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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

パーソナルスペースと自我

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パーソナルスペースというものがある。他者が近づくと不快に感じる空間のことであり(文化や個々人によって差はあるが)一般的には親密な相手にはスペースが狭く、敵視している相手には広いと言われている。

 

――先日、あるお店にて座り並び待っていたことがあった。私の隣に座っていたのは10もいかないくらいの男の子で、その男の子とどうしても話したくて話したくてたまらなさそうな妹とおぼしき女の子が駆け寄ってきた。

女の子は、私の前を横切ることはせず(そもそも店内は狭く無理だ)眼前に立ち、直立した状態で男の子と歓談し始めた。私の距離とその女の子の距離は30-50cmくらいしかなかった。かなり近い。てか近い。

普段の私ならここまで見ず知らずの他者が近寄ってくると(誰でもそうだと思うが)抵抗感があったり、拒否感が出てきたりする。見た目が胡散臭そうなニーチャンならばなおさら嫌悪がにじむに違いない。

けれど、今回の場合においてそういった「パーソナルスペースへの侵略による不快感」というものを感じられなかった。あれ?

さらに私の眼前にいる女の子に限っては、目線をこちらに向ることなどはなく、むしろ私の事を意識するそぶりすら見せず男の子と会話し続けていた。お互いの顔と顔の距離が近いこの状態で全くこちら側に意識を一ミリも飛ばさないってすごい。彼女がもう少し年齢が上ならば絶対にお互いイヤーな空気が漂う場面だったと思う。

しかしそういった不快感をお互いに感じなかったのを見て取り、もしかして「このパーソナルスペースって自我に関係があるのでは?」と思い始めた。

 

パーソナルスペースと自我

 

幼少期の人間って自我がまだ発達していない。内的世界と呼べるものが確立しておらず「内界/外界」の「/」←の境界線がきれいに引かれていない状態だと言える。

そして、そんなふうに内的世界が確立していないからこそ自己というものが不安定だからこそ、容易に他者を受け入れる土壌があるのかなと思う。

全員が全員そうだとは思わないが、自我が発達していない場合そういう傾向にあるのでは? と。

今回のように――対象者が明確な敵対行為、あるいは暴力を顕現化させていない場合――見ず知らずの他者にたいして抵抗感を感じる場面は少ないのではないか。少なくとも第二次成長期以降の発達した自我と比べると格段に差はあるように思う。

「隠者」の概念をここで引き合いに出すと、彼ら隠者は「パーソナルスペースによる不快感」って感じ無さそうに思える。いやだって、彼らには"他者性"とよべるものがなく、自我と呼べるものが確立しておらず、まさに「形式」のみで生を謳歌しているはずだからだ。

形式のみの生って、「人間らしさ」とか「人生」という言葉に込められた現時代の豊穣な含意は消え失せてしまうんだけど、でも、生の在り方としてはすごい楽だと思う。(楽しいかどうかは知らないけど)「なぜ生きるのか」なんて馬鹿馬鹿しい考えを持たないくらいには楽だから。

書き言葉の発明によって、人間は精神的な内面への探求を行えるようになったけれど、しかしそれは果たしてよかったのかとか考えちゃうよね。別に馬鹿でもよかったとは思うんだけど……ただまあそうするとここまで社会が発展しなかったと思うので、今後の人類は現時代の社会維持をなせる前提を持ちつつ、形式的な生を営んでいきたい感じはある。(いやそれって人類の問題じゃなくて私の問題かもしれないけど)

話が脱線した。つまり自我が発達していない場合パーソナルスペースは基本的には"狭い"と言えるのではないかなということだあね。真偽のほどはともかく、今の私にはそう思える。

そしてパーソナルスペースといえばあの「二階堂麗華」ですよねわかります!きゃー麗華さまー素敵!!!(唐突な『暁の護衛』の販促入りましたね?!)