとする行為は攻撃である」という言葉のほうがしっくりくるんだけれどもね。

 

ここで示されているのは「言葉の不完全性」というよりは、「人間の本質な欠損」というところが興味深い。ジャンが到達した答えは「言葉というツールが不完全だからこそ僕たちは分かり合えない」ではなく、「そもそも人間ってわかりあえなくね?」ということ。

……なぜジャンは「言葉」という伝達手段に言及しなかったのだろう。言葉という方法ではなくもっと概念を伝えあえるツールがあったならば―――という発想を一段飛び出しで「人間は分かり合えない」ってなるのはちょっと不思議だ。

もしも言葉より上位の伝達ツールが発明され、クオリアごと、送受信できるものが生まれたならば私たちはよりもっと他者を理解できるとは思うが、そうじゃない可能性もあるということだろうか?

たとえ何らかの方法でクオリアを送受信できようとも、私たちは他者を完璧になど理解できないと?

別にジャンはそんなことを一言も言っているわけではないけれど、その疑問を一切考慮していなかったので「そういうこともありえるのかな?」ということは留意しておこう。

 

「人間は他者を理解するようにはできていない」という欠陥、二項対立、超越項が交錯するとき何がはじまる?

 

 

 

非日常B・銃声

 

 

整理・メルンの生い立ち

 

日常A・ポーリャンの娘

日常B・ポーリャンの娘

非日常A・アパルメントのオーナーが面倒みてる娘

非日常B・近所の娘、兄妹のような関係

 

日常A・ジャンが買う
日常B・ジャンが買う
非日常A・メルンが買う
非日常A・メルンが買う

超越・メルンとジャンが交互に買う

 

 

メルンが住むスペース・地下

ジャンが住むスペース・2階

ジャンが仕事する所・燈台

 

一人称

僕・俺

 

 

 痛みは同一直線上にある

 

メルンの二つの穴に二つの腕をぶっこみ、筋を切り、絶叫しおわった営みのあと、ふとジャンは痛覚について想いを巡らせる。

 

僕はメルンのことが好きだ。
僕はなぜかメルンに苦痛を与える。
僕はメルンのことが好きだ。
僕はだからメルンに苦痛を与える。

僕には見える。
人と人との無限の距離が見える。
僕には見える。
人と人とのどうしようもない壁が見える。

肌を触れ合わせてみても、決して1つにはなれない。
元々分かたれたものだから、人と人とは1つになれない。
僕は君を理解できない。
君は僕を理解できない。
2人の間には無限の距離があるから。

 

僕はメルンに苦痛を与える。
苦痛が人と人を結ぶから。
たまに僕は自分の腕をつねってみる。

痛い。

もっと強くつねればもっと痛くなるし、もっともっと強く強くつねればもっともっと痛く痛くなる。

痛み、苦痛――それは、人類共通だ。
他人の気持ちは理解できないけれど、他人の痛みも理解できないけれど、しかし痛みの本質は同じだ。

痛くない。
少し痛い。
痛い。
すごく痛い。

……そういう風に、痛みは同一直線状に並ぶ。僕と他人との痛みの違いは、程度の違いでしかない。痛みを感じているという本質においては同じだ。

しかし『気持ち』というのはそんなものではない。
他人の気持ちを理解することはできない。決して。


けれど、僕が腕をつねって感じる痛みとメルンの感じる痛みは同種のものだ。
その痛覚が人と人をつなぐ。
その結びつきを求めるがゆえに、人は人を傷つける。
人を傷つけて痛みを与え、自分と同種の存在であることを確認する。そしてつながりを得ようとする。
だから人は戦う。

戦争は愛の代償行為だ。
人が人を理解しようとする、人と人が繋がろうとする、逆説的で絶望的な行為だ。
人々は、愛するために戦う。
愛ゆえに戦う。

 

――ジャン(非日常B)『フロレアール

 

