猫箱ただひとつ

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感受性に優劣があるからこそ知識で補おうとする人がいるんだろうね

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以前から「感受性」に関する話題を追いかけ、自分なりに少しづつ理解を得ようとしてきた。

まず最初のきっかけとなったのは「ergをプレイしても泣けない人がいる、でもその人はergを趣味とする」という話題からだった。私からするとそんな"ありえない"事はないし、むしろ泣けないのにどうしてergを嗜好するのかがよく判らなかった。

言い換えれば、これは物語に感動できないと告白しているようなものだ。物語には色々な需要があるのは分かるが何にせよ最終的に行き着く所は「物語体験による感情の揺れ」だと思っている私からすれば衝撃的な事実だった。

erg(物語)に感動できないならばじゃあお前は一体何なんだ?と問いかけたくもなる。

当時考え出した結論はこうだ。

 

1、環境により感受性が劣化するから泣けなくなる。

2、そもそも感動できるほどの物語体験が今までに無かったのは、幼少期の幻想を"信じる"気持ちを失くしてしまったせい。

参考1:物語に感動するには【祈り】こそが鍵になる
参考2:ergが好きでも「鮮烈な物語体験」をしていない人は実はいっぱいるという仮説


この2つは「後天的に感受性が損なわれた」という見方である。

小さい頃は感受性が豊かであり感動する心があったけれど、生活や環境、年齢によっていつしかそれらが損なわれてしまった。だから物語に心を揺さぶるようなことが無くなっていったというもの。

けれど以下の一連のツイートを読んで、そうじゃない場合もありそうだ。


これはいずみのさんのツイートをまとめたもので、興味深い内容なので目を通して欲しいと思う。

要約すれば「幼少期に情操教育の過程を飛ばしている(=他者の気持ちが分からない)人はキャラクターの視点が理解できず"自分で見た作品理解"になってしまう」というもの。

具体的に言えば、「このキャラは洞窟の中を"真っ暗"だって言っているけどお前らの姿が(俺に)観えているのはおかしいだろ」といった読者視点でしか捉えられないということ。詳細はリンク先でどうぞ。

今までは後天的な感受性の劣化に注目していたけど、そもそも幼少期の段階で感受性が鈍い人がいるということを失念していた。

これはギャルゲー界隈でも顕著だが「セッ久の絶頂時、白い画面が点滅するけどリアルでそんな事起きねーからww」と言っている輩がいたり、他には「教室の時計は長針と短針が描かれていないのに、どうしてヒロインはあの時計で時刻が分かるんだ?」という揶揄もまた"自分が見た作品理解"でしかないことに気づけ無い人はいる。こういう人達は漏れ無くキャラクターの視点を理解できないタイプだろう。

ほんと、こういう人たち実際にいる。まとめサイトではその様子を伺えるし、SNSもじっくり見ていれば発見できるくらいには存在する。

この人たちが最初何を言っているのか分からなかったし、何のためにこんなことを言っているのか???だったけど今では「あそういう人たちか」と腑に落ちている自分がいたりする。

私が嫌いなタイプですね。

 

 

 「それって程度問題では?」

確かに。こういう「メタ(読者)な視点」は程度の部分もあるが、けれど程度が行き過ぎている事を問題視しているのが先述の一連のツイートまとめなのではないか。

特に自分の視点で物語内部を見るというよりは、物語Systemとでも呼ぶべきものを揶揄したり、ここを本気で理解できない人を問題視しているように私には思える。

キャラクターの行動が自分の価値観と合わない―――ではなくキャラクターが見ている物語視点を汲めないということ。そしてこういう人は感受性が鈍い人だと疑っていいのかもしれない。

上記のTogetterでは、情操教育を絵本の読み聞かせと語られているが、私はそれだけではなく親からの愛情を貰えなかったり、感情の共有を親が我が子にしなかった場合にも感受性(共感能力)は育まれないものだと考えている。

参考→「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) 

 

以前「物語によって多視点を育むことができる」という記事を書いたが、あれは今思えば若干誤っている。

そもそも感受性を育んでこれなかった人がいくら物語を読もうが――物語を読む為の前提を損なっている状態では――多視点など獲得できるわけがないのだ。鮮烈な物語体験(オーバーライド)、《物語そのもの》、はたまた『萌え』といったクオリア的なものも情操教育を飛ばしてきた人が得るのは難しいかなとさえ思う。

参考物語は人生をエミュレートし多視点を獲得させる力を持っている  

 

つまり物語っていうのはTogetterでも語られているが)共感能力があってこそ"読め"るもの。この能力が低ければ登場人物の心の機微を汲み取れないし、ひいては物語で感動することさえない。逆にいつもキャラクターや作品をからかうくらいしか出来なくなる。

それが幼少期に育まれなかったか、あるいは時間と共に摩耗していったかの差はあれどどちらにせよ結果は変わらない。

 

 

 

 

 

 

「情操教育」という観点以外にもそういった姿勢への要因があるとするならば、作品外の要素を意識するからだと個人的に思っている。

端的に言えば、作者であったり、声優や監督、ライター、売上、業界、物語構造、といった舞台裏(劇中外)を意識するからこそそういった視点でしか作品を見れなくなるのでは?

