猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

「これは文学だ」と静かに呟いた。しかしその意味を私は定義できなかった

スポンサーリンク

ぼくは麻理のなか(1) (アクションコミックス)

まだ5巻しか発売されていない『ぼくは麻理のなか』という漫画があるのだが、面白くてあっという間に読み耽ってしまった。

そしてこれを読んで、ふと、文学的だと感じた。

 

ぼくは麻理のなかは文学か?(2269文字)


『ぼくは麻理のなか』――社会からドロップアウトしかかっている青年・小森功が、ひょんな事から意中の女子高校生の"なか"に入ってしまう精神入れ替わり物語である。

森功が麻里の中へと入った翌日から、好きだった麻里の精神はどこかに消えてしまった。探しても探しても見つからない。そしてこれ以上好きな人の人生を傷つけないように他人の人生をなぞりはじめる功。

でもやっぱり上手くいくはずなんかなくて、学校という空間、クラスメイト、麻里の友人関係、年齢と性差による摩擦によって生活は歪み始めていく。

そんな中、ある日、麻里(=精神は小森功が見上げる空がとても穏やかで綺麗だった。うすい青色と厚ぼったい赤色が混じりあいできた紫色、そこを中心とし何層にも絵の具で塗られたたかのような空の景色を見て、どことなく文学的だと感じたのだ。(※漫画はフルカラーではなく白黒なんだけど、何故かそんなイメージが見えた)

これは空の景色だけではなく、その景色までに連なる、彼と彼女らを取り巻く人間の素顔、精神の圧迫感があったからこそだとは思う。

 

 

しかしこの "どことなく文学的" は説明できない。◯◯で■■だから文学的なんだ、なんてことを述べられないのはそもそも「文学」という言葉自体が曖昧模糊であり完全に定義されていないゴーストのような言葉だからだろう。

ネットで調べてみれば誰か1人でも文学を分かっている人は見当たらず、大学を人の2倍かけて通っても「いかなる条件を満たせば文学たりえるのか」をついぞ分からなかったという人も存在し、そもそも『文学とは何か』(1983年)を執筆した文芸批評家であり哲学者であるテリー・イーグルトン(Terry Eagleton)でさえ表題の問いに明確な答えを出していなかった。いや出していたかもしれないが私には分からなかった。

 

文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。

そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会的集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役に立つもろもろの前提のことを指す。さてこれが、あまりに突飛な結論だ、私の個人的偏見だと考えるむきもあろうかと思われるので、次に、このことをイングランドにおける「文学(リテラチャー)」[教育の場における科目としての]の誕生を語りながら逐一確かめてみることにしよう。


――P58 文学とは何か・文庫版(テリー・イーグルトン)

 
そして、上の通り「『文学』に明確な定義なんてねーよ」ということが真実だとするならば、じゃあこの言葉は一体なんなわけ?ってなる。

ひとりひとりが思い思いに、主観的に、印象で、文学という言葉を使用するならばそれはもう誰にも伝わらない言葉だ。自分の中でああこれは文学的だと感じることが全てであり、他者とその想いを共有することは望んでいないようでさえある。

定義しえない言葉―――というのは実のところそういうことなのではないか? もしくは定義出来ても他者とその理解を共有出来ないのであれば同じ結果しか待っていないのではなかろうか。

以前、ある界隈で「Fateは文学か否か」という議論とも呼べないお粗末な言葉の投げかけ合いがあった。この時、そこに参加している誰一人「文学とは何か」を定義できないまま(あるいは定義しようとして定義できないまま)議題を進行している様をみて呆れたことがあった。

そこにあったのは「Fateはエンタテインメントだと思う派」と「Fateは文学だと思う派」に分かれて、各々が自分はどっち派だこっち派だと宣言しているだけだった。両者が具体例を示すことが殆ど無かったのは、そもそも文学を誰一人分かっていなかったからだろう。


そして文学が「定義しえない言葉」だとするなら、こうなるのも推して知るべきだったのかもしれない。つまり個々人が「文学だと思えた/思えなかった」以上の会話は出来ないということだ。それ以上は望めない。

だからこそ当人が文学だとさえ思えれば、ラノベは文学だし、ergも文学だし、もちろんFateだって文学だ。チラ裏に書いた今日の買い物リスト、2chに投稿したクソコメ、Twitterにアップした自虐全てが「文学」になりうる。

対象を観測し、 "文学だと感じれば" それは文学として決定づけられる。当人の中で。ならばそれは「萌え」という概念となんら変わりなく、それらは伝達の為の言葉ではなく自己のクオリアを指し示すものだからだ。

故に、ある何かの根拠として「文学」という言葉を使う者がいた場合用心した方がいい。絶対そいつはこの言葉を定義できていないからだ。もしくはローカルルールにまで練り上げられたワードとなり他者には共感しえないものになっている可能性が高い。

兎角、『惡の華』は"文学"である。

 

 

春日くん・・・

明日捨てようか

これからの人生全部


――惡の華

 

惡の華(1) 惡の華(1)
押見修造

講談社

Amazonで詳しく見る

  

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫) 文学とは何か――現代批評理論への招待(上)
(岩波文庫)

テリー・イーグルトン,大橋 洋一岩波書店
Amazonで詳しく見る

 

 

 ――次回予告(明日9時)

「日曜は、猫ニューのお時間」