つまりはジャンはメルンをもっと分かろうとしたがために「暴力的な営み」を繰返してきたということだ。

所詮他者の気持ちや痛みでさえも分かり合うことはないが、しかし「痛み」は同直線上に並べることができる。それはジャンにとって「気持ち」なんていうより複雑で絶対的に理解できないものより、痛みは「理解できる可能性はありそうな」ものなのかもしれない。

少なくとも痛みの程度が違うだけで痛みの質は人類共通なのだ、と言われれば確かにそうかもしれない。

非日常Aでメルンを痛めつける理由を《海より深い事情》とジャンは言っていたが、非日常Bではこのように「メルンを理解するための方法」として痛めつけられる理由になっている。

さらに、非日常Aのジャンは他者を理解することを否定し、ラストで「ヒトは、心を開いてはいけない」と締めくくった。

しかし非日常Bは、むしろその逆でジャンはメルンを理解しようとしているのだろう。心を開いているのかどうかは解らないが、他者は理解できないと承知の上で理解しようとしていることは確かだ。

 ◆

ゆえにこのジャンにとって、「痛」という概念はコミュニケーションの一種だと捉えているのだろう。戦争が愛の代償行為だと言うのもまた、「痛」によって繋がろうとし理解しようとするからこその絶望的な営みだと。

己と他者が分かり合えなかったから戦争に踏み切るのではなく、分かろうとする行為そのものが戦争だという事なんだろう。相手をより知るために、痛みを伴わせる……ああそれはなんて……。

 

 

メルンは出て行った、ことへの違和

 

メルンの二つの穴の筋が切れた営みのあと、なのかは解らないがメルンは唐突に出ていったとのこと。そして唐突に帰ってきた。

 

メルンは出て行った。僕に何も言わずに。

ただ、その理由は何となく諒解できた。

メルンを理解するための僕のプロトコルが、メルンには通用しなかったということだ。メルンにはまた別の方法論があったのだ。

相互理解のための方法論において、根本的な相違があった。人と人が別れるのは、全てそのためだ。

……だから、メルンは去った。

――ジャン『フロレアール

 

 

 「お兄ちゃん、ごはんです」

入ってきたのは、メルンだった。

メルンは戻って来た。出て行って丁度一年後のことだった。そして僕達は、もう一度やり直した。相手を理解するためのプロトコルを求めて。

この世界にあるのかどうか判らない、失われたプロトコルを。

 

――ジャン『フロレアール

 

ここのメルンの唐突な家出(?)と帰還に引っかかりがあるので、なんで引っかかりがあるのか考える。もしかして……と思ったら、そうかこれ日常Bと連動しているんだな。

日常Bではメルンは一度ポーリャンの元へ行くが、ジャン恋しさに再び帰ってくる。非日常Bでは同じくメルンは一度去り、そして戻ってくるのである。理由はジャン曰く「プロトコルの根本的な相違」。

そういえば、日常Bでもジャンはメルンのことを概念化・象徴化した存在として捉えていたが、メルンの帰宅によって彼女を「ちゃんと理解しようとする」のであったな。

この2つのENDは「他者との深い理解」においては同じものが根底にあるのか。

 

~~この後、メルンの父親の知人であるポーリャンが家に訪れ、銃殺されるfin~

 

 

 

 

超越END・奇跡

 

 

すべてのendを眺めえる超越√

 

 ――ちょっと待て、今僕はどこにいるんだ? 自分のいる場所が、突然判らなくなった。いや、地理的な場所は判る。地中海沿岸の灯台、その脇にある小さな家だ。僕はキッチンにいて、メルンと一緒に食事をしている。

判らないのは、そういう意味での《場所》じゃない。無限に錯綜する因果律の中における場所だ。いきなり《別の場所》に投げ込まれたような感覚があった。そして――

――僕はこの光景にいたことがある。

そんな感覚も。

(中略)

6年前の約束通りメルンをシスター・アンジェラに連れて行かれて独りになった僕は?

戻ってきたメルンを連れて逐電しイギリスに移り住んだ僕は?

フォルキシアをメルンに移して彼女に《不幸》をもたらした僕は?

メルンの父親が雇った暴力組織の男に射殺された僕は?

