猫箱ただひとつ

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殺して解して並べて揃えて否定し肯定する『炉心溶融』(5419文字)

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ふと、2014年の記事を振り返るといろいろなものを否定してきたなと思う。作家論、過剰な文脈、スノップ、冷笑的なもしくは嘲笑的な読者を否定してきたし実際のところ本当にそう思っている。

冷笑的な読者に関しては叶うのならば消えて欲しいとすら感じている。彼らはあらゆる作品・物語に関わるべきではなく接するべきでも語るべきでもない。そんなふうに殺して、解して、並べて、揃えるみたいなことをしていると零崎人識を思い出すな。いやどうだろうな。*1


【議題】物語を殺し、食い散らかしている奴らは金輪際あらゆる作品に関わるべきではない  

否定する度に別にどーでもいいんだよねという気持ちも浮かび上がってくる。作者解釈が好きな人は好きにやればいいし、過剰な文脈で楽しんだって冷笑的に接しようと構わない。

誰かの楽しみを奪う権利なんてないし、誰かの行動を変えようという胡散臭い試みである「啓蒙活動」なんてものを私は信じてなんていないのだから与えられた―――いや違うな、最初から"規定"された心の指向性は変えることは無理でもあるしね。

他者にそれを変えることは出来ない、本人にすら変えることは不可能だろう。自分の意思でどうこう出来るものではないからこそ故に「啓蒙」を信じている人は勘違いしているんだよ、"正し"さで人は変わらないということを。

ちなみに私は「多様性」というものを肯定している。ならば自分とは"相容れない"ものについても嫌いだろうともっと穏便に接していくべきなのだ。猫の背中を撫でるようにね。

けれど多様性っていう概念自体がとても「相対的」なんだよ。異なるものを受け入れるっていうのは、自分が本来請け負っている価値観とそれとは別の価値観を強制的に「同じにして」見ようというものだから。

自分と同じ、自分が大切にするものと同じだからこそ、"相容れない"ことすらも寛容になれる。肌の色も思想も障害も教条も信念も嗜好も受け入れられる、許容できる。これが多様性の本質ではないかな。

それは突き詰めれば突き詰めるほどに、異なる価値観を許容すればするほどに全ての意味はドロドロに解体していく。

…極端な「絶対視思考者」か「相対視思考者」に出会ったか、仮想敵とした所があったんですかねえ?wガッチガチに不寛容排他な「絶対視思考者」や、ドッロドロな意味解体の「相対視思考者」(擬音でどんな感じがイメージしてくださいw)に遭遇して“逆張り”を決意したとかね。(あるいはシャドウに遭ったか…)

――絶対視思考と相対視思考 - 今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

今から4年以上とすこし前に、いやもっと前か? そういうことを無意識にか意識的にかは分からないけれどやってきた。自分の周りに起きた物事について「理解可能か/許容可能か」という選択基準を設けていた。

多分そうしなきゃいけない環境だったし、ただ単に自分の心の指向性がそういうものだったのかもしれない。もしくは様々な日常生活に愚図り続ける友人へのあてつけだったのかもしれないけど今となってはどうでもいいか。

なんであれ人の意見を遮り自分の意見を悪びれもなく語ることや、暴力行為、誰かとの口論、マナー、約束、犯罪、誰かの気持ちを叩きつける倫理に違反することそういった日常に取り巻く事情において適用してきた。

そしてなるべくならそれら全てを受け止められるように努力し、それを受け止められないのならば何故を受け止められないのか? どうして受け止められるのか?と考えるようにしていた。ある行為に対して理解はできても許容はできなく、許容はできても理解できなかった。誰かの恋心を了承し次の日には無碍にするあの行為を。口汚く罵りながら唐突に暴力を振るい逆に暴力を振り返すと沈黙するあの瞬間を。家族の不和を酒の肴にするあの場所を。それら全てを。

全てを許容する―――それはとても良いことのように思えた。

ある時気づいちゃうんだよね、全てを許容した先にあるのは「無価値」だと。好きも嫌いもないただ「どうでもいい」がたくさんあるだけなんだと知ることになる。私が求めていたのはそんなものじゃなかったし私が欲しかったのは「いろいろなものが好き」になれることだったんだとあの時ようやく気づく。

