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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

「このアニメ展開もう見飽きたよ」という知識の非可逆性を乗り越えるためにできること

思考の種子
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*きほんてきに無期限工事中


今まで追っかけてた一回性について土台を固められてきたと思うので、ここらで「知識の非可逆性」から「感受」も含めまとめておきます。本記事は主に仮説であり荒唐無稽と捉えてもらっていいです。

 

下の過去記事をまとめ

  1. 物語は人生をぶっ壊しオーバーライドする力がある
  2. クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること
  3. 物語は人生をエミュレートし多視点を獲得させる力を持っている 
  4. アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。
  5. 物語に感動するには【祈り】こそが鍵になる
  6. ギャルゲが好きでも「鮮烈な物語体験」をしていない人は実は
  7. 感受性に優劣があるからこそ知識で補おうとする人がいるんだろうね

  8. 読解モジュールを駆動させるとギャルゲーはもっと面白くなる

 

 

 

1.目的


知識の非可逆性とは、新たに何かを知ってしまったら知らなかった前に戻れないことを指してます。知識は増やすのは簡単ですが、減らすことは出来ません。

本を読んだら世界が広がるように同時に目が曇ることもありますし、知れば知るほど目に映っているものが過去に起きたもの・既存のモノに捉えられツマラナクなってしまうことって多くの方が経験しているものだと思います。

日常にひそむ倦怠、飽き、それらは魔女を殺す毒にもなるものです。

ここでは物語にフォーカスして、「このアニメ展開もう見飽きた」「何周目の作品だよ」「時代遅れ」といった感想を抱いてしまう知識の非可逆性の障害を乗り越えられればいいね? と試む記事です。(叶うのならばジュメヴュを希求)

先に言っておきますが、答えはありませんし各々で見つけるものでしょう。何故なら個々人の認知優位の問題もあり一般化できるものとは思えません。私は私なりの方法を記してみますので参考にするなり毒にするなりしてくださいね。

 

 

 

2,動機


ちなみに何故知識の非可逆性を追いかけようと思ったのかというとクンフー論の記事でもいいましたが、面白そうという理由からです。手が届くのならば手を伸ばしますし、カレーのトッピングになんでも入れていいよと言われれば全種類ぶち込むノリと同じかもしれません。

イメージしているのは涼宮ハルヒなんですよね。"面白そう"ならばなんだってしちゃうあの感じ、叶えられるのなら物語を読むさいの最大の障害とでも呼ぶべきラスボスを倒せたら爽快じゃありません?

 

おもしろく感じることにこそ、価値の源泉はあるんだ。
私が原理を重視するのは、それが価値を生むからだ。
目的達成のためじゃない。
価値とは、原理的思考から生まれるものだ。


――時守希

 

 

3,認知特性


ISFJ診断、エニアグラム診断では「感性」「感覚」「感情」「判断」「調和」「想像」といった値が強い。簡易的な認知診断では、聴覚認知が不得意であり視覚認知が得意な視覚優位者だと見受けられる。とはいってもディスレクシア並に至るほどに振り切れてるのではなくどちらかといえば視覚優位という感じ。音楽関係がめためたにダメなのはははーんにゃるほどねと頷く。

この事から、物語を接する姿勢もおのずと判明してくるのではないだろうか。つまり、私は感性・感覚的に物語に接し、聴覚ではなく視覚(=イメージを作り上げる)ことで物語体感密度を上げるのが得意な人間ということ。ここを念頭に置いて知識の非可逆性に臨むとよいかもしれない。

情報(=文字や断片的な絵)を与えてくれれば、ある程度イメージでぐりぐり動かせる。一度見たアニメーションを媒介にしてパラフレーズしているんだろう。

(工事中)

 

4、実践

 

①知識を蓄積し思考を積層していく

学術的なことから物語の記述された文章・知識・言葉を暗記する。暗記したものについて考え続ける。この2つの繰り返していくと「わかった!!!」と叫びたくなるようなドーパミンどばどば出るようなEUREKA的体験が生まれる。