 

フロレアールはあらゆる所が二項対立になっているかもしれないと思っていたらやはりそうだったか。

《日常END》⇔《非日常END》の「幸福/不幸」の対立もそうだが、日常AENDと日常BENDは独りと二人という対立、非日常Aと非日常Bではメルンが不幸・ジャンが不幸の対立になっている。

今度は逆位置にあるENDを細かくみると、日常Aはメルンのささやかな幸せに対し、非日常Aは窓から落下死するというメルンの不幸になっている。

日常Bと非日常Bでは「メルンが家を出て戻ってくる」ところまでは一緒だが、そのあとジャンが幸せか不幸かは対立しあっている。

 

そしてあらゆるEND。二項対立になった4つの物語を「俯瞰」できるいわばメタに見れるのがこの超越√なのだろう。二項対立から外れた存在、超越項。そう僕らが超越するのは神とかではなく――内外による区別ではなく――自己をこのように眺められる事そのものなのではないか。

 

 

神に抗うフロレアール

 

「僕とメルンがいるこの世界は、神によって創られた。そして、神はこの世界を僕とメルンの幸福な物語が紡がれる場として設定した。僕とメルンは、その物語を遂行する駒に過ぎないんだ。――僕は、その理不尽が憎い」

僕の言葉に、メルンは答えなかった。ただ僕の目を覗き込んでいただけだった。

「メルン、僕は自分の住む世界を自分で切り拓いてみたいんだ。そんな当たり前のことがしたいだけなんだ」

僕はナイフとフォークをメルンの腹の上辺りに移動させた。そして、それをゆっくりと下ろす。つん、とナイフとフォークがメルンの腹に触れた。

――ジャン(フロレアール

 

日常Aでジャンは、いろいろなしがらみにあるといった。それは人間関係もそうだし、記憶の奴隷だということもそうだった。

けれど、実際のところジャンをもっとも絡めとっていたのは、「神(あるいはそういった概念に取り憑かれたこと)」が支配するこの世界そのものであったのだろう。

もし彼が超越せず、ひとりぶんの"ジャン"の人生しか経験していなかったらこんな思いも抱かなかっただろうが、しかし彼は二項対立によって生まれたENDを見、超越し、自分が置かれている現状を理解してしまった。

どう足掻いても「幸福」にしかなれない自分だということを。

それは自由か? 神によって幸福を規定されている人生は自由なのか? 否、自由ではない。ジャンは幸福を求めたのではなく、自由を求めたからこそ、このレールが決まった茶番劇みたいな人生に到底納得できないのだろう。

 

神への叛逆を企てたヨナは大魚に食べられる。その大魚は神の使いだ。

僕は、その大魚となるのだ。神として、メルンを食べる。

世界を支配するために、神となるのだ。自分自身の世界を自分で切り開くためには、自らが神とならねばならない。自ら造物主となる以外に、永続する物語から抜け出すことはできないのだ。

僕はナイフを往復させる。その奇矯な好意にもかかわらず、メルンはただ黙ってなされるがままだ。メルンに僕の行為の意図が判っているとは思えない。それでも、僕が何か大事なことをしようとしていることは理解しているようだ。僕を信頼して(そう解釈したい)身を任せてくれているのだ。

 
もしかしたら、ジャンがいるこの世界はENDINGという到達点を迎えても、何度も何度も設定をすこし変えられつつも再スタートさせられる所なのかもね……なんて悲劇的な想像さえ出来る。

"永続する物語から抜け出す"

というのは、そういうことなのではないか?

