猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

そういえば、物語の「読み方」を教えてもらったことってないなって

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*8301文字の長文

 

人形劇、絵本、児童書、大衆小説、幼児向けの番組、アニメ、漫画、ラノベ、映画、舞台、ギャルゲー――といったジャンル・形式問わずそこはかとなく物語を読んできました。*1

読了した物語を時にはリアルで広めたり、教えてもらったり、他愛のない雑談を交えて感想を人と言い合っていたんですが、それはあくまでも「私はこう思ったよ」「こう見たよ」の範疇を出ないものだったと思います。

端的に言えば表面的。

目的にしているのはお話することで作品を深く味わうのではなく、「あなたとその作品について語る楽しいひとときを感じたい」だったでしょうか。インターネットを介して見る作品感想もだいたいそんな感じの印象批評で満足してました。

「この作品は結局なんだったの?」という思いを得て、検索ワードに"作品名 考察 "と打ち込むのは稀で、たしかリトバスkanonどちらかが最初だったような。

どんなにお話が難しくても、それ以前は「調べる」とをしていなかったと思います。おそらく調べる動機が特に無かったからっぽいですが。

久しぶりにあの時の「考察ってすごい!」というドーパミンどぱどぱする興奮を思い出すべく、ブックマークしていたリトバスブログにいったら潰れてました(汗

 

 

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…ええ……ちょおまなぜ消したのか。重要な情報の損失って本当こういうのだと思います涙

当時は「自分で考えて作品に接してみよう」という観点が無くて、考察することが快楽につながるっていう意識が無かったんですよね。とはいえ、それは今でもそうですが物語って二次的接触よりは一次的接触こそが最高の体感だとも考えています。二次的接触はそれに比べると一歩譲るかなと。

つまり一次的接触とは物語を読むことであり読んでいる最中のことで、二次的接触は物語を読み終えた後に「再読」「考察」「感想を書く」などの後続行為を指してます。

読解モジュール記事を書いたときは、「読み終わった後がいちばん楽しい(考察するのが一番楽しい)」と言った気がするんですけど、あれは二次的接触をはじめて行ったからだったんでしょう。懐かしい。

「物語って読み終わった後でもこんな楽しいんだ!!!」って知ったのが2013年の収穫でした。物語って、読み終わっても楽しいんですよ? 知ってました?デスヨネー。 

 

(この際なので推敲しておきました)

 

 そんな私が現在体感しているのは「プレイ中」「プレイ後」の2つです。でももう一つあるんですが分かりますか? 

そうです「プレイ前」です。プレイ前の物語体感をまだ済ませていなくて、おそらくこれもまた愉悦・快楽に繋がるものかなと思います。

『Forest』をプレイした人はあのことだな?とビビッと理解してくれると思うんですが、簡単に言えば「だれかと一緒に世界を創造する」ってことです。あれは一度でいいのでやってみたいなあ。いや仮初ならやったことあるんですけど計画の甘さゆえに倒れました。

ただし、"ナナミ課題"をクリアできる人ではないと難しいかなと思っていて、魔女の彼女のように幻視できる力を持てないと世界は剥落してしまうはず。(物語を読む上でもこれは大事なので)

話を戻すと

たまに(といっても2008年あたりから?)考察記事を検索するか、周りの友達と語らう以外はひとりでもくもくと物語を読んでいたなと。これは自分の読み方で満足していて、とくべつ誰かの視点・読み方を欲したことがなかったからだと思います。

いや

というか「誰かから物語の読み方を教えてもらう」ってないよね。あるのかな? 私一度も経験したことない気がします。いや学校教育がそうだったのかもしれないけどあれは何か違いますしね。そういえば読書感想文提出時に担任の先生の注意・指摘(=こう読め・こう感じろ)が入らなかったからこそ、書くのが好きだったのかもしれないなって今にして思ったり。

さらにいえば「読み方」という概念自体存在するなんて知りませんでしたし、認知したのは割と最近(2013-2014)です。むしろ知りたくなかったなあって。

 

 

 

