猫箱ただひとつ

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作品探求時割り振るリソースによって内在的読解が可能かどうか決まるのかもしれない

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*2135文字

ここ最近inputとoutputのバランスがおかしくなっており、input(=作品を読む)ことのみが飛躍的に増大してしまっている。

読んだら読みっぱなしであり読了作品の大半はoutputされないままだ……さあてどうしようか(涙)

探求したい作品がいくつもあるけれど、費やすリソースは限られているので優先順位をつける必要が出てくる。

好きな作品、ふつうな作品、どうでもいい作品、嫌いな作品と4つに分類して、←に行くほど探求する価値があると判断すればいいだろう。右2つは切り捨てて残った2つを中心に読解していけばいい。

けれど、それでも限られているリソースの中で「なるべく全部の作品の感想を書き残しておきたい」場合どうすればいいか? 

探求するレベルを低く設定すれば、問題は解決する。


つまり、"探求をなるべくせず"にさらっと感想を書けばいいということである。5月に投稿した一連のマンガ感想はまさにそんな感じであり、書きながら「ああこれは外在的な語りだな」と思ったりもした。

 

 

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外在的・内在的な読解

 

リソースを割けないというのは内在的に読めないということであり、どうしても外在的な物言いが増えてくるんだと思う。

今回で言えば「類型」「駒」「盤面」とかそういうの。とはいえ好きじゃない作品はマンガに限らずこういった指摘はしてしまうけれども。

兎角、作品を読み込まないということは、読み込まない分、"他の何か"で代用する必要があり、それが知識の連想だったり育んできたスキームによる読解なんだろう。あるいは上澄みの感想だろうか。

この2つによって「考える」行程を0にし省けるので、軽く語りたい時や内在的読解をせずに"それっぽい事"を語る場合はやはり重宝するなと感じる。(……個人的にはあんまりやりたくはないんだけども)

だからこそ、この効率化を「考察」だと言ってのけちゃう人が後を絶たないんだろうなとも思う。「考える」とは何かを理解しないまま、あるいは無知の知を知らないまま、思考という行為をせずまま、「考察」と言ってのけるのは不味いのではないか、と再び思う。

関連→作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話



そういえば内在的に読むのではなく、「内在的に語る」こともリソースぶん取られるんだなと気づいた。

作品について感じたことを、言語化し表現することがそもそも私にとって重い処理であるのだろう。自己感情を言い表すのって難しい。

どうすればもっとここを伝えられるのか? うまく言葉に出来るのか? と考え始めるとどんどん時間が経ってしまうのでそこはカットして、今分かる所だけ書こう、というふうに書いていくことになる。

そして「思考」がカットされた記事は、どこにでもあるような内容になってしまう。

マンガ感想記事は、「読んだよー」くらいの意味合いでいいと考えているのでこれでいいとは思うんだけど……うーん、どうだろう、もう少しやりようがあるのかもしれない。

リソースをあまり割かず、かつそこそこ内在的に読み込めて、かつそこそこ語れる方法を模索してみるのもアリだろうか。時間をかけて作って(あるいは見つけて)いければいいなと思う。


それでは今日はここまで。

また明日ノシ

 


――次回予告(明日9時)

「電波教師の1巻おもしろい!そういえばアニメ化していたんですねえ」