もしジャンに「死」があるのなら――それは人間としての死なのか?それとも物語世界としてのキャラクターの死なのか?――自分が造物主になり終わりのない物語を抜けだそうとは思わないだろう。

逆にいえば、「終わらない世界」にいるからこそ、そう気づいてしまったからこそ、ジャンはここまで必死になって儀式を遂行しているのだ。

それは今この瞬間行っている擬似的なカニバリズムでもあるし、また非日常√でメルンに行ってきたことも含まれる。

 

 

僕は、様々な世界にいた。

その中には、メルンと何度も情交に及んでいた世界もあった。その世界において、僕は《海より深い事情》という言葉を使っていた。なぜメルンを苦しませるような情交を結ぶのか、という自問に対する回答として。

――《海より深い事情》があるから、僕はメルンにひどいことをするんだ。

そんな風に考えていた。その時、《海より深い事情》の中身について、深く考えてはいなかった。というより、知ってはいなかった。ただ、その言葉だけが脳裏に浮かんだのだ。

しかし今は、それを説明することができる。

 

この世界は理不尽な神によって支配されている。僕とメルンはハッピーエンドを迎えられるように宿命づけられている。僕とメルンは、その宿命をトレースする以外に生きる道を与えられていない。

そのこと――世界の真実に気づいてしまった。

自分の人生があらかじめ決められていること。そんなことに、僕は耐えられなかった。自分で自分の生きる道を切り拓きたかった。

僕は、神の定めた道から逸脱しようとした。自由を掴もうとした。

決してハッピーエンドを迎えられないような選択をして、僕はメルンに苦痛を与えた。そうすれば、別の未来を手に入れることができると思った。自分勝手な行動だが、神に支配されるのだけは我慢できなかった。

……それが、《海より深い事情》だった。

 

――ジャン(フロレアール

 

そう"決してハッピーエンドを迎えられないような選択をし"続けてきたのが、非日常√だ。

メルンを道具のように扱い、暴虐の重なり合いをすることで二人とも幸福になれるはずがない、と考えても不思議じゃない。ジャンにとって一連の目が痛む行為は(その√世界の事情も多分に含まれながらも)根底にあるのは「幸福ではない結末を迎えたかった」のだ、と。

しかし、どれも失敗だと彼は言う。

 

しかし、その試みは惨憺たる結果に終わった。

道を外れようとした僕の試みは、神に拒絶された。神に拒絶されて、僕は存在を消失した。

世界から弾き飛ばされて、無に帰した。

フォルキシアの深淵へと落ち込んだ。

唐突に訪れた《外部》によって生命を奪われた。

それでも……僕は諦めない。 

 

――ジャン(フロレアール

 

 非日常Aでは、メルンが窓から落ちて、その刹那、精神が超越し、二人はいつもとは違う地下室で重なり合いをした。そして唐突に物語は終わった。

この時、精神の超越から戻ったジャンとメルンはお互いを呼びながら、メルンは落下し、ジャンの視界はブラックアウトした。

これ、全く幸福な要素がなくどちらかといえば「不幸な結末」にしか見えない。ジャンにとってこれはなぜ"失敗"だったのだろうか。

 

おそらく、それはジャンが「不幸な結末」を"見"る前に、フォルキシアの深淵へと落ち、メルンの無残な死を観測できなかったからだと仮定すればどうだろう?

つまり、あと数瞬でふたりは不幸になるはずだったが、それを目撃するまえに神によって阻止され物語は"ぷつん"と唐突な終わりを余儀なくされたのだ。

 

「メル――!」

僕はメルンの名を叫ぼうとし。

「ごしゅ――!」

メルンは口をぱくぱくさせて僕を呼ぼうとし。

 

「――ン!」

「――じんさま!」

どすん。

音が聞こえた。

 

視界が再び閉じた。

 

――ジャン、メルン、非日常A√終盤・フロレアール

 

非日常Aでは「このあとどうなったか?」は語られない。その不自然さが上述した答えを導くような気がする。

どう足掻いても、この世界で、ジャン達は「不幸になった」と実感することはないと。

 

そういった幾度かの経験によって彼が、エレミヤのように「男が女を押さえつけ、俺のものになれ迫る姿を神に重ねている」言葉を引用するのも判る気はする。神、お前が僕にやっているのはつまりはこういうことなんだよと。

 

ヤハウェよ、あなたはわたしを誘い、

わたしはあなたの誘惑に負けました。

あなたはわたしをつかまえて、わたしに勝ち給いました。

わたしは終日人の笑いとなり、

人はみなわたしを嘲っています。

『エレミヤ書』20章7部

 