何かを「好き」になるには、何かを「嫌って」いないと発現しないことも理屈ではなく感覚として体感するようになる。"嫌い"がなければ"好き"は生まれない。

これを端的に、それも分かりやすく表しているのは『猫物語』であり羽川さんでありその羽川さんを批判するひたぎさんである。今にして思えば、私が目指していたのは羽川翼という人間であり、そして後に彼女の在り方を否定した……んだろう。

猫物語 (黒) (講談社BOX)

猫物語 (黒) (講談社BOX)

 

私の指向性として絶対的な考えを採用することはなく、どちらかというと相対的な方向に少し偏っているように思われる。

LDさんの記事でもあるが、本当の意味での絶対主義者・相対主義者って人は(知恵ある人ならば?)いない。いや、知恵がなくても正直いないと思う。ある立場での発言時において「絶対or相対」かを示す時はあれど、全ての局面において二極化思考を取るのはまず人には無理だと思うから。

『否定する力をもって、肯定を行うこと』

――ギャングスタ・アルカディア*2


私がこのブログ上で行う「否定」形式の記事を書き終える際、あるいは書いている途中に否定している対象の「肯定」意見が頭に浮かんでくることはしょっちゅうある。信じてやっても私に害はない。

しかし先にも言ったけどここを突き詰めていくと私が請け負う価値が根こそぎ融解していく兆候を感じる。だから―――というわけじゃないが、大抵の記事は言い切りの形で記事を結ぶ。断言し否定する。

ここのブログ名は? 猫箱。私が好きな作品は? うみねこ・猫撫・ノエイン……この時点でもう私の傾向はそういうものなのだ。対象に対する価値観のコントロールを意識的にしないと多分おかしなことになる。そんな予感がする。そして大体においてそれは気のせいである。

そういえば脱構築の在り方はとてもいい。「絶対」という概念を融解させるという一面が、意味の優劣を消し去り価値を無くすその在り方がね。とはいえそれは地獄的な要素でもある。そしておそらくこれは脱構築の一面であり本質ではないし、私が使いたい言葉の意味ではなくなってくるので、新たに名前を与えることにしよう。相対性メルトダウンと(いやーもっとちゃんとした名前付けたかったんだけど私の語彙力じゃ今これが限界なので)

相対性メルトダウンとはある言語には必ずそれと対立する言語の『意味』が含まれる。闇と光、表と裏、希望と絶望は裏表のコイン。男ならば女という概念が含まれ女には男の概念が含まれている。例えば『男は逞しい存在だ』という主張がなされたとしても男は完全完璧に(その国その時代が考える)『男性』を有しているわけじゃないのは女装・草食男子・へたれといった女性的要素を見て明らかだ。女性もまた女性らしさというもの以外にも男性らしさというものを併せ持っている。故にある『意味』を『言語』で表現してしまった場合、その主張に対しそれと対立する主張を提示することでその主張が主張する『唯一の正しさ』を溶かすことになる。さらにはこの時『価値』といわれる『意味間の優劣の階層』も消し去ることで片方どちらかが『優れている』『劣っている』という事実をも溶かすことが理論上可能になる。故に全ての主張は『意味はあっても価値はない』という状態を生み出すことできる。正しさがない世界、優劣がない世界、それはまるで数多の概念を水平方向にならし揃えたということに等しいものである。そうです神さまは死にました。ドロッドロの相対化現象の総称・それが相対性メルトダウン

これは東方の霊烏路空ちゃんの性質をイメージ。全てを炉心溶融させた先にあるのはきっと真っ白な世界♪ 核融合はクリーンなエネルギーだね☆

……使われ方としては「意味間の優劣の消失」「『絶対』という概念を溶かす」「真っ白な世界が待っている」といったもの。

単純に"メルトダウン"という事もあるので注意されたし、いや私が言葉に注意しろよって感じだがこんな長い単語を使うのは面倒なので使っていくうちにいろいろ微調整しようと思っている。自分さえ分かればいいというものが根底にあるのよね。

