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脱構築批評は「絶対的な答え」を解体する(3372文字)

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脱構築批評」というものがある。

概要を調べると「対立する概念・二項対立を転覆させることで新たな意味を獲得していく」とあるが、これが物語批評でどう役立つのか分からない。

表/裏,光/闇,男/女といった対立を転覆させたところでその物語が「何であるか?」というものに答えてくれないと思うし、これで新たな意味が見い出せるのかと疑問であった。

『批評理論入門』(著・廣野 由美子)によると、脱構築批評とはテクストが互いに矛盾した読み方を許すものだと説明している。

「テクストは首尾一貫した論理的な統一体」であるという考え方を構造主義・形式主義は取る。テクストを構成している様々な要素には、全ての意味や形を理解するための絶対的な鍵が存在するというものである。

しかし脱構築批評はこれに異を唱え、テクストが矛盾した解釈を両立させていることを明らかにするのが目的である。

言い換えれば【テクストの構造を分解することではなく、テクストがすでに自らを分解していることを証明すること】とのことだ。

デリダは、西洋文化においては二項対立的な思考パターンが支配的であることに着目した。たとえば、白/黒、男/女、原因/結果、はじめ/終わり、明/暗、意識/無意識など、対をなす対立概念の例は無数にある。

デリダはさらに、それらがたんに対立しているだけではなく、一方が優れていて他方が劣っているとされたり、一方が肯定的に他方が否定的に取られたりする傾向があり、そこに階層が含まれていることを指摘した。

デリダはこの「二項対立」(binary opposition)の境界を消滅させることを目指し、対立に含まれている階層に疑問を突きつけることによって、西洋的論理を批判しようとしたのである。

したがって脱構築批評では、テクストの二項対立的要素に着目し、その階層の転覆や解体を試みる方法がしばしばとられる。

――批評理論入門 p145

 

この説明をそのまま受け取っていいのであれば、脱構築批評とは「絶対的な答え」という概念を解体するものだろう。

本書『批評理論入門』によれば"作品には中心的な意味がない"ことを示すのだそうだ。 

 

脱構築批評の主眼は、作品には中心的な意味がないということを証明することにある。そのため、テクストをめぐる異なった解釈が互いに矛盾し合い、どちらが正しいか決定不可能であることを示すという方法がとられる。

このあと本書で紹介する批評理論をざっと見渡しただけでも、解釈が衝突する例は、数多く挙げることができるだろう。

(中略)フェミニズム批評では、女性の表象としての怪物が家父長制を破壊し、マルクス主義批評では労働者階級の表象としての怪物が資本主義を、ポストコロニアル批評では植民地の表象としての怪物が帝国主義を、それぞれ転覆させようとする話として読まれる。

これらの解釈は、それぞれ『フランケンシュタイン』というテクストから引き出された「意味」であるが、互いに脱構築し合って中心的位置を占めることはない。

――批評理論入門 p151 (太字と改行は引用者がつけた)

 

作者スキーな人はよく「物語の答えは作者が持っている」とし、作者が唯一不変の絶対的に正しい答えを物語に込めているという考え方をする。

そして実際に作者が物語の解説をし「あの物語は☓☓という意味」と語ることさえある。

しかし脱構築批評にかかれば、作者が示した答え(=例えば『現実に帰れ』ならば)に対立する解釈、『虚構に耽溺しろ』を物語から見い出し、更にはここからこの二項対立どちらが解釈として優れているか劣っているかという階層を消滅させる。

すなわち「物語には様々な解釈を許す」ことを示し、かつ脱構築する結果として対立する片方の意味を見出す為、「物語の新たな意味を獲得」していることになるんじゃないか。

 

「作者」は言語や絵を用いて、言語や絵の先にある、既成の何かでは表現できないものを物語として生み出している。

既成の枠組みを超えたそれらは「テクスト」と呼ぶべきもので、あるいは「イデア」と呼ばれるものであり、これをひとたび「解説」や「批評」という言語を用いてその物語が何なのかと説明した時点で――既成の何かでは表せないものを物語に転換したのに言語を用いて語ってしまえば既成の枠組みに戻ってしまう――それは私達と同じ"この物語は何だ?"と考え説明する読者群と変わらないのである。

つまり「作者」がいくら自前の作品を解説しようともそれは一つの読み方、一つの解釈の提示でしかない。言語にてその物語〈=テクスト〉の絶対的な答えを取り出すことは不可能ならばそもそもそんなものは存在しないのだ。

――作者は物語を生み出す〈装置〉でしかない。3905文字 


また作者が示す答えではなく、とても納得の出来る物語解釈でさえも言語を用いられている為、それと対立する解釈を持ちだしては解体可能……つまり『妥当な解釈』と言われるものさえも複数存在することを示すのがこの批評理論であろう。


『批評理論入門』では、実際に小説『フランケンシュタイン』を用いて脱構築批評とはどういうものか? から様々な批評理論を説明してくれている。 

Kindle版も発売されているので、もし興味があったら手に取ってみてはどうだろうか。

<参考>

 

 

脱構築批評は「価値」も解体するのでは

 

"テクストが互いに矛盾した読み方を許すもの"

これは、あらゆる解釈は無価値ということでもあるんだと思う。価値とは優劣の差によって起きるものであり、ある解釈を脱構築することで優劣を解体するならば、そこにはどんなに矛盾し合う物語解釈も許され、かつ同時に存在することができる。

物語に数多の「意味」を見出すことは出来ても、その全ての「意味」に優劣はない。価値はなくなる。

おそらく物語批評から枠を超えてもこの手法は力を発揮する。言語を用いた瞬間にその主張は、脱構築され、価値を解体され、全ての物事はドロッドロに相対化される…………凄いな、地獄だ。

それはさながらフリーゲーム『OFF』という作品で登場するバットマンが、世界を真っ白に浄化するように、物事の価値が消失していくような気分を味わう。

こう考えると、物語解釈する意味って無くない?とすら思う。だって物語の本質というものがそもそも存在しないということは、「その物語が何なのか?」と万人が納得する答えなんてものは無いからだ。

けれど私はそれでいいと思う。物語に絶対的な答えや、それが何であるか?という問いに誰もが納得の行くような答えを得られなくてもいい。意味がなくてもいいし、価値がなくてもいい。

大事なのは「自分はこの物語をこう"観た"」ことを言葉にすることだと思うからだ。

私がよく使う「物語の<核>」という言葉も(主観的な)というカッコが前にくるということになる。個人個人の(主観的な)「物語の<核>」を見い出して書き留める、それだけでいいんじゃないだろうか。

なんというかそれは、「猫箱」そのもののようにさえ感じられる。

真実は人の数だけあり、解釈も人の数だけある。主観によって歪められいくらでも姿を変えるその不定形は粒子のようでもあり、波のようでもある。例え真実同士が互いに矛盾していたとしても否定されずに同時に存在することができる、それは皆大好き『シュレディンガーの猫』のようにさえ。

あらゆる解釈を許容されるとは、そういうことなのではないか。と考える。