詳しくは以下に書いた。

  1. 読解モジュールを駆動させるとギャルゲーはもっと面白くなる
  2. エロゲを『血肉化』するにはこの2つを徹底的に繰り返すしかない

行動コストは少し高めだけど、誰にでも出来るし効果も早く感じられるので割とおすすめ。人為的に意図的に知識の非可逆性を乗り越える方法としてはよいものではないだろうか。

ただこれはプレイ中ではなくプレイ後に行うものである。物語を読んでいる時に下手に「言葉の暗記→熟考→暗記→熟考」をやってしまうとプレイ中の楽しみが奪われる可能性があるので要注意。(筆者はEVER17でやって轟沈)

またこの血肉化的鍛錬は何度もやり何度も繰り返していると、そのうちプレイ後ではなく「プレイ中」にも「わかった!!!」という体験の頻度を高めてくれるように感じる。あくまで筆者の印象なのでどの程度事実なのかは不明。


そして、この方法論はもう使い飽きたので、そろそろ反対側の感受の方向性で何かしらやってみたい、というのが今(2015年)の心境。

 

 

 

②視点を切り替える

①の派生の内容になっており、「人物」「言葉」「物語概念」の視点を切り替えることで、知識の非可逆性を乗り越えようというもの。切替のほかに追加もある。

現在執筆中。後日別途記事にて投稿します。(工事中)

 

 

 

③幼少期の一回性を共有する


幼少期の人間はまさしく「はじめて」の連続なので、世界に接する態度が私たちと断トツに違う。アイスクリームを見れば目を輝かせ、学校の怪談というチープな映画をみれば本気で恐怖し泣いてしまう。

そして雨を浴びれば笑いだす。

 

 (この動画ははじめて雨にふれた子の様子らしい)

Kayden + Rain 

 

 

こっちは聴覚障害の赤ちゃんが手術後はじめて「音」を聴いた瞬間らしい。おしゃぶりを落としてしまう程にはその「音」は鮮烈なものだったのかなと想像する。


こんなふうに「はじめての体験」をいっぱいする子どもと長く触れ合っている人は、子どもの視点で世界を捉えやすくなるのではないかという仮説。

確か以前「子どもに絵本を読み聞かせていると彼らがどこで集中するのか、呼吸、表情、声などで楽しげな、怖がっている、泣き出しそうな感情が伝わり読んでいる自分もまた楽しくなってくる。人生のやり直しをしているみたいだ」(意訳)を読んだんけど、私はこれいまいちよく分かってなかったんですよね。

でもこれって実際にリアルで体験しないとわからないものなんだなあと最近わかってきた。知識や理屈じゃなくて、実際にその子どもたちに接しないとこの「一回性の共有」は中々出来ないと。

歌の技術を上げるさいに目標にしている歌手の歌を"実際"に聞いて、真似していくといい、みたいな意見がありますよね。音声や動画を見ているのじゃダメで、生でその歌声を聞いて、喉頭の位置や声帯の閉鎖・広げ方、どこで力むか否かをリアルタイムで目で見て耳で聞いているとだんだん上手くなっていくという。

おそらくこれ「絵本」の話も同じで、視点共有する場合、もっとも効率がいいのは「その視点共有する人間とそこの空間までをも共有している」ことなんですよ。多分。映画とか一緒に見たあとにその子の意見や感想を聞いているとあーそれなんて新鮮な見方なんだろう!となること結構あります。子どもに触れ合う機会の多い親御さんはここ意識すると世界認識もかんたんに変わっていきそうだなあとかね思うわけです。

要するに幼少期の人間をメンターにして、彼らからその感情の発露を学びとっていくというもの。ただ内容的に汎用性が低いものなので実践は環境によるとしか言いようがありません。

 

 

④心を鍛える

肉体が貧弱ならば「鍛える」という発想は出てくるのに、心が脆弱ならば「鍛える」という発想が出てこないのは、「心の鍛え方」がうまく浸透していないからなのかもしれない。 

永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやきのまとめ~「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯

