猫箱ただひとつ

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痛みは正しく循環しなくてはならない。憎悪の無限錬成を食い止めるべきなのかどうかってこと(3412文字)

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本記事は以下の作品のネタバレを盛大に含みます。

  1. ファタモルガーナの館
  2. ひぐらしのなく頃に
  3. はつゆきさくら

上記作品一つでもプレイしたことが無いのならばここで停止することをおすすめします。見ると後悔するくらいにネタバレ大量なので。実験的記事。

 

核心的・ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

 

復讐とは、自分にもたらされた被害を、もたらした相手に返すものだと思う。

名誉を傷つけられれば傷つき返し大切な人を奪われたなら同等かそれ以上の報復を行うことで相手を苦しめたらんとする。

時に復讐を受けた相手は、例えその復讐が正当なものだとしても逆上しさらなる復讐を繰り返す場合もある。

復讐は復讐を呼び、繰り返される。

そんな復讐の無限錬成が行われている所には正義や理性なるものはなく、ただ相手がムカつくからぶっ潰すという感情論に行き着いてしまう。

私は第一次復讐は正しいと思う。不当な行いを受けたならばやり返せばいいし、理不尽な行いを被ったのなら相手にも同じ思いをさせればいい。痛みは正しく循環させなくてはならない。

このとき道徳的価値観はそれを否定する。大抵の場合は復讐してはならない言い始め、挙句の果てには「赦しなさい」と説いてくる。正しい。あまりにも正しすぎる。

この復讐する気持ちを誰かが「受け止め」なければ、その復讐の連鎖はずっと続いてしまう。だからきっとそれは止めるべきなんだ。誰かが止めるのではなく、自分が止めるべきだ。

 

ファタモルガーナの館

ファタモルガーナの館

 

 
『ファタモルガーナの館』でモルガーナはそういった聖女的思考に苛まれることになる。そうした清廉なる思考に精神は耐え切れなくなり、モルガーナの魂は「魔女」と「聖女」の2つに分かれることになってしまう。

人を呪う魔女と、人の幸福を願う聖女。この2つはそんな理想化された観念の歪みによって引き起こされた自己分裂である。

そう、人の身では耐え切れなかったんだよ。

復讐をヤメろ? この憎悪を自分が受け止めろ? しかしそんなのは理想論だ。現実には役立たない理想化された観念に過ぎない。

……私……、あの娘……大嫌いだったんです。犠牲的で……、見ていて苛々する……。

――モルガーナ

 

自分の子供を殺した人をあなたは許せるの? 
自分の人生を滅茶苦茶にしたヤツをあなたは赦せるの? 
大切な人を苦しめた人をあなたは赦せるのか

赦せるわけがない。

『はつゆきさくら』ではパーティーの爆発事故によって顔に火傷を負い、満足に人前には出られなくなってしまったランという少女がいる。

彼女は自分の中にあるどうしようもない憎悪を他者にぶつけることで救われることになる。

 

「憎いかい」

偉いおじさんだ。あの夜も、パーティーを主催していた。

「君の姿をそんな風にしてしまった人間が、憎いかい」

「そんな……私は……」

「私は……」

「憎むことに、罪悪を感じることはない」

「そんなことまで、自分を責めてしまったら、それこそ君には……我々に救いがない」

「君には憎む権利がある」

「憎むことによってしか救われないと思いというのはあるよ」

憎むことによってしか、救われない。
「あ、あ……」
「ああああああああああ」

「憎い、です」

「私を、こんな風にした人たちが。未来を、奪っていった人達が」

「いっそ、殺してくれなかった運命が! 憎いっ。憎いです!」


「ならば憎みなさい。誰に遠慮することもない。君には、その資格があるのだから」

「しかし憎むだけでは、自らを毒するだけだ。それを、しかるべき相手に、しっかりと受け止めてもらわなければならない」

「そうやって、世の中の痛みは正しく循環していくべきなんだ」 

「さもなければ、報われない魂が生まれ……それはやがて、とても悲しいゴーストに成長してしまうから」

―――ラン、大野

 