詳しくは後述しますが、私が小さい頃から現在に至るまで主にやってきた読みって(無理やり言語化すれば)「内側視点で物語に接する」というものです。

そしてここ最近獲得した読み方は「文脈読み」と「自分視点で読む」ということになるんですけど、前者はともかく後者は"いらない視点の筆頭"とでも呼ぶべきものです。語る場合はともかく、すくなくとも「物語を体験」する上ではいらないと思います。

語る場合は"あえて"その視点を使っているのか、意識せず使っているのかの判断は分かれますが、とにかくそういった読み方があることを知りたかったかといわれれば個人的にはNOです。

「作品を語る」場合、市場的価値と言語性質ゆえにそうなってしまうのは分かります。しかし、だからこそ私はそれらの反対側にある再生批評と透明な批評が好きなんですよね。

とはいえこの2つもまた「自分視点」の濃度は多少なりともあり致し方なくここはもう言語故にの問題なんでどうにもできないかもしれません。

この点で、私はインターネット(主にSNS・ブログ)で活動したことをすこしばかり後悔しているなと。ああ、そんな視点、知りたくなかったなあって。(交流してくれてる方がどうとかそういう話ではなく自分の問題なのでここは誤解しないてくれると助かります汗)


そんな「内側視点」の読みもあいまって、一次的接触で楽しめないならば、それはその作品がつまらないだけだった。(自分にとってという枕がつきますが)それは駄作だったと認定するだけですから―――という傾向で作品に接していたなと思います。

2014年前後では作品がつまらなかった場合は、作品と自己どちらにも問題があるという見方をなるべく適用してますが。

 

「誰かの読み方」は一次的接触に劣ると思うからこそ

 

だからこそ「批評集」みたいな本もあんまし私は手に取らないのかなと思います。

アニプレッションとか、アニメ評論家のだれだれさんの著書などなど。全く読まないというわけじゃないですが、イマイチ気乗りしない、食指が動かないのは「言葉で説明する物語の読み方」に限界があると思っているからでしょう。(そして2014年前後でそういう本をはじめて手に取るという遅さ)

二次的接触による物語の快楽は、一次的接触に比べれば劣る。誰かの視点・読み方を知識として取り込んで、その物語の評価を変えてしまえるわけがないという実感があるからですね。

下記事でも書きましたが―――つまらないと評価した作品を後に「面白い」という評価に書き換えるには自己実体験が必要です。つまり再生批評をガチで書くか、もう一度同作品を"自分"が再プレイするしかないのです。

再生批評は「物語を再生」することが目的なので、その文章を記述する過程でふたたび作品を追想することが可能です。(私はよく実感できるんですけど他の方はわからんですが)

少なくとも自己実体験が得られことはない「誰かの物語解説」によって、自分が下した★★の作品評価(満足度)が★★★になる事はないと思います。

というかそれで評価が覆るのなら逆に「つまらない理由を解説」すればその人が感じた物語評価も下がるということになるんですけど、それは一体。

▼ 

 

ギャングスタ・リパブリカ』という作品があるんですが、これものっそい人を分ける類のやつなんですよ。

私は大好きなんですが、大嫌いな人もいる。ワクワクドキドキする楽しさがそこにはあるけど、他の人はぜんぜん面白くなかったと呟きもするそんな作品です。

そして、その人に対して「待って待ってよ彼女達の対話をコミュニティを追求するためであって何も意味がないものじゃな~、水柿こおりと凜堂禊の論戦のなかで示唆されているのは中辻のおっちゃんの~、誰もが溺れないようにすればいいのk」なんて熱く語っても

「そうなんだ、でも俺は面白くなかったんだよ」と言われるだけんじゃないかなと。実際言われました。

視点を提示したところで、読み方を語ったところで、他者の一次的接触による物語体験を書き換えられはしない

私が「感受」にこだわっているのも、この一次的接触の体感を上げる為です。二次的接触には感情はいらなくどちからといえば必要なのは"言語"のみ。けれど一次的接触に必要なのは感受がメインで、次に言語です。私はそれを"読解モジュール"と呼んでいますが。

だから「誰かの読み方」というのは二次的接触に分類されるものであって、一次的接触に関与するものではない。すくなくともメインに関与はしない思っています。

 

