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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

誰かに教えられてまで作品の「答え」が欲しいわけじゃない

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読者は往々にして答えを求めます。

それはミステリー小説のような明確なトリックの答えから、登場人物の行動の意味、心の中でどう思っているのか、この物語はなんなの?という曖昧模糊なものまでに「答え」があると仮定し探し求めます。

『はつゆきさくら』ならば河野初雪の復讐に関連する一連の行動の無矛盾、『蒼天のセレナリア』だったら世界の基板となっている碩学とは何か?、『キサラギGOLD★STAR』ではそもそもこれはどんなお話だったのか、夢か御伽話かぎゃおー♪なのかと首を傾げてみたりするわけです。

特に作品それ自体が複雑で難解な場合は「この物語って結局なに?」という種類の答えを求めようとする人は多くなるでしょう。『TV版エヴァンゲリオン』、『最果てのイマ』、『うみねこのなく頃に(原作)』『腐り姫』『Forest』『ギャングスタ・リパブリカ』はそれに当て嵌まるのではないでしょうか?

 

 

もちろん私もまたあらゆる作品の答えを求め、探し、見つけ、手にしたいと思っています。

なぜならそれは楽しいからです。既存の思考フレームをもって解析しようとも "わからない" と足踏みしてしまう作品を考えて考えて考えて「この仮説なら通るか?」「こう見れば凜堂禊の言動に筋を通るかも」と考え続けては最後に己が納得できる "わかった" を手に入れた時の快感は果てしないものですから。

けれどそれは "自分で見つける" からこそ価値があるのであって、人に教えられてまで欲しいとは思いません

誰かから「これが答えだよ」って投げ与えられたものほど無価値なものはありませんし、こういうのって自分で考えて、自分で手にするからこそ価値があるんです。

上から目線での贈与、求められていないのにおせっかいな答えの開示―――それらをしている人は優越に浸り楽しいかもしれませんが、される方は迷惑なだけです。

「わからない」と呟いたとしても、それは「答えを教えてほしい」という意味ではないことを知って損はありません。

私自身気をつけるべきですが、「ユリ熊嵐わからん><」って呟いている人に「ユリ熊嵐が何をしたかったのかというとね以下略」みたいな返答は求められているかどうかまず確認したほうがいいです。

大抵の場合求められていませんから……。

 
この俺ガイルの↓記事もそうで、私はだれかに教えられてまで「答え」は欲しくないんですよ。自分で見つけたいんです。届いたコメントの中に「アレはねこういうこと」といった趣旨の発言があって見た瞬間ソっと閉じました。

 

 

そしてお互いが  "わからない"  を自認した上で、一緒に考え、物語の最奥に手を伸ばす「対談」は楽しいんですよね。

それはちゃんと「考える」という営為を通じての行為だからなのかなと思います。

 

参考:対談をTwitterで5時間してみて分かったメリット

 

もちろん私自身、物語の答えを教えてほしい時もありますが……けれどそれはもうどうしようもなくなった時だけです。

己の脳で考え続けても分からないと諦めてしまった時がそれなだけで、本当なら自分の力で、物語の最奥に手を伸ばしたかったというのが本音です。

つまり私にとって「教えてほしい」と宣言するときはある種の「敗北宣言」と同じなんですよ。ああ負けたくなかったなあと諦観の残滓をのこして教えを請うとそんな感じです。ちなみにSCE_2はまだ諦めていませんよ。

 

あなたはどうでしょうか。

 

私みたいに自分で答えを見つけたい人ですか? それともそんなこと気にしません?