なぜ「評論家気取り」というレッテル張りを彼らは使うのか?

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*めんどくさいので評論=批評としておきます。
*この記事もレッテル貼りの循環に陥っていなくもない。
 

 

評論家批判をする人たちがよく使う理屈↓  

 

1)評論家気取りを批判するとその人も評論家気取りという無限地獄


アニメを見てこなくそにけなす評論家気取りうぜー、そんなに嫌いならばはじめから見なければいいのにバカじゃねえの浅い知識と見識でしか評論できないならそもそもすんなよ、こういう奴等は現実でもうざがられているんだろうな。

――はい。よく見る発言ですよね。気持ちはわかりますが、しかし評論家気取りを批判しているこの人たちもまた「評論家気取り」になっている循環に陥っているわけです。

アニメ評論家を、評論する、人間評論家という構図に。

つまり評論家に対し分析し主張すること自体が「評論」という行為になるわけです。「評論家気取り」という叩き方はブーメランになるので、「その評論のレベルは低い(or的外れ)」という叩き方がいいのではないでしょうか。



2)嫌なら見るな


これもよく聞く言葉ですよね。嫌なら見るな、しかし嫌だと分かって見る人は稀有では? 

中には嫌いな作品だと知りつつも視聴する人もいると思いますが、大方は「見たら嫌いだった」でしょう。

けいおん』を見たら嫌いな作品だった。だから嫌いとつぶやく。だから嫌いと宣言する。そういう流れなはずです。(あくまで例として挙げましたが私はけいおん普通です)

そういった大方の流れを無視して、「あいつは嫌いな作品とわかりつつも視聴している」とするのはただのレッテル貼りです。本当にそうなのか事実確認が先なのではないでしょうか。

そして仮にそうだったとしても、何が問題なのでしょう? なぜ嫌いなものを見てはいけないのでしょう?

これに答えられないならば「嫌なら見るな」という主張は何の妥当性もないことになります。

 

 

3)まずお前が作れ

 

人が作ったものに難癖つけるだけで、自分は創作しない評論家様(笑)


つまりこの人たちの言い分は「評論するためには創作しなければいけない」というロジックですね。よく分かりません。

アニメを評論するにはアニメを作らなければいけないのか?
北京ダックを評論するには北京ダックを作らなければいけないのか?
電動歯ブラシを評論するには電動歯ブラシを制作しなければいけないのか?


こう問いかけてみると一目瞭然ですが、不可思議な理屈だと分かるのではないでしょうか。

逆にいえばこの理屈を持ち出す人はこの理屈を守っているんですよね? あらゆる創作物に対して創作してから評論しているのですよね?

あるいは創作できないなら評論するなという含みを持った理屈なのかもしれませんが、先述したように何かを評価し分析し語ることが評論になるわけです。

「面白かった」「嫌い」「つまらない」「時間の無駄」という感想もまた突き詰めれば評論・批評になるんですがこれについてどう思っているのでしょうか。

それとも彼らは一度もこういった発言をしたことがないという事なのでしょうか? 流石にそんな戯言信じられませんけど。

 

 

Qなぜ彼らは評論家気取りという他称を使うのか?

 

以上で先述した3つの叩き方全く使えないどころか、自分に突き刺さるブーメランな代物です。

そして私から提案したいのは、ムカつく評論はその評論はレベルが低い!と批判すればいいんですよ。(しっかりとした理由を添えて)

良い評論というのは一見しただけでは分からない作品に対し読者に「新しい視点」を提示できるものです。

例えば『まどか☆マギカ』ならば、本作を非難したり馬鹿にしたり蔑むのではなく

  • まどか☆マギカはいかなる物語だったのか?」
  • 「ほむらの行動動機は何なのか?」
  • 「劇場版で新たに追加された『白い風景と木々の間を歩くほむら』が示しているものとは◯◯である」


といった新しい知見、新しい切り口を見せてくれるものが良い評論というわけです。作品の価値を押し広げてくれるものこそが求められている評論ではないでしょうか。少なくともアニメといった物語全般においてはそう言えると思います。

 

そして悪い評論・レベルが低い評論というのは、作品をただ貶し、どこがどう悪いかを指摘しているだけのもの。もしくは作品そっちのけで自分語りに終始しているか、他作品を持ってきてただ比較している稚拙なものです。

繰り返しますがこういった評論に対し評論家気取りというブーメラン発言ではなく、単純に「この評論は◯◯という理由で主張に妥当性がない」と物申せばいいと思います。その評論がどのようにダメかを指摘すればいいんですよ。

