猫箱ただひとつ

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再考・クンフー論(4328文字)

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(本来なら2014年中に出す予定だった記事)

 

<注>本記事は、以下の記事からのお話になりますのでまだ読んでいなければ読んでください。じゃないとよく判らないと思います。

 

クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること 

 

 

 

クンフー論をふたたび考える

 

ここにきて何が問題かというとクンフー積み上げていった先に達成したいことである「目的」とか「目標」とかが自分の中で消滅している。あるいは忘れてしまっていて思い出せないということです。

ま、これはこれでいいんです。

クンフーは好きから始まることの目的から手段の逆転現象ですから。最初に決めた目的が本当にどっか行ってしまって手段をこなしていっているというのはむしろクンフーをちゃんと出来ているといっても過言ではありません。この一年間ひたすらに思考を積み上げて気がするよねこの一年間。

ただ目的がないと惰性的な行為の繰り返しになるのでそれは避けたい。目標は行為の繰り返しのなかで忘れてもいいんですが、振り返った時にはその都度再設定してやらんとなって感じです。

そこで初心に帰りましょう。超大事。

何したらいいか判らなくなったり道に迷ったら遠い日の自分を思い出すことで指針が生まれてきますからね。ほらフィーナ・ファム・アーシュライトも言っていたじゃないですか国教は心の基板だぜって。

 

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まずこのブログで言っている「クンフー」という言葉のはじまりは海燕さんの記事から。

【無料記事】だれにも愛されなかった人間がひとを愛せるようになるにはどうすればいいか。(8976文字)

 

意訳するならば「自己肯定できない人でも"好き"を特異点にしそれを10年間くらい積めばいずれ自己肯定できるようになるよ」というもの。

私がクンフーという手段を目的化し行為の追求行為をしてみようかなと思ったのは、単純に「面白そう」だったからでしたよね。LDさんすげー!と思いましたし、その地点に行ってみたいなと思ったわけです。

最近は「ラジオを聞く」という行為に腰の重さを感じてしまいLDさんのラジオはあまり聞けてないんですが、ただラジオで覗かせるLDさんの落ち着きぶりや、身(声)のこなしは尊敬に値するものだと思います。

海燕さんが言っているLDさんの自己肯定感はおそらくここのことですよね。Angel Beats!のラジオの時、いずみのさんと会話しててある言葉を使用するか否かという場面で非常に気まずい雰囲気のなかでも動じた様子がない等。。

とは言えクンフーの結果として訪れる「自己肯定感」や「誰かを好きになる」ことについて興味がなかったりもします。私はあまりここを問題視したことがないというのもありますが、むしろ別の案件のほうに興味があるからですね。

となってくると、そもそも私がクンフーを始めたキッカケは「なんだか面白そう」以上のものではない。だからクンフーを積み上げた結果としてこうなりたい、こう達したいというものがあまりにも希薄なんでしょう。

つまり、私はクンフーへ切実になる理由がないとも言えます。趣味、道楽、伊達や酔狂と言ってもいい。

仮にこれから先何らかの目標を設定するとしても、どうしても「これでどうかな」くらいの願いしか込められない。切実ではないということは、本質的な望みを言えないということですから。

だから2014年を振り返って見た時に行為の練度(思考のレベルや視点の広さ)は上がっても、それらを追求した「クンフーの特徴的な結果」を感じられないのは当たり前なのかもしれません。

 

クンフーを年単位で積み続けることで与えられる報酬は以下の3つでしょうか。

  • 「他者の評価を顧みない」
  • 「行為の没頭化が容易くなる」
  • 「他者の承認を必要としない(自己肯定感を上げる)」から→「誰かを愛せるようになる」

この3つ私にとって"本当に欲しい"ものではない。

「なんだか面白そう」という以外に、実は別にある☓☓を手に入れるかな?と思ってクンフーに取り組んできたわけですが、それはクンフーを積む事ではおそらく手に入らないことがこの一年間で分かったなと思います。

「おそらく」、という言葉をつけるのは一年くらいではなんとも言えないのかなという気もするからですね。けど自分の直感を信じるのならば、多分それは……手に入らないんじゃないかな。

てその☓☓が手に入らなくても、現時点では別段困らないというのも(幸福と直結してないのが困りものなんだよね)問題なのかなという気もするんですが、まそれはいいでしょう。

―――ということを考えると、やはりというか自分は「どうすれば面白くなるか」を起点にして臨んだほうが充実しそうです。涼宮ハルヒ的思考大切。

 

 

涼宮ハルヒの分裂 (角川スニーカー文庫)
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この頃ののいぢ絵ともっと昔ののいぢ絵どちらが好きかと言われればgrh

ごほん。

つまりあれだね、私にとってクンフーを積むことの目的に「目的はいらん」ということを打ち出してしまった感がある。クンフーで得られるのちの報酬に眼が眩まないということはそういうことでしょう。

ならどうするかと言えば、もう単純に「行為の追求化」しかありえない。語る事に目を向ければ「語ることを洗練化」させ、解釈することに眼を向ければ「解釈を鋭敏化」させていく。

これは今までと同じだなあ……。いや楽しいんだけどさ、新鮮さがない。

 

アニメをアニメとしてエ口ゲをエ口ゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ

 

去年は「閉じる読解」の適用範囲と、その限界が見極められたのは良かったなと思います。

"閉じ"られるのは「自分」という文脈までであり、それすらも閉じようとすると根本的に解釈することが困難……というか無理なので矛盾を引き起こしいずれ精神が壊れると。

妥協は大切です。

 

 →作品を語るときになぜあなたは「文脈」を使うんですか? 

 

そしてこの閉じる読解の限界は、作品以外に開かれた楽しみまでは掬うことが出来ないということでもあります。

ラブライブ』はとても分かりやすい例だ。下の記事を書いたときに言われたのが「ラブライブはアニメだけじゃその魅力分からないよ」ということでした。

そうなんでしょう。アニメだけでここまで世の中がラブライブに熱狂的になるのはどう考えても不自然ですけれど、そこに+投票イベント+声優+youtube+ソシャゲー+ライブ+二次創作+派生商品を包括的に味わうことで『ラブライブ』の魅力が引き出されるんでしょう。

ラブライブ』はアニメを指す言葉ではなく、どちらかと言えばそういった<場>の総称と捉えるといいのではないかと考えます。

ラブライブが熱狂的に扱われている現状がよくわからない


「閉じる読解」のポテンシャルは大体把握したので、そろそろ次のステージ行きたい。

今考えている題材はこの4つ。

  1. アルコール*1
  2. 心拍強度の高い運動*2
  3. メディテイション*3
  4. 再生批評*4


明らかに「フィジカル」領域に入ってきた気がしてここまでするのかとまあ自分でも思うんですがでも楽しそうです。ここって前に石動さんと話していたことなのでそろそろ言語化する作業に移りたいですね。

こういうときTwitterのログを自動で取ってくれているツイエバは神って感じします。そして永遠に。

 

<関連> 

涼宮ハルヒの憂鬱 文庫 1-11巻セット (角川スニーカー文庫 )
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