もし自覚があるならば先述した外的要素について言及しないことを心がけたり、内在的な視点で意識的に物語を見るようにしたらいいのかもしれない。

参考:アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。高度一万メートルの世界にお別れしよう

 

とは言え、実際のところは上手くいくか分からない。上の記事もまた「幼少期に感受性が豊かだったが諸要素により摩耗していった」という視点でのお話だから。

情操教育を飛ばし最初から感受が希薄な場合はなんとも言えない。無意味かもしれない。

 

 

そして、ようやく腑に落ちる

 

今回、感受性には優劣があることをやっと認識できた。ああ、そうか、感受性がそもそも豊かではない人、鈍い人、希薄な人がいるんだなと納得いった。

逆に言えば、こういった想定を私はしてこなかった。いやしてたかもしれないけど明確にはしていなかった。「感受性」と呼ばれるものは皆最初から十全に持っていて後に減ってしまうものだとばかり思っていた。

けれどそうではないんだろう。

だからこそ、感受性の乏しさを知識で補う人が出てくるのかもしれない。『文学とは何か』(著テリー イーグルトン )で作品批評する際に貴族的感受性(感受性のエリート)を基板にしてしまったらそれ以外の殆どの者は批評が出来なくなるわけなので知識的な体系・アカデミックを持って批評せねばならん派、の記述があったと思うのだけれど、今すこしそこを理解出来たように思う。

知識による物語の楽しみ方っていうのは読み書きできる識字能力さえあれば誰でも平等にその快楽を享受できるということだ。

知識は「言葉」で記述され、「言葉」で伝達され、「言葉」が理解できるならば「言葉の枠内」で対象への知見も深まられるしその愉悦を味わえる。所謂EUREKA的体験。

物語類型、時代性、市場、作家性―――これらは「線」で捉えれば面白く味わえる。

けれど「点」"だけ"では読めない。楽しく味わえない。点のみで読むには何がひつようか? そうやはり言葉は言葉だ。それ以上はいけないし行く為には感受が必要になってくる。こういう話をしていると『イリヤの空、UFOの夏』の水前寺が語るアキレスと亀を思い出したりするわけさ。その真理には手が届くのかって。

 

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これは机上の想像でしかないわけだけれど、他者読解能力が0な人間は果たして物語を読めるのか? 

読めないと思うんだよね。いや文字を追い、読めることは読めるけれど、そこには物語体験もなければ豊穣なセカイを感じることはないのではないか。

他者を読み解く力も共感する事も出来なければ、主人公にさえ自分を重ねるのは困難であり、時間の経過と共に読むのがストレスになったり楽しくなくて止めてしまうとさえ思う。

誰かさん風に言えば、"憐れみ"こそが人間が隠者の道ではなく共同体へとまとめあげられる最大の要因になったと言えるかもしれない。そんなふうに相手の気持ちを汲む能力っていうのは"群体"となる上での前提なんだろう。そして社会的に生きる場合でも。

 

私は、知識よりは(知識も大事だけれどね)感受を主軸にして物語に接しろと言っている人であり、外在的にではなく内在的に読むのがが物語を語る上での順序であり先にやるのが筋とさえ思っている。

けれど、そもそも真っ先に外在的に読む人がいるのは内在的に読めないからかもね……あるいは苦手すぎて放り出してしまうのかなと少し思った。もちろん好きで真っ先に外在的に走る人もいるとは思うが、そうではない人もいそうだなと。


【参考】

 

 

 

おわり

 

あとこれからのお話として、果たして「感受性は鍛えられるものなのか?」どうなのか。

個人的には鍛えられると思いそういう姿勢でいろいろやってみたけどこれだあ!っていう方法はまだ見つかっていない気がする。

このまま行くと最悪な結論として、「感受性はもう磨くことは出来ない」というのもそろそろ視野に入れておくべきなんかね。

つまり最初から希薄な人はこの先ずーっと希薄なままであり、また幼少期に豊かであっても時間と共に摩耗していってしまうということ。感受性はピークを迎えたら減り続ける一方で増えることはもう無いのだという考え方。

ただ「視点」であれば鍛えることは可能なので、もしかしたらこれが感受(共感)への道に繋がっていくかもなーとも考えてたりする。今ここ書き始めているのでおいおい投稿するはず。

てな感じで、今日はこのへんでおしまい。

またね。

 

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――次回予告

「どうしてそんなにメガネが嫌いなの?」