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水月を踏み台にして考える『願いの同一性』

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*『水月』『天元突破グレンラガン』『アカメが斬る!』ネタバレ含有。3作品未視聴な場合は回れ右。

*7037文字

 

 

 

 自己同一性を保証してくれうるもの

 

 

自分を自分だと認識できるものはなんだろうか? 

それは「人格」という曖昧模糊なものに他ならないのではないか。入力された情報によって出力される結果にある種のパターン(=傾向)のようなものであり、そういったパターンを持って自分を自分だと認識できる。

けれど細かく切り分けた個々の傾向を一つ一つなぞらえても「これはまさしく自分だ」などと思えない。数百、数千、数万という傾向の総括こそが「自分だ」と思えるもの、つまり人格だと考える。

例えば私はモノを考える時に「顎に折り曲げた人差し指をそえる」仕草をしてしまうが、「顎に折り曲げた人差し指をそえた」からといってそれが「私である」と認識できるものにはならないということだ。これは江戸川の探偵がよくやる仕草でありそれを見て「あいつは私だ」なんてことを思うはずがないことと同じだろう。

個々の傾向を見てもそれはただの事象に過ぎないが、それらが一纏めになり「全体としての傾向」を帯びればそれは「私だ」と認識するようになる。

例えば私の目の前に外見からは私とは思えない人間がいたとしよう。要するに他者だ。しかしその他者の中に入っている人格が「私が考える私」の特徴を全て捉えており、それらが五感で判断できるかたちに表出していれば(少しばかり時間が架かるかもしれないが)私はそれを私だと認識するようになるのは大いに考えられる。

そしてもし「私が考える私」を考えるにあたって参照する記憶を失ってしまった場合、自分が自分だと支えてくれるものを失ってしまったも同然だ。

記憶喪失で起こるのは大抵意味記憶の欠損ではなく「エピソード記憶」の欠損である。エピソード記憶とは過去に存在したイベント(事象)の記憶であり、時間や場所や感情なども含まれる。

「私が考える私」とは過去を振り返ってこそ認識できるもの類だからこそ、その過去のデータが失われてしまえば比較することも参照することもできなくなってしまう。

故に「自分」というものが分からなくなり、最終的には「世界」すらも信じられなくなることが多い。何故なら世界への信頼度は間違いなく自分を中心にしているからであり、それがガタつき・揺らぎ・倒れそうになっているのならば目に見えているもの耳で聞いているもの肌で感じているものさえどこか虚ろで実感さえ希薄になっていくものだからだ。

自分が自分であるという感覚こそが、世界への猜疑を掻き消し、信頼を置く第一ステップ。そしてエピソード記憶の連続性こそが人格を――ひいては自我を――保証してくれるということになる。

 

【関連記事】 

水月』という作品では主人公である瀬能透矢は事故によって記憶喪失になり、前述した事も含め「過去への猜疑」と「周囲から過去の自分を押し付けられる」ことで心が壊れていくようになる。

そこで瀬能透矢が那波をとおして得た現実への接し方は「今」を見続けるものであった。過去も未来も存在しなく、ただ今だけを捉え今ここだけを見ては感じ認識することで「過去への猜疑」と「周囲から過去の自分を押し付けられる」懊悩を取り払った。

 

「ええ。わたくしは、生まれた瞬間から、この年齢で、こういう記憶を持っていたのかもしれませんわ」


「極論だね」


「そうではないと、どうして言い切れますの?」

「少なくとも、僕はここでナナミが倒れていたのを覚えている」


「ですから、その記憶が確かなものだと、どうして言い切れますの?」


――透矢、ナナミ

 


そして世界の転移・世界の改変とでも呼んでもいいような事が『水月』で幾度も繰り返されるのは、まさに「今」だけを見続けなければ心が壊れることを示すものであったと考えている。

人の認知方法は「空間」と「時間」の2つを主軸にしており(だからこそ同じ経験をした場合人が感じる有り様は全く別物になるのではなくある程度近似値になっていく)、これらが乱される(あるいは無視した)事象を起こされると脳がパニックなる。うまく認識できなくなるからだ。例えば目の前に親しい人がいるとしよう。一秒後、その人はチェンソーで切り刻まれたかのように肉を弾けさせながら死んだ。え? と思いきや半秒後親しい人は平然とした顔でこちらに微笑んでくる、死んでいない。大丈夫、生きている―――刹那スプリンクラーのように血を撒き散らしながら死んだ。

こういった事を何度も何度も現実で繰り返されると想像してみてほしい。百、千、万、恐らく気が狂うと思われる。

「時間の連続性」を無視したこれらは生きている日常ではまずお目にかかれない出来事だ。更にこの「体験しえないもの」ということは、「現実世界のルール」は「時間の連続性」によって成り立っているとも言える。

しかし就寝時に見る「夢」の場合は得てして「時間」というものを無視した場合が多い。それも無視しているに関わらず「夢」を見ている場合に置いて私たちはそれを不自然だとも思わないしパニックすらも起こさない。