 

……僕は、神に魅入られた不幸な老エレミヤのようにはならない。

理不尽な運命に、あくまでも抵抗してやる。
いや……理不尽かどうかなんて問題じゃない。ただ何ものかに操られているのが気に入らないだけだ。

「――神よ、見ているな?」

(中略)

「神よ、その双眸でじっくりと見ているがいい。僕は絶対にお前のいない世界へと飛んでやる。僕はお前を克服してみせる」

 

――ジャン(フロレアール

 

 

 

 しかしメルンは微笑むのであった

 

メルンは《幸福》の象徴だからこそ、内側に幸いを秘めているからこそ、どんな状況に置かれても彼女は"不幸にはならな"い。

そう不幸とは所詮、当人の気持ち次第なのだ。

状況が不幸を招くのは確かだが、あらゆる状況を飲み込み、すべてを幸福的な価値観で睥睨するものがいたとしたら、その人にとってあらゆる暴力・苦痛は不幸にはなりえない。

全てを肯定し、全てを受け入れる。メルンというパートナーが居る限り、ジャンはひどく不幸にはなりにくいと言っていいかもしれない。

 

――神よ、絶望の声を上げろ!
僕は心の中に叫んだ。
ナイフはメルンの喉元を目がけけて一直線に―――
その時、僕は信じられないものを見た。
メルンの顔に。

それは、笑顔だった。
メルンの顔に、笑顔が浮かんでいた。
全てを赦す笑顔が、そこにはあった。
――ご主人様になら殺されてもいいです。
笑顔は、そう言っているようだった。

 

僕は、ナイフが喉元を突く寸前で手を止めた。

そして、ナイフをその辺に力任せに放り投げる。

ちゃらんちゃらん。

ナイフの転がる音がした。

――ご主人様になら殺されてもいいです、だと?

僕は喉の奥で唸った。

ジャン「そんな台詞が通用すると思ってるのか! 殺されてもいいだと? 都合が良すぎはしないか? どうあってもハッピーエンドにしたいのか? そんな風に全てを肯定するな! 約束された救いなんか、僕は要らない!」



――『フロレアール

 
つまり、ここでジャンが設定しているであろう「不幸」とは、「メルンとジャンが互いに『不幸』であると認識しなければ『不幸』ではない」ということになるのではないか。

もしこのあとジャンが微笑んでいるメルンをナイフで殺害したとしてもそれは、状況からみて不幸なだけで、結果的に、総合的に見て不幸ではないと判断してしまう。だからこそジャンにとってこの「メルンが全てを赦して微笑む結末」なんてのも当然受け入れられない。

むしろ、メルンが不幸だとさえ思ってくれれば、ジャンも引きずられてその結末を不幸だと思うはずなので、幸福の具象である彼女さえなんとかできればいいんだよなあ……。

だからこれは「互いが不幸であると認識できるか」は確かにそうなんだけど、もっといえば「メルンにどうすれば不幸だと思わせられるか」が争点になっている。

しかし……メルンはきっとどんな状況でも受け入れるだろうからなあ……。

 

絶望が、心を覆っていた。無力感が精神を支配した。

僕は敗北したのだ。神との闘いに。

――畜生、全部フィクションなんだろ!

心の中でうめいた。

………………

…………

……

ジャン「……ふん、もういいさ。フィクションでいいさ」

僕は呟いた。

ジャン「……駒で構わないさ。僕を永遠に使い続けたらいい」

メルン「ご主人様……」

僕を心配したのか、テーブルの上からメルンが声をかけてくる。

ジャン「メルン、別に構わないよ。ああ、ハッピーエンドでいい。約束された幸福を永遠に繰り返そうじゃないか」

そして、僕は乾いた笑い声を上げた。

からからと、僕は笑った。愉快でも何でもない、無で覆われた精神状態で。

 


――『フロレアール

 

この 

"駒で構わないさ。僕を永遠に使い続けたらいい" 

という言葉は先にいった「ジャンは永続する(=設定を変え新しい物語を再スタートされ続ける)世界にいる」ことへの証左になりそうじゃない?

