猫箱ただひとつ

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会話はコンテンツを媒介にしてコンテキストを共有することが多いような(2660文字)

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「会話」に意味ある内容とか、思考を深めていく話題は特段必要ではないということだなーということをここ最近改めて思います。

私は考えを深めるような会話も好きですが、だらだら~とした「今日はいい天気ですね」みたいなやつも好きです。

 

会話ってこういうものの方が多いような気さえします。先に挙げた 「今日はいい天気ですね」は分かりやすい例なんじゃないですかね。

これは別に「天気」について深く話したいわけじゃないと思いますので

 

彼らが天気の話題ひとつでも見知らぬ誰とでも笑い合えるのは、必ずしも伝えたい意思や情報があるわけじゃないからだろう。

声をかけ、声をかけられる。ただ「声」であればいいんだ。
意志や情報を伝えられる「話」である必要はない。
だから心に浮かんだよしなごとをただ口にするだけ。
つれづれなるまゝに。僕もそうありたいと願う。

――俺たちに翼はない

俺たちに翼はない (通常版)

俺たちに翼はない (通常版)

 

 

―――ってことを考えると、「会話はコンテンツを媒介にしてコンテキストを共有する」ものだろうなと。

 

 従来の考え方では、コンテキストはあくまでも背景事情のようなものであって、決して前景化しないBGMだった。前面に出るのはあくまでもコンテンツであり、「コンテキストに沿ってコンテンツが流れる」というような言い方で、コンテキストはコンテンツを媒介するための舞台装置のように捉えられていた。

 しかしこれを文化=コンテキストという概念で逆転的に捉えると、こういう説明が実は成り立つ。

 「コンテキストの共有のために、コンテンツが利用される」

 つまりは相対的な文化の感覚を人々が共有し、共鳴し、共感するためのツールとして、コンテンツが使われる。コンテンツを楽しむことが目的なのではなく、コンテンツはコンテキストを共有するための素材にすぎない。

100年後の「本」|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー

 

上記事では文化・音楽・Facebook・写真・動画についてのものですが、「会話」もまた当てはまると思います。

話している内容が特別に大事ではなくて、話者の文脈を互いに共有することが大事ということですね。

ここが「会話はキャッチボール」という例えにも繋がてくるのでしょう。キャッチボールのように――互いが内容を送受信できるように――会話を繰り返すことが肝要だと思いますから。

さらに言えば会話を続けるための「伝え方」も必要なはずです。オブラートに包むような言い方とか語彙による言葉の包括の仕方とかいろいろ難しく言えるとは思うんですが、個人的には「敬意」という一言で言い表せるのかな?と思いました。あるいは親しき仲にも礼儀ありという言葉でもいいのかもしれません。

きつい物言い、あるいは直球な言葉は相手を無闇に傷つけたり、不快な思いをさせる可能性が高いです。なのでそういった言葉を控えようとすることは相手を尊重するということ同じなのかなと考えます。

会話のパターンはいろいろありますが、(お互いに)楽しい会話の前提って「相手を雑に扱わない」から始まるものなんじゃないかな。

もちろん「誰にでも」これが出来るかといえば私としては難しい。でも、せめてこれからも仲良くしていきたい人たちには気をつけたい。ついつい話の流れで雑なツッコミとか、雑な批判とかする時ってあるじゃない「ばかかお前」とかそういうのね。

コミュニケーションはかなり複雑で「相手を尊重する」ことが前提にあったとしても、それがイコールで「楽しい会話」になるわけではないと思うんですけどね。

その場の「空気」「相手の反応軸」「相手の文脈」「思考背景」「文化」とかいろいろ踏まえて会話しなければ楽しい会話ってなかなかならないような気がします。さらに"リアルタイム性"が加わることで難易度上がっていくわけで、これねー「相手との相性」を超えて出来ちゃう人はほんと凄いよ。

文章での会話もそうだと思いますが、発話のコミュニケーションはよりそこらへんの比重大きいんじゃないのかなって思います。ここが互いに踏まえられる関係(気の置ける)人との意味のないだらだらしたお喋りはそりゃ楽しいわけです。

ただ、コンテキストを共有することが会話が行き過ぎると、ネガティブな話題(誰かの不幸をネタにするetc)を率先して挙げることや、コミュニケーションを取るためにコンテンツを過剰消費するようになっていくとも考えます。

前者はどこどこの誰かが離婚したとか、こんな不幸があったとか、場を沸かせる為に他人の噂話・悪口をへいきで話題提供する人のこと。

ポイントは「他者とコミュニケーションを取れるならば話題は選ばない」ところなのかな。

その話題について質疑応答・議論・反論をしたいわけではなく、ただコンテキストを共有する為に(自分が楽しい時間を過ごす為に)、ネガティブな話題を投げてくるのね。

その話題の当事者ならば分かるけど、当事者でもないなんでもない人がネガティブな話題を投げてくるのって結構ある。石を投げれば必ず当たるほどにこういう人はいるし、見かける度に辟易する。本当下品。

誰かさんの気持ちよくわかるよねって感じですね。これ自分の知っている人の悪口とか噂話とか投げられると私は表情がすぐ変わってしまうので何とかしたい。露骨に「うわ」って顔している気がする。いやでもそんな話題投げてくんなよって感じなんだよな……。

と言いつつ、話題がすっからかんになったときふと「あれはないよな」「なんだかおかしい」「あいつ……」と何かしらの「批判」をして話題を補填しようとする自分にも嫌気が差す。露骨な噂話や悪口の話題提供はやらんと決めているけど、気抜いていると小さい批判を始めてしまって「ネガティブな話題をしないようにするって気をつけると本当に難しいんだな……」ってなる。


後者は特定の人物と会話するためにモンハン買ってきたり、アニメを見始めるような感じです。「コンテンツを過剰に消費していく」って意味分かりやすいでしょ。

とはいえ誰かからおすすめされたものを享受するのが悪いという話ではなくて、それが「面白そうだから見る」のか、それとも「皆と話題を共有するために見る」のかの違いです。

なんでも共有することが主目的になってる流れを感じますから、ここらへん自覚的になっても損はないのかなと思います(自分も噛みしめるように)

ってことを考えてみたのでした。

ではまたね。 

 

 関係なさそうで関係ありそうな。いい本ですよ。そういえば振り返ってみると私はこれ全然できていないな……