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誰かの視点を知るのも面白いものですけどね。誰かと語り合い、お互いの視点を共有するのわたしは好きですし。

なので読み方の伝達と語ることを否定しているのではなく、一次的接触の観点からいえば、というお話です。

ひっくり返すと「読み方の提示」と「議論」はその物語を年代を超えて残す因子になるものだと思うので、無くてはならないものかも。

十分に議論され尽くされない物語は残らない、というお話があるみたいなんですがこれが事実ならば、語り合いの<場>をどうするかという問題になってきそうだなと。

これ作品側によるところもあるので、場が全てってわけじゃないけどね。プレイヤーのあらゆる数多の読解に耐えられる作品じゃなきゃだめで、"わかるけど、よくわからない"作品こそ10年後にも伝えられていくのかなって。

そういう意味では『水月』はその条件を満たしていたのかもなんて思うわけですよ。あらゆる読解を吸い込むその物語性、中心を見いだすのが困難な"流体"のような作品ですから。

この線でいくと『SCE_2』は劇ヤバですよね。具体的に語ろうとするだけで未プレイ者の楽しみを奪うような圧倒的・複雑・難解・一回性を所有しているゲームなんて中々ない。

物語深度は無限、多重構造の申し子、その圧倒的ゲーム密度は脳髄を融解させるに等しい作品なのです。これフリゲーなんですけど、公式HPの時点で「ゲーム」ははじまっているという奇妙さ。不思議さ。すごい。

これは十分に議論されえる作品であり、あらゆる解釈・読解を呑み込むものでもあります。多くの人がSCE_2を解釈すればするほど、それを書き残すほど、ミームは拡散していきて10年後にもその存在を電子海にて漂ってることでしょう。

というか10年後も忘れずに生き残っていて欲しいですな。新規フリゲプレイヤーが「これがあのSCE_2か!挑戦してやる!」っていう空気があったら嬉しいな。

やってない人はぜひぜひ。

SCE_2

 

(私の感想も置いておきますにっしゃしゃ)(プレイし終わったらどうぞ)

 

脱線脱線。

 

えーとなんでしたっけ。

そうそう、つまり私は誰かの「こう読んだらこの作品は面白いよ」という読み方を小さい頃から教わったことがなく、そういうふうに読み、物語を体感したことは無かったなあというお話でしたね。

注意書きとして2013年あたりから本格的に「誰かの読み方」をばーっと読んで、取得して、実践してみようとしてみました。ですが、先述しましたがやっぱりその楽しさは一次的接触に劣るものでメインにはなりえないツールかなという印象です。(2013年っていうのは私がネットの使い方を、ROM専からアクティブに移行した始めてきた時期でもあります)

CLANNADを読むのに複雑な知識とかいりませんよね? 世界改変の文脈も必要かと言われればべつに要りませんしめいっぱい楽しめますし鮮烈な物語体験も味わえます。

「便座かばー」のくだりでお腹がよじれるほど笑うのに必要なのは、お笑いの知識であり会話のコンテキストとタイミングとズレと予想外の言動の成り立ちを理解していなければ―――なんてことはないのと一緒です。(私は大声で笑ってしまうほどにあれは好きでした)

 

ゆえに私の物語の接触の仕方って―――ず感受性で物語世界に同化し没入した上で→「知識・文脈読み」によって楽しさを上げるというものになります。

↑はプレイ後ではなく、プレイ中のお話であることを頭に入れておいてください。

 

 

以上を踏まえて、liatrisさんの記事にお返事しようと思います。

 ▼

 個人的には作品を楽しむためには、2番で上げた作品世界に入り込んだりバックボーンとして存在する表現方法をうまく汲み取る技術を得た上で初めで作品世界に入り込むことができ、そしてそこでようやく感受性が発揮されるという2段階を経て楽しめるものだと思っている。

via:感受性についての定義 / 作品世界に入り込むための分水嶺

 

率直な意見をいうと、おもしろかったです。

私は私の体感覚でしかものを言えないので、「感受性によって物語に没入し→没入した状態の上で知識(ここではテクニックでしょうか?)があればより面白い」と思ってました。