 

それは自分に置き換えてみるとわかるけど、そんなクソッタレな生き方は嫌だよなってなるよな……。なぜなら終わりがないから。幸福な人生を歩ませてくれるのはアリでも、それを永久に、死なない始まりを繰り返されることを知ったならばそれは嫌悪に値するのではないか。

 

 

メルンの内面

 

ただ、わたしは信じている。

この人はきっとわたしの元に戻って来ると。

「ほら、ご主人様、あんなにカモメがいます」

カモメの群れが、西から東へと飛んで行く。


わたしはいつまでも待つ。

約束をしたから。

 

ご主人様は、カモメのフンでできた大きな柱があると言った。

――そこに連れてってくれるって、あなたは言いました。だから、わたしはいつまでも待ちます。嘘ばっかりつくあなただけれど、わたしはその言葉を信じます。だから、待ちます。

………………

…………

……

……カモメの群れが、やがて見えなくなった。

………………

…………

夢を見ている気がする。

あれから(どれから?)、どのくらいの時間が経ったのだろう。

僕はどこまで来たのだろう。

 

時は流れてゆく。

メルンは男の世話をしながら燈台守を続けていた。

ルーティンワークを繰り返しながら。

男が戻って来る日を信じて。

ひたすら、待った。

 

――メルン(フロレアール

 

メルンの視線はここでようやく見ることになり、普通の女の子のようでさえある。それはジャンが概念化した「《幸福》=メルン」というものではなく、感情に揺らぎがありちゃんと気持ちを持つひとりの人間であると。

しかし……ただメルンの「ルーティンワークを繰り返しながらジャンを待つ」というのは、さらりとやってのけているけれど正直なかなか出来るものではないかなとも思う。

メルンのこの「信じ」るという部分において、彼女はジャンが言うような存在であるのかもしれない。

 

 

 

対話・ダイアローグを借りたモノローグ

 

ここではジャンはメルンと会話しているが、しかしそれは独語であると言う。つまりはジャンがメルンという存在を想定して頭の中で話しているのに過ぎないというわけだ。

そしてこの「ダイアローグを借りたモノローグ」という事柄自体が、これからジャンが話す内容と同義なのだろう。

 

――これもまたソリティアトラップに過ぎないと、ね

 

ジャン「メルンは神様を信じるか?」

 

(中略)

 

ジャン「いや、僕とか身近な人間のことを言ってるんじゃなくてだな、この世界の《外部》の何かが手を差し伸べてくれるとか、そういうことを信じるか?」

メルン「わたし、そんな難しいこと、解らないですぅ……」

ジャン「そうか。そうだ、メルン。僕が昔神父やってたって話はしたよな?」

メルン「は、はい」

ジャン「……神父をやってたその当時、僕は神様って奴を信じてた。この世界の《外部》で僕達を見守ってる奴の存在を信じてた」

メルン「はぁ……」

 

ジャン「けど、ある時、僕は気づいたんだ。それは《外部》なんかじゃないって。むしろ《内部》なんだ。だって、祈りっていうのはそういういもんだろ? カードの独り遊びみたいなものなんだ……」

メルン「あの、ご主人様……?」

ジャン「それでだ……。僕は気づいたんだ。《外部》と《内部》はひと繋がりの円みたいなものなんだって。全ては独り遊びなんだって。……これはなかなか恐ろしい考えだった。僕は結構絶望したよ。孤独ってことの意味を初めて理解したな」

 メルン「……」

 

――『フロレアール

 

神がいると仮定する。それはすなわちこの世界の内側を外側から眺め見るものだと言える。

しかしそれは本当に外側に位置するのだろうか? 実は内側に位置するのではないか? 僕たちが神様に祈るときそれは自分の心の内に向けて想いを→届かせようとするのではないか。ならば、神というものは世界の外側にいるのではなく世界の内側、ひいては自分の内側に存在しているだけなのではないか?