【瞑想】一流企業が続々導入!脳の究極メンテナンス術を分析・実践しよう。 

世界一周してる大学生が12日間、人と話してはいけない、目も合わせてはいけない、読み書きや娯楽が一切禁止のヴィパッサナ瞑想修行(インド)に参加してきました。

仏教に伝わる瞑想法の効果、科学的に実証される


「瞑想」と聞くとウサんくさい・宗教臭を覚える人もいるかもしれませんがどうやら科学的な方法らしいので毛嫌しないでいいみたいですよ。

↑は瞑想の方法・概略をまとめた記事なので「瞑想とは?」という疑問を持っている人は目を通すとよいかも。ただ実践する場合は、ちゃんと本買って、まずは本の指示通りにしたほうがいいと思います。

宝彩有菜」「アルボムッレ・スマナサーラ」の瞑想本を読みましたが、個人的には「地橋秀雄」の本が参考になりました。

この方のほうが外部刺激による感受からサティの説明が詳しいのでよいです。

↓ 

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践

 

 

自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】

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始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)

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あと瞑想といっても「サマタ瞑想」「ヴィパッサナー瞑想」、あと自力では難しい「超越瞑想」、金剛乗仏教(密教)の「デイティ(Deity)」と「リグパ(Rigpa)」など色々あるようです。

簡単にはじめられそうなのは前2つで、現在主流なのがヴィパッサナー瞑想なのかな? 

あと「ヴィパッサナー瞑想」といっても著者によって方法が細かく違ってきて、体感覚や、瞑想の没入度が変わってくることもあります。なので自分に合う方法見つけるのがいいのかなと素人ながらに思んですけど、ま、詳しくは自分で調べてください。


話を戻すと、心を鍛えるなら瞑想といわれるくらいに瞑想は「心の鍛え方」として一般的な手法になってきているように感じます。

実際にやってみると「ストレス緩和」「思考が明瞭になる」の効果はすぐに実感できる。そしてこの思考が明瞭になる効果が、物語を読むさい効果を発揮するのではないか?と。

物語を読むさい邪魔になるのが、「理性」です。物語の展開を予測し、期待し、挙句の果てにはメタ的に見てしまったりするもの。ささいな自分視点による物語Systemへのツッコミもまたこの「理性」が活発しているからと考えています。

だから理性を鈍くするアルコールを摂取すると、物語体験はめちゃ上がるんですよね。理性の邪魔が減り、感覚的に物語にのめり込むことが出来ますから。

ヴィパッサナー瞑想を、アルコールと同じように、理性を鈍くするツールとして見ています。言い方が語弊ありますが、なんて言えばいいんだろうなあ、理性を働かせないみたいな感じですね。

実際この瞑想をやってみると(私は20-40分程度)夜眠って朝起きたときのようなもやがかかっていない脳の状態、思考のクリアさが現れることが多いです。

ちょっとまだ実験回数が少ないので何とも言えないのですが、瞑想→物語読むという行程はなかなかにいい感じ。物語に没入するのが早いという印象ですね。おそらく理性がうまく働かないからなのかも。ここはおいおい詳しく記述。

あと応用として、物語を読んでいる時にもヴィパッサナー瞑想は可能なので(サティをいれていく)やってみたらどうなんだろねーと。想像ですが、サティは「想像」のファクターを消失させるので物語体験に良い影響はなさそうな気はしますが……。まやってみます。

 

 

⑤心拍強度を上げる


こちらもまた理性を働かせないようにする方法。

ようは激しい運動によって心拍強度を高くして、その後で物語を読めばどうだろう?というもので、心拍強度が高い状態に持っていけば余計なことは考えなくなるだろつという考え。

具体的には30分間全力で走ってを繰り返し、休憩した後に、物語を読む。2週間続けてみたけど、これ夜にやると一日分の疲労+運動疲労でくたくたになって物語読むどころじゃないという感じ。早く寝たさしかない。継続的に(一年単位?)でやらないとよくわからないとは思うが、あまり物語読みに関しては必要なさそうかなあと判断。

 

 

 