 

 

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(前略)

「どうして自分の話しか出来ないの?」

「もうどうせ最後だから言うわ。」

「アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。」

「他人を理解しようともしない、"馬鹿"だからよ」

「気楽なもんね」

「自称批評家さん」

「批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ」

 

「人が作ったものを 安易にくさして 優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。一読者よりも昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。」

「失敬な! 拙者を侮辱する気でありますか! 誠意こそあればこそ 耳の痛い忠告も申してやるのでですわ。甘受するのは作者の義務ですぞ!」


「誠意?」

「自己顕示欲でしょ?」

「アナタの!」

「誠意があるんなら、セリフの向こうの作者探しや 他の作品とのくらべっこばかりしてないで、内容そのものに興味を持ったら?」

「貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!」

 

「誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。

作品への新しい読み方を提示して、

作品と

作家と

読者に、

新しい道を拓いてくれるから。」

 

 

「批評家をねじ伏せる女の子」の有名な画像があるじゃないですか↑ 

この画像は評論家に嫌悪しているスレではよく貼り付けられ「評論家うぜー」という使われ方をしています。

でも、これって評論家(批評家)を叩くものではなく、良き評論家になるための指摘なんじゃないですかね。私はこの漫画を読んでないのでお話の流れが分からなく読み間違っている可能性もあるんですが、このシーンで言われていることをまとめると

 

 

  • 「他人を理解しようともしない」→「作品を理解しようともしない(と解釈)」
  • 「批評は感想文でもなければ作者への意見書ではない」
  • 「自己顕示欲のためではなく、もっと真剣に作品に取り組め」
  • 「作品に誠意があるならば、作者探し、他作品の比較ではなく、内容自体に興味を持ったら?」
  • 「女の子が考える本物の批評は、作品・作者・読者に新しい読み方・新しい道を拓いてくれるもの」


となると思います。(以前書いた作品批評とは?という記事の内容とだいぶ似ていてこの画像見つけたときびっくりしたなと)

つまり作品に誠意があるなら、作家論、他作品の比較、ではなく「作品の内容自体」に新しい読み方を切り開いてくれ―――とこの漫画のワンシーンは訴えているように思えるんですがどうでしょうか。

考えるに「作品の"内容自体"への新しい視点を切り開く批評」が少なく、また「作品の新しい視点を切り開く批評」も同じくらいに少ないのが現状なのかなと思います。

作品の悪口を言っているだけ、新しい視点なんてないレベルの低い批評が溢れているかこの土壌が「評論家気取り」という他称が使われる原因になったのかもしれません。

※ちなみに当該漫画の出典を調べてみたら、リンク先によれば『ヨイコノミライ 完全版』(4)きづきあきらhttp://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20071018/1192701053だそうです。

 

 【関連しそうな記事】

 

 

 

でも原因はそれだけじゃないはず


 

自分自身で評論家と宣言した人、評論家を肩書にした人に対し、文筆の力量のなさゆえに「気取っている」と批判されるのは分かります。

しかしそもそもニコニコ、Twitter2ch、ブログで作品語りをする人のほとんどは「自分は評論家だ」なんて思っていません。彼らはただ作品について話したいだけ、語りだけであって評論・批評という言葉さえ意識していないのが殆どでしょう。

「あいつ通気取りだよな」「最近のアニオタは評論家気取り」というのは本人が自称したわけではなく、批判した人が勝手に言っている "他称" に過ぎません。つまりレッテル貼りですね。

そしてレッテル貼りをしている人達は「評論」「批評(Criticism)」とはいかなるものかなんて考えたことはありませんし、ネット・紙媒体に掲載される評論物/批評物とされるものを読んで"ふわっ"としたイメージがあるだけでしょう。(私もその一人)

だから本来的な意味での批評(Criticism)という言葉を使っているのではなく、彼らが言っているのは「作品を分析し批判している語り」を評論・批評だと指しているのだと思います。


<参考>
ttp://kwsknews.blomaga.jp/articles/76458.html
ttp://desktop2ch.org/news4vip/1349243992/
ttp://blog.livedoor.jp/haruharuking23/archives/1663068.html
ttp://ww.sstter.net/thread/1431768006/0/
ttp://chimura-ao.blog.so-net.ne.jp/2012-10-15
ttp://totalmatomedia.blog.fc2.com/blog-entry-2445.html
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1262103202
ttp://magsoku.blomaga.jp/articles/15676.html
ttp://u16n.3rin.net/Entry/177/
ttp://onecall2ch.com/archives/6457897.html
ttp://sonicch.com/archives/32072073.html

 

 

そういう前提で見ると彼らが批判したいいのは、評論家を気取っている者ではなく「作品を分析し批判している者」となります。

もしも逆に「作品を分析し"新しい視点"を提示する評論」であるならば、その評論を好意的に受け入れるのではないでしょうか? 