ジャンが言っているのはそういう疑問なのだと思う。(なんというか、こういうのって、超越的な自己批判と言えるのかもしれない)


そういう疑問に対し、彼は「内部と外部はひと繋がりの円みたいなもの」と結論付ける。これは、そもそも内部と外部は二項対立ではなかった、と言っているのではないか? 内部とか外部とかそういう「区分け」って恣意的なものなんじゃないの?って。

・内部⇔外部

こう対立していたけれど

・内部――外部 (対立がなくなって)

・ ◯ (こう2つがぐるっと繋がってる状態)

こういうふうに、結局内部とか外部ってのは「区分け」がされていない状態だったんだ、ってことを彼は言いたいのではないか。

 

  ◆

さっきも言ったけど、このジャンの「ダイアローグを借りたモノローグ」もまたそういう構図だよね。本当はひとりで喋っているんだけれど、二人で喋っている状態でもあるし、そうできる。

そして、この「本当はひとりで」とかそういう区分すらもまた無意味なのかもしれない。対話に見せかけた独語だろうがなんだろうが、その両端は本質的な意味においては同じであると。全く変わらないのだと。独り遊びでしかないと。

 

  ◆

ジャンは聖職者であり神を信じる者だったからこそ絶望したんだろうなと思える。私はこの考えを受け入れられるし「そうだね」って思えるけど、全然絶望しないもの。

自分を見守ってくれて――もしかしたら背負ってくれていた―――神が実は自分の独り遊びにすぎないと知ったら……まあ……そりゃなあ……ってさなるよ。

「神」はいなくならないだろうが、神聖で崇拝していたであろう絶対的な「神」はこの時瓦解するだろうね。

 

 

 

魂を超越することを「奇跡」と呼びたい

 

メルン「ご主人様、わたしたちは幸せなのかも知れませんね」

……ご主人様は、文字通りの自分だけの世界に行ってしまった。そしてご主人様はご主人様の世界、わたしはわたしの世界に生きていて、全然交わらないように見える。でもそれは、世界の真実が目に見えるような形になっただけのことなのかも知れない。本質的には何も変わっていない。ご主人様と楽しく暮らしていたあの時と、全然変わっていない。

2人が別の世界にいるからといって、それは《結びつき》を否定することにはならない。2人が別の世界にいる――そんなこと、当たり前のことだ。人が2人いれば、世界も2つある。当然のことだ。

 

でもそんなことは、本当に結びつくということとは関係がない。生きている世界が別々でも、人は交われる。人と人が結びつくという奇跡みたいな出来事だって、ちゃんとある。

人はみな自分だけの世界の中で1人で生きているけれど、でも魂を超越させてどこかで結びつくことができる。人には、それができる。世界の壁を超えることができる。わたしは、それを奇跡と呼びたい。

そして、ご主人様とわたしは奇跡によって結ばれているんだって信じている……。

だから、わたしたちは今でも、そしてずっと、永遠に幸せなのだ……。

 

――『フロレアール

 

言葉があるから、普段は他者と自分の世界は実は違っているのだ。なんてことはとても可視化されにくい。けれど本当はひとりひとり、ひとりひとりの世界を持ち、その世界で我々は生きている。

時としてその齟齬というか差異が明確に現れる時もある。そんなふうにひどく分かりづらいけれど、実際はそうなのだ。だから「自己世界」で完結するものも人間の中では現れるんだけどね。当然社会的にはうまく生きてはいけないのだけれど、そういうのを目の当たりにするとやはり我々は自分自身の世界で生きているんだなあと再認識させられる。

メルンはそうであっても問題ないとし、世界が別々でも人は交われるという。


―――"世界が違って"も?