5,物語体験に必要そうな概念



① 感受性

 

おーはしさんから「レセプター」という考え方を教えてもらい、私もこれを軸にして感受性を捉えてようと思います。

つまり「受容体の数によって感受性の高低が決まる。受容体が多いほど外部の刺激に対し数相応の反応をする。」これを感受性と定義。

具体的に言えば、汚物を見て心底気持ち悪くなったり、血液を見て恐怖したり、大切なものが失われたときの感情の揺れ幅や、誰かの痛みを自分のように感じる「共感力」もまた感受性の中に包括される。

感受性が高いばあい外部の刺激を見たとき感情の揺れが大きくなり、感受性が低いばあいは揺れ幅が小さくなる。(と今は見做しておきます)

 

ここで「物語に没入」という単語を定義する。この言葉は、物語の世界を肌で感じられるという意味である。

例えば主人公に視点を合わせていた場合、主人公の腕が切り裂かれれば痛くなるし、何か悲しいことがあれば自分もまた同じく悲しくなる。それは別に主人公でなくてもいい、視点を合わせている人物がヒロインだろうと、町医者だろうとだれでもいい。とにかく彼らの見ている風景を自分事のように感じられることを「物語に没入」ということ。

もちろんそれらの感受には限度があり、"ほんとう"に腕が痛くなるわけではないがある一定のラインを超えるとそういった痛みを覚えることもあるかもしれない。幻肢痛のように。(そうなったらゲームは娯楽ではなく現実に成り代わるんだけどこれはまた別のお話)

さて以上を踏まえて、物語に没入するさい阻害する原因があるとすればそれはなんだろう? 
・自分の感受性が鈍い(=受容体の数が少ない)ので物語が発信する刺激に対して反応が小さくなり、うまく物語世界にのめり込めない。
・自分の共感性(=他者の視点で物事を捉える力)が低いため、登場人物の気持ちに寄り添ったり、痛みを感じにくい為、物語没入がうまくいかない。


・作品の質が低い(基本骨子の想定が甘く砕け散る)

物語を魔力とし、プレイヤーを魔術回路とするならば、それによって生成される魔法を《物語そのもの》とする

 

Q摩耗する場合考えられる要因

 

 

 

②共感力

幼少期の情操教育(絵本の読み聞かせ・親の感情の共有・保護者の内在化)によって育まれる、「他人の痛みや気持ちを自分の事のように感じられる力」&「他人の視点で物事を捉えられる力」を指す言葉(としておきます)

共感力が低い場合、他者の境遇をおもい涙することや、他人が見る視点を受けて感動することは無いと考えられます。

これは物語では、たとえばヒロインがダンプカーに跳ねられたとき、彼女の"跳ねられた痛み"を擬似的といえ感じられるかどうか。そしてそのヒロインが跳ねられた瞬間の「気持ち」や「景色」を想像できるかということになると思います。このパラメーターが低い場合、物語を「自分ごとのように感じ」るような読み方は出来ないと考えられるでしょうか。

こおのモデルはニュー君/隠者/孤人。問いは「最果ての荒野で人はたった一人きり生きられるか?」 答えは否。

心の理論では「他人の心のはたらきを理解し、それに基づいて他人の行動を予測することができる」をはかる誤信念課題というものがあるらしい。"心の理論の発達が遅れていると、他者が自分とは違う見解を持っていることを想像するのが難しいために、自分が知っている事実をそのまま答えてしまう"と記述されている。

・所謂サイコパスは他者に共感することが無いと言われているので、物語を「自分事のように感じ」体験することは難しいかもと考えている。机上空論。

・ミラーニューロンの数を増やす事でこういった共感力は高められるのか否か? またどうすれば増えるのか? というか数ではかれるものなんだっけこれ。

 

③この世界で今なお"謎"を信じられるか(ナナミ課題)


物語を、ここではないどこか、にある」と信じられるかどうかは物語体験や没入に大きく影響を与えるのではないかという仮説。

小さい頃は誰しも「月でうさぎが餅を突いている」「サンタはいる」「ネッシーは実在する」という幻想持っているものだと思いますが、年齢を重ねることでそういった幻想は無いものとし、捨てていきます。

