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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

【聲の形1】少数派への接し方と教育

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全7巻『聲の形』読み終わりました。(2015/4)

いろいろ書きたいことがあるので次回、次々回、次々々回といったふうに続けて投稿していく予定ですが投稿しないかもしれません。未定だけど書きたい欲求はあるという奴ですね。

今回はその第一回目、1巻の感想です。

 

 

 

少数派への対応と教育

 

水門小学校に西宮硝子が転校してくる。西宮は耳が聞こえない女の子で、そのためか発話によるコミュニケーションが難しかった。

最初の頃はそんな西宮硝子も「すこし変わった奴」程度の扱いであり、多少コミュニケーションが取りづらくても周囲の人間は許容してくれるようだった。ただ彼女のせいで授業の進行が遅れたり、彼女の為に手話を覚えるというようなクラスメイトへの負担が大きくなっていくと、クラスメイトの態度が変わり始める。

そして西宮の立ち位置は移行し、虐められるようになる。

これには石田将也の「退屈な日常を楽しくする」ちょっとしたいらずらという名の「いじめ」が呼び水になったのかなとは思うが、それだけではなく、西宮硝子との意思疎通がうまくいかないことへの違和・不満が大きくなったからこそクラスの大半がいじめに加担(=告発や遠目で眺め見るのも含む)したのかなと思う。

最初はみんな彼女を理解しよう、対話しようとしていた(ように私には見えたけど)それが壊滅的なものだと感じるとそのフェーズを諦めてしまうのかなって。そして「よくわからない西宮」は、「おかしな奴」とラベリングされはじめてしまったのではないか。


それにしたって……なんでこんな事が起こるんだろうと思った。圧倒的な教育不足のせいだなとも思った。

生徒ひとりひとりが少数派・障碍者への対応をどうしたらいいかわからないし、知っておくべきであろう教師もまたそこの欠如が見られた。誰も彼もが「面倒くさい」かどうか「自分に負担がかからないか」の決断基準でクラス運営の舵を取っていくからこそこんな事態になってしまったのではと。

political correctness的判断がないし、知識がないし、理解がない。少数派への対応が知として無いのならば、後は利己的に皆が動くのは必然なんじゃないか。

そして私自身どうしたらいいのか分からなかった。自分自身の知識不足が露呈し突きつけられる居心地の悪さを感じた。

一体あの時どうすれば良かったんだろう?……「クラスで手話を覚えよう」と発案がなされた時、あそこが大きなターニングポイントでありポイント・オブ・ノーリターンだったように思う。

けれどあそこでどんな振る舞いをしようと、少数派(=ここでは先天性聴覚障害)への知識の前提が無いクラスメイトに一体なにが通じるのだろう…。知識とは理解するための土台であり、土台がないならば理解は得られない。感情に訴えるだけでは難しい。

そんな知識が不足しているクラスメイトの中で、佐原のように率先して手話に取り組む意志を見せても「ポイント稼ぎごくろーさま」と言われてしまうのがオチなのだろう。political correctnessという考え方が無い場合、少数派一人の為に多数派が負担を強いる事が起きると誰も率先してやらないものだと思う。何故なら「何であいつの為に私が頑張らなきゃいけないの」という気持ちが生まれるものだから。

親しくもない、友だちかさえも怪しい人の為に、自分に負担がかかればそりゃそう思う。それは素直な気持ちだからこそ、"納得"が生まれてしまう。心に"納得"が生まれれば人はそれを正しいものだと思い始めるというのが私の持論でもある。理屈じゃない倫理でもない納得だ。

今までは「手話」という言語を覚える必要はなかった。でも西宮硝子という一人の為にクラス内のルール(必要性)が変えらると―――彼女が優遇されるように感じたり中心的位置に存在しているように感じられてクラスから反発は生まれてゆくんだと思う。(=優遇されるように感じるという"認知"であり"事実"として優遇されているかどうかは関係ない)

先にも言ったように、「何であいつのために私が頑張らなきゃいけないの?」という気持ちが納得を生み、納得は正しさに変わり、正しさは自分の行動を保証するようになる。

植野直花やその他大勢の、西宮硝子への反発は、自分の気持ちを大事にしたからこそだろう。そしてこの時に、知識としての少数派への対応の"納得"があったならば、それを足がかりにして、(反発の少ない状態で)クラスが手話を覚えようとしたルート世界もあったのかもしれない。

 

 

人は固有性を備える

 

不特定多数を管理、快適に暮らす為にルールが必要になってくる。それは法律(見えるルール)、倫理(見えないルール)といった様々なものを皆守れるものは守ろうとするし、ルールの上で何とかやりくりしようとする。

けれど "人は固有性を備える" からこそ、どうしてもそこからズレてしまう人がいる。画一的な管理は困難なことがある。

でも多数派に属する人は自分達がしていることは「当たり前」で「正しい」と思っている場合が多い。その理屈が十全に分からなくても、それは正しいと刷り込まれてきたからこそ点検することもないし振り返ることもなく「正しい」という態度を取る。慣習的なものや機能性が失われているルールでさえも、「今までそのようにしてきた」「みんなやってるじゃないか」という詭弁(多数論証)を使ってその正しくもない正しさを宣言する。それが詭弁とさえも気付かない。 

 

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薬師 実芳,古堂 達也,小川 奈津己,笹原 千奈未
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さいきんLGBTセクシャルマイノリティについての本を読んでいるのだけれど、もしこれらの知識が無かったらで同性愛者の方に対し「どっちが男役なの?」. 「わたしを好きにならないで」「レズビアンってどうやってセッ久するの?」「あなたは本当のレズビアンじゃない」と平気で言っていたかもしれない。

不愉快で失礼な言葉だと今なら分かる。けれど知識として知り得なかったら想像力すら働かせなかったかもしれない。

何にせよ、初対面の人・親密な間柄ではない(そして親密な間柄であったとしても)、不躾に性の話題を根掘り葉掘り聞くのはダメだし、そもそも同じ異性愛者にだってやらない事を(私は異性愛者なので)、"自分とは違う"という事で思考停止してやってしまう危険性があるんだなと分かる。今だって知らず知らずやっているかもしれないが…。

余談だが書籍『LGBTってなんだろう?』『百合のリアル』にあった性の在り方は多様という視点は興味深かった。

今まで私は「男」「女」「レズビアン
」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」といった分類で性を捉えていたがそもそも性の在り方は分類できないのだそうだ。

これらの分類された言葉は複雑な性の在り方を理解する便利なツールではあるが正確ではない。本当は一人一人、ひとりひとりなりの性的嗜好から性的志向、体の性、心の性のパラメータが細かく違うため、分類自体が無意味だそうだ。ポモセクシャル、つまり近代(モダン)以後(ポスト)の分類は無意味だとする立場もあるそうな。

さらに女性・男性の性別のいずれでもないという性別の立場をとる人々「Xジェンダー」という方々もいると聞きなるほどと思う。これもまた人は固有性を備えているからこそだろうか。

聴覚障害セクシャリティに限らずこういった少数派への理解を小さい頃に授業・教育として教えてくれればよかったのになあと『聲の形』を読んで思う。