世界が違うってことは、ここでも「自己世界」と「他者世界」というふうに二つの区分がなされている。けれどメルンからすれば魂を超越させて、異なった世界の人同士でも結びつき、交わることができるとする。

それはまるで、世界の壁が取り払われたように。

――世界の壁を超えて

あるいは、ここでもまた「自己世界」と「他者世界」は一見対立しあっているけれど結局はそんな区分けも二項対立も関係なくてひと繋がりの円でしかないんだろう。

 

~END5・了~

 

 

 

 そしてED6・閉幕へ

 

 

「……メルン、僕は考えてたんだ」

そのご主人様の口調は、まるで自分に語り掛けるようだった。

「……長い夢の中で、僕は考えてた。《フィクション》っていうことについて。僕は、《フィクション》っていう観念に取り憑かれて壊れてしまった……」

ご主人様は、訥々と話した。

 

……貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズム。

……僕たちの周りにある価値観の全て。

……それは、全部《言語ゲーム》なんだ。

……ウィトゲンシュタインが言ってたみたいに。

……でも、そんなこと言うまでもないことなんだ。

……そんなことが重要なんじゃない。

 

 

……僕たちはみんなフィクションの中を生きている。

……初めから判りきっているさ、そんなことは。

……けれど、大事なのはそんな白明の事実じゃない。

……全てはフィクションだっていうのは絶望じゃない。

……大事なのは、世の中の色んなフィクションを1つ1つ見当してくこと。

……そして、自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと。

……そう、そのことが、多分大事なんだ……。

 

……《外部》って考え方は、《内部》と同じことなんだ。

……そうやって《外》と《内》を分けることには、何の意味もないんだ。

……それは、独り遊びの罠に過ぎないんだ。

……僕は、それに落ち込んでいた。

 

……けれど、僕は独りじゃない。

……そんな簡単なことに、やっと気づいたんだ……。

 

 
ジャンが言っているのはいわば「言葉は世界だ!」っていうお話で、となるとそれは神だと造物者とか関係なくても「元からこの世界ってフィクションだよね」っていうね。

そして僕たちがいる世界がフィクションであると受け入れて、その中で一つ一つ見当し、何が自分に意味があるのかそうでないかを確認する。そういった超越的自己批判精神とでも呼ぶべきものをジャンは大事なんじゃないの?って問いかける。

ここを(そうだな)物語(フィクション)に置き換えて読んじゃうとかなりまずいのだけれど、でもそれを承知で読んでみるとこれもまた物語の接し方において大変有益なものであるのは間違いない。

すなわち、ジャン風に物語codeをぶっこむと「物語がフィクションであるかどうかなんて関係ないんだ。そんなことは判りきっていることさ。そうじゃなく、それが自分にとって意味があるのか、そうじゃないのか、確認していくことが大事なんじゃないかな。それにそうやって《現実》と《フィクション》を分けることは何の意味もないんだ。なぜならそれもまたひと繋がりの円みたいになっているのだから。」

  ◆

「外部」という考え方を設定することは、同時に「内部」という考え方を設定することになる。これはなにもこの2つだけではなく、人間が創りだしたあらゆる区分・対立は全てそのようなものだろう。

男/女、光/闇、主/従、純情/因乱、人/神、地下/天上、日常/非日常というふうな対立もまた同じ。

けれどそんなものは無意味だと、ジャンは言う。なぜなら独り遊びにすぎないのだから、と。

そう大事なのは、そういった―――を―――することである。(ここは今度)

 

 

物語は、フロレアールは、閉幕した

 

「……おかえりなさい」

わたしは言った。

 

「……ただいま」

ご主人様は言った。

 

ジャン・ロータルは微笑んで。

メルン・ポーリャンは泣き濡れて。

潮風が天空へと吹き上がり。

カモメが地を這うように滑空し。

 

 

       ――物語は閉幕した。

 

 

 

Solitaire trap in the abyss of the existence of the human.

we must get it over.

 

ここででてくるabyssって最初は、日常Aで現れたジャンの《嵐》―――つまり心の負の内攻のことかと思ったんだけど、もうここまでくるとそいつは違うなって判るよね。

じゃなくて私たちはどう考えても観測者であり、恣意的に物事を見続ける存在なんだなって突きつけてる。このお話はまた今度。

 

 

 

floreal fin

 

 

 

 

 

*1:メーカー13cm/原画あんみつ草/シナリオ元長柾木/ うつろあくた(シュート彦