 

東方地霊殿 ~ Subterranean Animism.[同人PCソフト]
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頭に浮かんだふとした肯定側の主張、でもそれってそれって「否定」という形を取ったからこそ浮かんできたのだろう。それはさながらアマネが言ったように"否定する力でもって肯定すること"に近い。

私がやっているのはその中でもかなりレベルが低いものだし一側面に過ぎないけれどもね。要は対象を否定して、否定したことで、否定する"力"を持つことでそれを自分の中に取り込める(=許容)が出来れば重畳。

さらにある考え方、ある価値観を言い切りで結ぶとその欠点が浮かび上がってくるのが分かるのもいい。反論するならばどこを突くか?というのが分かりやすくなる。そして時間を掛けてそこを補っていき、その価値観を錬鉄していく。

次にすることはそういった記事を「階段」にして、別軸の思考まで昇華していくこともできる。少しづつ自分の思考が積み上がっていき、その時には手が届くことのなかった「なにか」に到れる瞬間が一年の中で数度ある。

これは楽しいものだよ。いわゆるEUREKA的体験でもあり、やっと辿りつけたという達成感を味わえる。

 

いま、この瞬間に解らないこと、どうしても知りたいって思うこと、その内容の全てを理解している、そんなお前がこの先のいつかの時間に必ずいるから

――いろとりどりのセカイ


どこかで言ったかもしれないけど、このブログでやっている物語論は「既に判っていた」ことだったりする。

既に自分の感覚として理解し(主観的に)正しいものだと認識していたものを、誰かに納得できるように言語化したものに過ぎない。だから、"やっと辿りつけた"という言葉になる。

「俯瞰高度」「内在的視点」「文脈を殺す」「作者は装置」「祈り論」「オーバーライド」「多視点」

これらはすべて10年以上も前から、私が体感覚として根付いているものを言語化した造語の総括なんだよね。理論をぶっ飛ばして既に「答え」が分かっているというのに、それを他者に納得させるためとなったらたちまち何も表せなくなってしまうのが言葉ということでもある。だるい。

「内在する答え」を言葉として紡ぐということは、凄く遠回りしている気さえする。言葉はとても不便、ありえない。こんなツールは古代のものなんだよ、さっさと「概念伝達ツール」とでも呼ぶべきコミュニケーションツール発達してくれないかなって思う。

自分に内在する「イメージ」をそのまま人に送れるのなら楽なのに。こんなまだるっこいツールを使わなきゃいけないとかさっさとシンギュラリティ起きてくれという感じだ。

この自己に格納されている「イメージ」って、映像はもちろん「感情」さえも付随しているんだよね。なんでだろ? 昔のことを思い出したり、そのイメージには喜怒哀楽といった感情すらもくっついている。すると思い出すだけで、当時感じていた感情もまた自分の心の中で再現できる。

とはいっても当時の感情と、再現した感情に、同一性があるかは謎だけどね。多分ない。でも一応はその感情を"思い出せ"る。不思議だ。

そして『クビシメロマンチスト』は本当にいい作品だよ。鬱になる。「これが本当にいい作品? ご冗談を」。いやいやある意味で鮮烈だしいーくん最高だったでしょ。いい終わり方でとてもいい感じの読後感だったよ。

というかそもそも戯言遣いシリーズ気に入る人って稀な人だと(個人的には)思うんだけどね。

ちなみに分かり難いとは思うけど、クビシメロマンチスト戯言遣いシリーズの2巻にあたる作品。

1巻はクビキリサイクル

 

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)
クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

 

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

 

視覚優位と聴覚優位って何さ。「天才と発達障害」を精読してみた

 

*1:戯言遣いシリーズは全て読んだけれど、零崎人識シリーズはまだ1巻も手を付けていないので機会があったら読みたい。そしてこの「機会があったら」という時、人は、いや私は積極的に読もうとしていない時な気がする

*2:これは『ギャングスタ・アルカディア』上で時守叶の"悪"をある女の子がそう考えた……というものだが、この記事ではそれらの文脈に則らないで勝手に使っていく。