PSYCHO-PASSの常守朱と槙島はエリートだからこそ「考えろ」と言う。しかしそれは衆生の目線を無視したものだ。

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*一期のみを範囲にしている。

 

一期『PSYCHO-PASS』の槙島聖護は「人は自らの意思に基いて行動してたときのみ価値を持つ」と繰り返し、現社会の根底にあるシュビラシステムを破壊しようとした。

シュビラシステムとは、人の深層心理までをも解き明かし、職業適性から、人生の岐路すべてを明確に導く生活支援システムだ。シュビラの神託を聞けば人は「選択」というフェーズを飛び越えて、いままでより遥かに楽に幸福を手にすることができようになった。

いわば人類は「思考停止」を実現し、辛くて重たい悩みを捨てたのだ。ソレに異を唱えたのが槙島である。

 

20話の回想シーンにて、そのことを常守朱も一部ながら認めている。

 

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ価値を持つと思っている。だから様々な人間に秘めたる意志を問い正し、その行いを観察してきた」


「そうね。あなたの気持ち今なら少しだけ分かるかも」


「そもそも、何をもって犯罪と定義するんだ?君が手にしたその銃、ドミネーターを司るシビュラシステムが決めるのか?」

「違うよね。それがそもそもの間違いだった」

サイマティックスキャンで読み取った生体力場を観察し、人の心の在り方を解き明かす。科学の叡智はついに魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だが、その判定には人の意思が介在しない。君達は一体、何を基準に善と悪を選り分けているんだろうね」

 

「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う

「僕は、人の魂の輝きが見たい。それが本当に尊いものだと確かめたい。だが、己の意思を問うこともせず、ただシビュラの信託のままに生きる人間たちに、果たして価値はあるんだろうか?」

「無いわけ無いでしょ!! あなたが価値を決めるって言うの?誰かの家族を、友達を、あなたの知らなかった幸せを」


――20話、朱の回想シーンにて対話する槙島と朱

 

朱は槙島のすべてを肯定しているわけではないが、「自らの人生を考えて引き受けること」に対しては同意していると思う。

回想の中で出会う舩原ゆきの対話でも、彼女はこう言う。

 

「面白くって楽ちんで辛い事なんて何もなかった。全部誰かに任せっ放しで、何が大切な事なのかなんて考えもしなかった。ねえ朱、それでも私は幸せだったと思う?」

「幸せになれたよ。それを探すことはいつだってできた。生きてさえいれば、誰だって」

 

――20話、朱の回想シーンにて対話するゆきと朱

 

 

ゆきの「幸せだったと思う?」に対し、朱は「幸せになれたよ」と返す。つまり、常守朱からすれば舩原ゆきは幸せではなかった。

常守朱槙島聖護はどちらも「自分の頭で考えた行動を評価する」という点で共通項があり、彼らは"人の意思"というものに価値を置いているように思う。

つまりこの2人は、自分達以外の、一般人であり凡夫である衆生に人格を持てと言っているのではないか?

 

しかし、こんなのは一部の"人格エリート"の言葉にすぎない。言い換えるならば内発性のある彼らが「この世全ての人間が内発性を持てればいいね」と呟いているにすぎない。

でもそんなことは実現するはずもない。というのも、衆生は誰かに支配されて「こう動けばいい」と指示されてるほうがはるかに楽で幸せだからだ。不自由の枠組みにある少しの自由を謳歌できればそれでいい。自分で考えて、決断を下し、人生の岐路を選択し続けるなんてのは重荷にしかならないんだよ。

槙島がいうように、そういった意思に基づく行為は魂の輝きが見えるかもしれない。しかしそれはイコールで衆生の幸福とは結びつかない。人生による懊悩やゴールテープ問題につまづきニヒリズムや希死を訴えはじめてしまうのが彼ら凡夫だからだ。

だからこそ彼らの幸せを望むのであればシュビラシステムは破壊するべきではない。この人を導く機械・シュビラに異を唱えるはいつだって「衆生(=内発性のない人間)」ではなく、「人格エリート(=内発性のある人間)」だろう

 

槙島や朱が望むのは「多くの人間が自らの意思に基づいて行動する」ことかもしれないが、そんなのは夢なんだ。お伽話にすぎない。

シュビラシステムを破壊したからといって、考え続ける過程が戻ってきたとしても、数多の人間はやはり思考停止をし続けるだろうしそう望むのだろう。だって考えるの苦しいことだから。(一期では朱はシュビラは破壊しなかったが)

そりゃね「人生」という言葉に込められたふくよかな意味は消え失せて、より単純な営為になるだろう。「人間らしさ」とよべるものが「動物らしさ」に置き換わっていくに違いない。

食べて、寝て、活動し、働き、肉を重ね眠りにつく―――2015年現在で考える高尚化された"人間"の意味は破壊されるだろうが、それでいい。そもそも一個人にたいし内界と外界という考え方をするからこそ、シュビラに統制された人を見て異を唱えるのだ。

内界と外界、内容と様式、内面と形式はもともとは同じであった。内面がにじみ出て形式に影響する、影響を与えるなんて考え方はなく、そもそもそれらは1つのものだった。区別する考え方自体が近代的であり、人格なんて形式化された生でしかない。

それにだいたい考え方をかえれば衆生はものすごい責任を背負わされているとも言える。選択をせず、流れのまにまに生きて、運命に流される―――それはすべての責任を真正面から引き受けることに他ならない。

"選択"をしないってのはそういうことでしょ? 

与えられたものをただ受け入れるだけだけど、それでもそれら全てを受け入れるってのは楽なようでいても大変なのではないかな。

というかさ、常守朱や槙島は人生という言葉に"豊かさ"を、込めすぎなんだと思うよ。人生は豊かでなくてはらない。そういった思い込みが、「思考停止を実現したシュビラ社会」にたいして「導かれるだけの人生は豊かではない」という否定に繋がっているのだから。

一期。ラストで常守朱がシュビラを破壊せず現社会のの推移を見守る選択をしたことはとてもよいことだったように思う。大多数の幸いを望むのならばね。

 

 

 

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