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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

言葉の世界で行なわれることは、ただ正しいだけ

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(TVを見てふーんとしている天音さんの図)

 

言葉というものはメタ性質を持っているので、例えば何が正しいのかどれが正しいのかを追求していくと「その☓☓は正義か」「正義とは何か」「正義を有するにはどうすればいいか」「正義の資格をお前は持っているのか」と言葉はどんどんズレていきメタ運動は止まらなっていく。

そうした意味において言葉はただ正しいだけのものになっていくことがしばしばある。

ある問題が発生した、その問題について多くの人が主張しはじめた、その場合、その問題を現場で実行し解決できるかどうかは関係なくただただ大衆の総意によって形成される倫理を最上位に置き "人間らしさ"、美徳、生命への畏敬を振りかざしいかにその発言が(誰もが認める)「正しさ」によって競われることを目にした人も多いだろう。

現実では使えない―――言葉だけの正当性。

特にネットベースの話し合いでは(みんな画面から情報を取得して発言しているだけなので)その現場・現実を目の当たりにした上で発言している人は少ないく、言葉だけが正しい状況が強くなっていく。

その現実を目の当たりにした人の現実味ある主張は、「そんなこと言うなんて信じられない!」「人間をなんだと思っているんだ」という倫理的性質を強く帯びた主張とぶつかるのも大概これだ。

言葉だけの正しさは、いくら正しくても、それは「言葉の世界」の中だけのお話でしかない。問題を解決するために倫理・畏敬を振りかざしても現実では役に立たないのである。

正しさで人は変えられない―――という言葉があるように、人を変えるには正しさではなく「実感」なのである。けれど言葉はその意味において弱く実感を与えるまでにいかないことが殆どだろう。

だからこそ言葉のみを受け取るしかないし、そうしてそれがいかに正しいか?という意味においてどんどんメタ化していってしまう。

町中を走る演説カー、テレビで流れる偉人の言葉、本で読む海外の劣悪な状況、ネットで見かける誰かの怨嗟、嫉妬、怒り、喜び、全て空虚だ。

 

回心体験をした者をいくら言葉で引きとめようとしても無駄なのは、それもまた言葉の世界のお話だからだ。言葉の世界のお話は、圧倒的に納得による「実感」に欠けているから、「そっちの宗派に乗り換えてはいけない」なんて主張は自身の納得ある鮮烈な体験をした者からすれば「お前はまだわからないんだ」と思ってしまう。

逆にいえば物質的に構成されている現実世界ではこの実感と納得をとても得やすい。実感と納得によって育まれた経験はその人にとって真実となり正しさとなることが多い。これが何故そう思えるのかは知らないが、我々は実感を再優先としているきらいがあるのでないか。

だからこそ社会的に正しくないとされることでも、人は倫理を蹴り飛ばし、正しくないことを正しいものだと認識し事を為すことがあるのだ。

例えば多くの国では人殺しは禁忌とされているが、日常的な虐待、力いっぱい握り締められた拳を頬に打ち付けられる毎日、そんな日々を繰り返された者にとって対象者を殺害することに何ら迷いがなくなっても不思議じゃない。それは彼が「してはいけないとされる殺人を、"してもいい"と思える実感を手に入れてしまった」からだと言える。

実感と納得にもたらされた自身の結論に対し、実感を伴わない「言葉」はただただ無力で無意味だ。

言葉で人は納得しない。
言葉で人は変えられない。

言葉の世界のお話は誰かさんかすれば「お前は正しい、けどただ正しいだけだ。そんなもの俺はいらない」と吐き捨てるに違いない。

よく「あの人は意固地だ。頑固だ」という発言をする者がいるが、それは要するに自分の言葉に従わない奴は悪だと言っていることと何ら変わらい。これも「言葉では(実感によって得た)結論を変える事は無い」というだけの話なのに、そういった事を斟酌せず自分の正しさを押し付ける形になっている。

そして「あいつは意固地だ頑固だ」と言っている本人は、「俺は他者を自分の期待通りに動くと盲信しているヤバイ奴だと」いうことを自ら教えてくれるので有り難い。

(当たり前だが)誰かの言葉によって、今まで自分が培ってきた価値観を変える人は珍しい。もし変わるとしても、元々変わるための価値観を育んできていたか、もしくは変わることを躊躇しないくらいのどうでもいい意見だったのではないだろうか。

そしてもし、相手の考えを変えたいと望むのならば、いかに正しいではなく相手が「納得」できる言葉を探してぶつけるのが最もいいだろう。

つまり、相手が得てきたであろう実感を想像し、経験を推測し、その実感にそった言葉を投げかけることで当人の納得を育むのをはかるということだ。とはいえその投げかけるものは「言葉」でしかないのだから望みは薄いだろう。

一番いいのは、納得させたい事柄を「納得させるための体験」を相手にさせるのがいいと思う。そういう場所に行ったり、そういう物質的な行為をし、体験させ、相手に実感を覚えさせるのが一番いい。

 

実感は、言葉をたやすく上回るってことだあね。

 

 

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この記事を書く動機になったのは、「文字や言葉で伝達されるものが理解されるとき、それを読んだ人に納得・理解してもらえる『実感のカケラ』とでも呼べるものがあったからなんだろうな」と思ったことから。発話、SNS、ブログ、なんでもいいけど、言葉で交わされるものってその言葉に込められた『実感』を共有出き無かったら何にも届かないんだよね。あと物語(Narrative)がやばいのはつまりそういうことなのである。ソファに座る準備はOK?