この過程こそが多くの人に共通している方法であり、一般化できるものだと思っていたんですけど、そうじゃないかもしれないなと。

記事を読んでまず「上空視点という概念を知り、内側視点で物語を読み込もうとしても、感受する心(外界からの刺激で感動できない)が無ければ内側視点に留まれず自動的に外側・上空の視点へと引き戻されてしまう」と思いました。

テクニックを知っても最終的に大事なのは感受性(=外界の刺激で反応し揺れる感情の幅)であり、これがないと(あるいは揺れ幅が小さいと)物語に没入できないとする意見です。

言及された記事では感受性という言葉を外界の刺激で反応する揺れる感情の幅に加え、「共感力」の意味も包括した上で使用していたと思います。

つまり

  1. 他者の痛み(=痛みに限らず五感)を自分の事のように感じられる
  2. 自分の視点ではなく、他者の視点で物事を捉えられること

この力の度合いは物語体験の感じかたに密接にかかわるものだと思っていますが、感受性(刺激に対する揺れ幅)と共感力(他者視点・感覚を汲めること)は分離して使ったほうがよかったのかもしれません。

お話は戻りますが、だからこそ私は知識ではなく感受(&共感力)が物語体感・快楽を上げるのに最も重要だと考えているんですが

しかしiatrisさんに言わせれば、まずその「上空視点を内側視点へと切り替える」ことを知らなければいけないというふうになるんだと思います。

ここは新鮮でした。というのも、私がこの3つに区分した視点を思いついたのが2013年だからです。それ以前はこういう考え方をしていませんでしたし、「テクニック」と知りながら使用したこともなかったので。

内側で見るのは誰でもできるもので、楽ちんにできていたこの方法が、そのうち、年齢や環境により、だんだんと、視点が上へ上へあがってしまい、内側視点に切り替えるのが難しくなってしまい、だから、視点をもう一度"あの頃"のように内側に固定しましょ。

というのが俯瞰高度の記事で、伝えたいことでした。

基本的にわたしは作品に没入するのが難しいと感じたことがなく(もちろん作品の質にもそれは寄りますが)わりと簡単にできちゃうのでこういう考え方に至ったのかなと思います。

 

 

なので、「感受性は高いが俯瞰高度のテクニックを知らないせいで物語に没入できない人がいる可能性」をうまく想定していませんでした。

もしこれが事実だとするとおっしゃるように、まずテクニックを教えてから物語を読ませるという順序のほうが建設的なのかもしれません。

 

「俯瞰高度」・「キャラクターの視点と自分の視点は違う」のテクニックは、「自分を排除した上でその物語を眺める」を覚えるものだと思います。

自分の価値観は主ではなく従であり、大事なのは劇中で存在する事実であり、キャラクターの視点でみた物事であると。

作品の質があまりにも低い・自分と相性が悪い作品はそういったテクニックを知っても上空視点でしか眺められないということも多々ありますが、まずはここを知っておくのに越したことはないと私も思います。

 

要約すると

・物語に没入する際、まず感受性が条件として真っ先に必要になると思っていましたが、もしかしたら『自分を排除した上でその物語を眺める』テクが一番最初に必要なのかもしれません。しかし私自身はそういったテクニックを教えてもらって物語を読んできたわけではないので、うまくここを腹の底で理解できていません。しかし「テク→感受」という順序の可能性も留意してみようと思います。

と、お返事してみました。コメントでも言いましたがこういう形の言及ありがとうございました。

 

 

■おわり。

書いたあ……ってくらいに書いた気がします。そして考えをいくばくか進められたので上々です。

唐突ですが『スロウハイツの神様』が好きな人は、『Forest』もまた好きになる公算が高いと睨んでいます。(ぎらり)

アクが強い作品ではありますが、物語だいっすきな人にはとにかくオススメして回りたいなあって思ってます。私は刈谷さんと灰流がスキですね。刈谷さんはその冷たいレイピアみたいな印象が、灰流は"手を伸ばし"続ける在り方が。

それでは、またいつかに。

 

 ▼

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*1:BLはまだ読んだことがないので、いつか読みたいです