これが何故なのかは分からないが、ただ言えるのは瀬能透矢に起きたさまざまな不可思議な出来事は、自分を自分だと参照する情報を持たずただただ現実認識だけを持った少年が「夢の世界」に行ったからだと考えれば腑に落ちる。

――親しい人は突然消えていなくなりては、自我が空転していく。

そして戸惑いつつも、徐々に夢世界に慣れ、最後には『いまここ』を見続けることが出来るようになっていた。そんな見方も可能だろう。

 

まだ、何をしたらいいのか、誰のことが好きかとか、よくわからないけど、自分の生きる世界、みんなのいる、この世界が好きだ。

だから僕は、もっとこの世界に生きたい。もっと、いっしょうけんめいに勉強をして、弓道をして、恋をして―――

辛いこともたくさんあるけど、そうやって、生きていこう。


――透矢(牧野那波√ラスト)

 

 

 

 

願いの同一性

 

私は自己を同一できるために必要なものを人格であり「記憶」だと言ってきた。ただもう一つ自分を自分だと認識するものがあるのならばと考えるとそれは「願い」なのではないか。

―――願いの同一性によって、その人がその人たらんことを保証してくれるかもしれない。時間の連続性ではなく「意志」「感情」「気持ち」が同じであればあることがその人をその人だと証明してくれるかもしれない。

水月』では那波√のラスト。那波と透矢は交わりの後、世界が途切れるかのようにして暗転し終わり、そして再び世界が始まったかと思えばそれは以前とは全く別物になっていた。那波はミステリアスな雰囲気がなくなり朗らかににこにこと笑う少女になっているし元気に歩いている姿からして「あの伽藍堂な牧野那波」とは別人では?と思ってしまうほどだった。

この世界では那波も透矢も以前の世界の記憶を保有していないようだった。


この時思う。「記憶」がなくても以前の世界から引き継いでいるものがあるとしたらそれは「想い(願い)」だと。

以前の過去記事でもここは言及しているんだけど、『水月』では「今だけを見続ける」以外にもこの「想いの連続性」がいろんな所に見かける。那波√は特に顕著なのだけれど、共通√、BADENDでもちょくちょく出てくるし、そもそも風船ウサギのお話だって「過去の透矢が願ったこと」が現在(というと語弊があるが)のユキさんへと繋がっているのだから。

 

「わたくしたちは、きっと惹かれ合っていますの。ですから、夢が覚めても、その先の夢でまた出会えますわ。その中にはわたくしたちが繋がる未来も、またあるはずですもの」

「また、会えるのかな?」

「いつも、私たちは出会っていますわ。いままでもこれからも、想いは必ず、いつかどこかにつながっていくんですもの」

――"ナナミ"、透矢

 

故に那波√の、世界改変後の透矢は、以前の世界の透矢の「願い」をきっちり受け継いでいるからこそ「この世界でちゃんと生きようがんばろう」と思えていると考えられる。願いは受け継がれていると。

 

 

よく「自分の心に相手が息づいている」と呼ばれるものもこれに当たる。

「あの国をぶっ壊す!」から「帝都をぶっ潰す!」といった願いを持った人間がいて、その人が死んでしまったとしてもその願いを他の誰かが受け継いだのならば故人はその誰かの中にいると言っていいのかもしれない。

天元突破グレンラガン』もまたカミナの「無理を通して道理を蹴っとばす」生き様をシモンは受け継ぎ、『アカメが斬る!』では"インクルシオ"という鎧を引き継ぐくとでタツミはブラートの意志を受け継いだ。

 

 

アニキは死んだ! もういない! 
 

だけど俺の背中に
この胸に
ひとつになって生き続ける!


――シモン

 

 

シモンの前口上はとても分かりやすくていい。カミナという人間はもう死んでしまったし肉体もその精神ももちろん人格さえもこの世から消え失せたけれど、カミナの「想い」だけはこの世界に存続している。

シモンがカミナの「想い」をこれから先また別の人へと受け渡し、連綿とその意志が気持ちが感情が続いていくことで兄貴は"生き続け"る。

人々の願いがこの世界にあらゆる所に遍在している。それはちゃんと見ようとすれば昔から続いてきている「伝統」「しきたり」「倫理」「古典作品」「思想」などもあらゆる民の想いが込められたものだと言える。

そこには個人の肉体も精神性も排除されてしまったものの、込めた想いは現在まで受け継がれてきているのだと。

…時代の移り変わりによって「想い」が変質することもあろう、だから永遠に込められた想いが受け継がれるわけではないが、確かにそういった人々の気持ちや意志、信念は今までもこれからも繋がってきていた事を表している。