例えば『けいおん』を分析した上で否定するのではなく、

  • 「HTTにおける琴吹紬の役割とは」
  • 「唯が目指しているビジョンは何なのか?」
  • あずにゃん問題」


といった具合に、一見視聴しただけでは分からなかった作品の「新しい切り口」を提供する文章ならば、「評論家ぶりやがって」という批判は起きにくいでしょう。むしろ喜ぶ場合だってあると思います。

つまり彼らが嫌うのは、自分が好きな作品を、他者が分析し批判することではないでしょうか。


例外はあると思いますが基本ラインはこのあたりだと考えています。重要なのは批判というマイナス方向の作品語りを嫌っているということですね。プラス方向の作品語りは許容されるという見立てです。

そしてなぜ「作品を分析した批判」が嫌われるのかというと、「見立てが甘い」「強引な理屈だ」「納得できない」という評論物の質も当然ありますが、逆にそれが的を射ていても認めたくないという防衛反応もあるように思えます。

隠れてていいよさんの下記記事では、「人生を救われた作品をバカにされたとき自分もまた傷つく」という内容を語っています。

 

私が語るまでもなく、人生を救われた経験は何ものにも変えられず、ずっと自分の心に強く刻まれ生涯をつきまとう。自分が好きな作品を批判され激昂してしまう理由は、人生を救われた作品をバカにされて悔しいからである。作品が傷つけられた時、自分もまた傷ついているのである。自分が傷つけられたら、誰だって自分を守ろうとする。

「その話題には触れてはいけない」「気が触れたかのような反応があるから近寄るな」と言われるほど激昂する。激昂するが、極めて冷静に、残酷な言葉を選び、そのように発言したことを後悔させてやると怨念を込めて相手に言葉を投げつける。(後略)

――人生を救われた作品をバカにされたとき、自分もまた傷ついている - 隠れてていいよ(太字は引用者がつけました)

 

私はこういう心理を納得できますし分かります。またこういった心理・防衛反応が、「作品批判に近い評論」に対し「評論家気取り」という揶揄に繋がるとも思っています。

つまり「好きな作品に悪口を言われるのは辛い」→「だからその悪口を攻撃する」という構図が「評論家気取り」という発現に繋がるということです。

 

 

付録:よい評論(批評)はむずかしい

 

・「言葉の不完全性」 、つまり言語で表せるのはほんの上澄みでしかないため、どんなに言葉を尽くそうともその作品を見た「体験」「イメージ」「感覚」は言い表すことが不可能である。そしてそれを為そうとしても不完全な文章のまとまりで提示するしかないという実情がある。(作品感想書いているとかならず言語限界にぶつかると思うんですよ誰でも)

 

・作品を評論する動機に「あらゆる作品を書き残そう」とする人が存在する。この動機を持っている人は嫌いな作品でも、なんとか言語化しようとする。しかし嫌いな作品は嫌いなため「嫌いである」としか言語化できない場合がある。もしもここから一歩進み「嫌いではあるが、この作品はこういう一面もある」と独自のプラスの景色を示すことが出来ればよき評論になるだろう。(自戒)

 

・この記事は「レベルが低い評論を根絶せよ」というものではない。レベルの低い評論に対してレベルの低い評論だねと言えばいいよと提案するもの。レベルの低い評論より良い評論が増えるほうが好ましいが、それらは別にあってもいいだろう。ただ「レベルの低い評論」と指摘されるのは覚悟の上でネットで発言すればいいのではないだろうか。

 

 

まとめ

 

1,「評論家気取り」「嫌なら見るな」「まずお前が作れ」という謎理屈は自分に跳ね返ってくるブーメランである。

2.作品を貶しているだけの評論は「レベルが低い評論だね」と一蹴すればいい。

3.レベルが高い・良い評論とは作品の価値を押し広げる「新しい視点」を提示するものである。


4."評論家気取り"という他称が使われる原因は、「良い評論がすくなく、悪い評論ばかりが溢れている現状」と「好きな作品を傷つけられることへの防衛反応」という見立てである。



おわり。

 

 

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