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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

作者が装置ならば、読者もまた回路にすぎない

思考の種子
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作者は装置であることを以前に言いました。


できれば元記事読んでからどうぞ。

 

要約すれば、「作者は装置でしかない」といった立場から、作者の意見は絶対的なものではなく読者と同じ地平にたったひとつの解釈にすぎません。ゆえに物語を明らかにするとき、"作者はこう言っている" という理屈付けは無意味であります。

ちゃんと "登場人物のAがこう言っているから☓☓であった" といった物語に即して理屈付けをしましょう。そして作者探しを終え、物語の内実に目を向けてみましょうと。


今回はそこからのお話です。作者が装置ならば、読者もまた回路だよねと。

 

 

読者は《物語そのもの》を生み出す回路にすぎない

 

映像媒体でも文字媒体でもいいですが、物語を読んだとき読者は観念である《物語そのもの》を生み出します。

 
<参考>

 

 

密度があり色鮮やかな《物語そのもの》か、はたまた薄っぺらく脆い《物語そのもの》かを生み出すかは読者自身に関わってきます。

例えばアニメ『中二病でも恋がしたい!』を見て反応が違うこともこれで説明できるでしょう。

ある人は「萌えだけのアニメだった」と語り、またある人は「現実と虚構の摩擦によって生まれる自己否定の辛さを描いたアニメ」だったとし、「泣いた」「駄作」という人もいるでしょう。

それくらいに同じ展開、同じ色、同じ音、同じ物語を見たとしても千差万別に個々人のアニメ『中二病でも恋がしたい!』の《物語そのもの》は違ってきます。

これは読者の個体差によって決まってくるものだと見ています。それはまるで物語を魔力とし、魔力を(読者という)魔術回路が取り込み《物語そのもの》という名の魔術を生み出すかのようです。

読者が取り込んだ魔力(=物語)に対し、強度のある魔術(=《物語そのもの》)を生み出せるかはその回路の出来にかかってきます。その先天的な回路保有数はあらかじめ決まっており、そこから他者へ移植したり、訓練によって回路の強度自体を上げてみたり、はたまた劣化していく、そんなイメージですね。

つまり、ある物語に対しどういった反応を持てるかは読者自身(回路保有者)に関わってくるということ。

 

回路が壊れていれば、どんな優れた物語を観ようとも「つまんない」「駄作」と言うでしょうし、逆に一般的にレベルの低いとされる物語でもある回路保有者からすれば「すばらしい」と膝を打つでしょう。

さらに、ある物語には適したそれを汲み取れる回路があり、ある物語を大好きと思うにはそれに即した噛みあう回路が必要になる―――そんな考え方もこの「作者が装置であるなら読者もまた回路である」には含まれています。です。受容理論に近いでしょうか。(注意点としてはこの「回路」という概念は、知識主体によるものではなく、感受・感性を主体としたもので使っています)

 

ある物語がレベルの低いものだと感じたとき、それは果たして物語のせいなのか、それとも回路である自分自身のせいなのか一考してみるのも悪くないでしょう。

 

反解釈 (1971年) (AL選書)

反解釈 (1971年) (AL選書)

 

 

われわれが、『楽園損失』を読んで満足を感じるのは、この作品に神や人間についての見解があるからではなく、詩の形をとったすぐれたエネルギー、生命力、ゆたかな表現力があるからである。

したがってここから生じるのは芸術作品の特異な依存性で、いかにゆたかな表現力をもっていようとも、それを経験するひとの協力に頼っている。なぜなら、<語っている>ことは判っていても、鈍感なせいか、迂濶なためか、無感動なことがありうるからである。

芸術は誘惑かもしれないけれども、凌辱ではない。芸術作品は専横の特質をあらわにするような企てられた類の経験を提起するが、経験する主体なしに誘惑することはできない。


――『反解釈』スーザン・ソンタグ 竹内書店,p33  (太字は私がつけました)

  

 

それでは、良い記憶を。

 

 


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