彼女には憎む権利があった。

そういった言い訳にも似た言葉だとか、そういった言い方によってランの復讐が正当化したものだとは思わない。正当化したのではなくそもそも最初から正しかったんだ。

ランはあの時、佐々木を憎むことで絶対に救われたはずだ。佐々木はそうされる事を行った(はず)だし、そうすることでしかきっと彼女は生きれなかった。憎んで何が悪い。憎むことの何がいけないんだよ。

そうして憎悪は自己内で無限に錬成をし始め、最後には自分では扱いきれないほどに大きくなっていく――賢者の石の暴走によって無限錬成を行ったように――その想いはものすごい勢いで膨らみ続けていく。そして復讐こそが正しいんだと、実行し、成功する。

その時に待っているのは……もしかしたら無味乾燥な現実だけかもしれない。そうして今一度後ろを振り返ってみたら、過去の曖昧だった景色がさらに曖昧へ曇っていたかもしれない。

でも救われる。彼らの気持ちは救われるんだ。復讐はそれだけの為でいいし、それこそが正しいことだと言える。

―――復讐とは、自分を救う為に行うものだと。

 

 

けれども、これは「みんな」が同時にいっせーのせでやり始めなければダメなんだとは思う。

自分一人が始めたからといって、誰かを赦せるように頑張ったからといって、結局それじゃただのいい人なだけだし損ばかりだ。ボロ雑巾のように扱われる未来しか思い描けない。

あるいは梨花ちゃんのように無限のような苦しみと地獄を味わなければ、その境地には辿りつけないものだとさえ思う。

それはある種の聖人的思考だからこそ、衆生には重すぎて扱えない。纏うことさえ困難だ。

 

「………敗者なんか、……この世界にいらない…」

「……これが、………古手梨花が奇跡を求めた千年の旅の最後に、……辿り着いた答えよ…」

答えは、……圭一と出会ってから始めた部活の、……一番最初のゲームに、…もう込められていたのだ。

カードの欠けたトランプでゲームをするから、敗者が必ず出るのだ。

信じあい、助け合うことで欠けたカードを補えたなら、………それは52枚の完全なるトランプ。

敗者の出ない、完成された世界。

仲間の出ない、完成された世界。

誰一人、輪の外で指をくわえてなくていい。

誰一人、罪を背負い込んで泣かなくていい。

全員が手を取り合い、罪を赦せる世界。

人が生きる以上、垢が沸くように罪も沸く。

大切なのは罪を沸かせないことじゃない。 罪を赦すことなのだ。

罪に対して潔癖であろうとするから、より世界は醜く歪むものだ。

罪を、受け入れよう。

そして、みんなで赦そう。

それが、古手梨花が見つけて至った、完成された世界…。

それは、……1人を敗者にしなくてはならない、人の世の罪からの解散ーーー。

――古手梨花ひぐらしのなく頃に


もちろんこれを全否定はしたくない。ただ現実に寄り添えるものでは未だ無い……と思う。

 

 

人の身では、届かない高みだったのよ

もどかしいでしょう? 目の前に、1%にも満たない可能性だけがぶらさがっているのは。
やりきれないでしょう? 無理とわかっていてもなお縋りたくなるのは。

――本堂沙也加(最果てのイマ


本当にね。

そしていつだってこういうった時のお決まりの結論は中庸的意見に成り下がる。なあなあであり、"なるべく"そうししよう取り入れようという惰性的結論でしかない。

けれども繰り返すが私達は聖人にはなれないし、聖人を真似ることさえ無理だ。

せめて人間の初期値の精神が80歳に近いのものだったならば、こういった解決もありえたのかもしれない。リースリット・ノエルのようにあるいは古手梨花のように世界の清濁を合わせ飲み干した者に近い精神構造ならば可能だったかもね。

地獄の責務を背負い、それに耐えられた者ならば―――。でもそんなのは無意味な考え方だ。

ああだからどう考えても(一次)復讐は正しい。としか今は言えない。