社会的に生活する上で「そんなものはない」と思うのはそれはそれで重要なんですが、これを無意識化のレベル・深層の部分でこれらの幻想を否定してしまうと物語を読むさい障害になりうるかもしれません。

「私は今まで見たことがないけど、もしかしたらこれはこの世界に存在するのかも」といったことを信じられるのは重要です。何故なら、信じられなければ、目の前にある物語はただのガラクタと成り果てるのですから。

こういった未知・謎・幻想を信じられるかどうかを「ナナミ課題」と名付けてみます。

試しにやってみましょう。

Q:「今もなお月でウサギが餅を突いているって信じられますか?」
A:「  」

Q:「今あなたが読んでいる物語、それは、ここではないどこかにある世界だと信じられますか?」
A:「  」


Q:「風船ウサギのお話、覚えてます?」

A:

 

 

さて、どうだったでしょうか。

 

雪「不思議だから、おとぎ話なんですよ。夢を見るためのお話なんですもの」

透矢「確かに。それじゃあ、いま僕が手を離してあげたら、このウサギも月まで昇れるのかな?」

雪「そうですね。透矢さんが、その子を応援してあげたなら、きっと。月に行くのは大変なんです。だから、子供は夢をつめこんで、大人は魔法の力を浸かって、ウサギを応援してあげるんですよ」

透矢「雪さん、魔法って、何?」

雪「大人は、子供ほどたくさんの夢を持てません。その代わりに魔法が使えるようになるんです。夢を力に変える、大人の魔法。その後押しを受けて風船ウサギは月まで駆け上がります。そこでお餅をついてくれるんですよ」


――水月

 

水月』の夢のファクターと、牧野那波が問いかける「現実と虚構の在処」はなんだか上述した問いかけに馴染む気がしたので、彼女の名前を取りナナミ課題と名付けてみました。

 

■与太話。

科学技術の発展・高等教育の拡がり・インターネットによる情報量の増大、そしてその取得によって現代では世界には謎がなくなってしまいました。いつでもどこでもどんな時でも、我が国に何が起こり世界ではどんな事が起こっているかを知ってしまえる。それを理解するための知性もあります。

そうして先進国に生きる人々は「Macroな視点」を得ることに成功しました。わーい。むかしむかしのように手探りで何かを始めることはなく、過去の膨大なアーカイブによって「これをすればこうなる」という因縁果(はじまりと終わりが予測できる)ことを覚え始めます。

だからこそニヒリズムが蔓延しましたし、現代では"冒険"することが極端に無くなってしまった。未踏の地なんてもうどこにもないし、最果ての海(オケアノス)を目指す旅なんて夢のまた夢の御伽話。地球は丸かったのです。◯。

そんな現代人が(特に年齢を重ねた大人が)「物語」を手に取れば言うことは一つでしょう。

―――こんなことあるはずがない。よく聞く言葉ですよね?

彼らはファンタジーもSFも幻想も全てを斬り裂き、吐き捨てていきます。あの神様だっては死んでしまいましたし、ロマンティックイデオロギーも粉砕されちゃいました。まさにイニシエーションラブ。純愛なんてこの世のどこにも無かったのです。いえ経験則として「そんなものはない」と思い込むようになってしまった。

けれど、しかし、本当にそうなのでしょうか? 彼らは世界の隅々を見たわけでもないし実際に現地に行ったわけでもない。たった数十年生きて、電子の箱の前に鎮座していただけなのにどうして「そんなものはない」と言い切れるのか?

彼らは言うでしょう、それは悪魔の証明だと。
悪魔は笑って応えます。"ない"は証明できない。

そして私は「あるわけが"ない"と口にしてしまえば物語に没入できない」と言います。それは世界の謎を信じることをやめてしまった証なのです。

風船ウサギに夢を詰め込むことがもう難しいと言うならば、アリスのように魔法を使えばいいのに―――。

 

 

――次回予告

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