他にも「集団」も「願いの同一性」で紐解ける。集団っていうのは所属している人間とは違う、もっと別の「意識」みたいなものが滲んでいることがよくあある。一人一人個別に会話すると平凡でふつうなのだけれど寄せ集まって「集団」になると「集団ならではの意識」によって彼らが動くことはしばしばある。大して怒っていないのに"みんな"が怒っているからと言って自分も怒り始めたり、石をぶつけてもいい"雰囲気"だったから誰かに石を投げはじめたりする。

これはその集団に属している会員の平均値の「願い」が表出した結果と見てもいいし、あるいはその集団の外部にいる誰かの「願い」が働いているのかもしれない。

想像がしにくければ、左・右でもいいし、著名人が過失をしたさい暴言を平気で投げつけることに躊躇いがない群衆を思い出せばいい。

兎角、ある集団内において、その集団としての「願い」を持ち突き動かされることがある。

 

 「集団っていうのは、そこに所属してるひとりひとりとは違う……一種の化け物みたいなモノなんだよ。私が悪魔だって云うなら、集団っていうのは人喰い鬼とか単眼巨人みたいなモノだね。RPG的には」

――神尾愛生(セミラミスの天秤)

 

 呪いと祈りもまたその類だと言っていい。

家族からグリザイユの想いを受け継いでしまったら自分が見る世界はそのように変貌するのもそうだし、また別に家族や親じゃなくたってテレビ、雑誌、webだって誰かを感化をさせてその情報に滲む「想い」を誰かに受け継がせてしまうことだって十分にある。

筆者の嫌悪と怒りが滲む言葉を聞いているうちに、段々と自分もまたそれに対して怒りが湧いてきてしまったり、逆に愛おしさが溢れてきてしまったりするわけさ。こういった「祈り」や「呪い」もまた願いが受け継がれていったものとして読むことが出来る。

 
こういった「願い」を誰かへ受け継がれたならば、その「願い」の所有者は最初に願ったその人だと言ってもいい。同一の存在ってことだ。カミナの生き様を持ち得たのならシモンはカミナであるし、帝都をぶっ壊すというブラートの夢をタツミが引き継いだのならばタツミはブラートひいては"ナイトレイド"そのものであるし、キリストを信奉する群衆、仏陀の教えを忠実に守ろうする人達―――集団としての願いに添って生きる者全てだ。


以前『Fate/stay night』のイリヤと『プリズマ☆イリヤ』のイリヤは違うからこそ、二次創作ではイリヤスフィールは救われないと語った。


 ▼

 

プリズマ☆イリヤ』に限らず、こういった「本編では不幸な人間を二次創作で救うような作品」ってちらほらある。『魔法少女まどか☆マギカ』だったら……いやここは置いておこう。

興味があるのは「不幸だったキャラクターが二次創作救われると思ってしまう」所にある。

イリヤっぽければいいのか?」「姿形が似ていればいいのか?」「二人の精神性は違うんだぞ?」「本編の彼女の同期性を無視してでも仮初の幸せが欲しいのか?」と考えていくとなかなか鬱である。

その世界では「中身」が同じことを求めているのではなく「外見」が同じでさえあればいい。"だいたい"似ていればいい。なんてのは……本編のイリヤの気持ちを無視しているようで悲しくもなったりする。

しかしこれは「自己同一性」を「記憶」で担保した考えでもある。しかし自分を保証するものが記憶以外にあるのだとすれば?……"願い"であるとするならばどうだ?

「願いの同一性」という考え方ならばイリヤとプリマは同一だ、と看做せるかもしれない。そうだとするならば、本編のイリヤは"救われ"たという主張さえ出来るかもしれない。

さらにここを一歩突き進めると数多の―――大きく断絶している――《物語そのもの》さえも接続可能という事になる。一見それは神話批評や物語類型による見方のように思えるがそうではない。

ある《物語そのもの》での誰かの「願い」が、別の《物語そのもの》で"同一"であると観測されるならば"個人間"として別々の世界が人同士が接続されるということだ。

一番分かりやすいのは、『魔法少女まどか☆マギカ』を本家として、そこから派生するありとあらゆる二次創作本に「まどかの願い」や「ほむらの想い」が受け継がれている「まどか」や「ほむら」がいるのならば、彼女たちは本家のキャラクターへと同期が取れる、と言えばいいか?

もう少し応用させると「明日晴れますように」という願いを持った人物がA物語にいるとする。そして二次創作でもシリーズものでもなんでもないB物語で「明日、晴れますように」と願う人物がいたとしよう。

A物語での人物と、B物語の人物は姿・形・精神性・性別・人格といった様々な事が食い違っている。けれど「願い」という点で持って彼彼女は繋がっている。この考え方がどう役立つかは今は分からないけれど、そういう見方もありえるというこだあね。

以上で、願いの同一性については終わり。今後何かあれば書き足すかもしれない。

じゃね。

 

 

 

 

 

 ――次回予告(今日17時)

「悪魔と聖女が交錯する『セミラミスの天秤』について少しだけ語る」