猫箱ただひとつ

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この世界に例え話が満ち溢れているのはね?

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記事の内容

・世界はメタファーである。すべての存在は別のなにかに置き換え可能。
・アナロジーを危険視するのではなく、それを使ってる者の姿勢を危険視しようよ。
・3048文字  

海辺のカフカ〈上〉

小さい頃に『海辺のカフカ』という小説を読んだ。

どんなお話で、どんな意味を持った物語だったのか今なお考えても分からない曖昧なものだった。

というか私の頭の中にある記憶は「海」「絵画」「父親」「影」「道」といった情報しかない。つまりほとんど覚えていない。

けれども「世界はメタファーだ」という言葉だけは色濃く、そして深く私の心のなかに根付いている。そうさ、世界はメタファーだ

文脈を全て剥ぎ取られ言葉のみの意味が残ったその言葉だけが今なお私の心に息づいている。世界の全てはまた別の何かであり、置き換え可能である。

真っ赤なりんごは黄金の果実であり、口をひらいた蛇は円環の例え話。海は人の心のように深く、あまねく光は神さまのように煌々としていて神さまが作ったっていう妄言を信じてもいいくらいに今日の空色は真っ青のようだ。

そんなふうにこの世界には例え話が満ち溢れている。

この世界には「正しく」表現する言葉が少なすぎるから。だから正しい言葉を用いたくてもうまく出来ないのだ。もどかしい? でも言葉そのものが不完全だから仕方ないよ。

 

だからこそ「例え話」が存在する。ある対象を別のなにかに例えて、それがどんなものなのか、どんな存在なのか、どんな概念なのか本質なのかを言い表す。

物事「そのもの」を言い表すことなんて出来ないし、仮に一億歩譲って出来たとしても何千枚という大量の文章によってそれは記述されることになるのだろう。それは誰にも伝わらない記述だ。

全ての概念は一個一個が繋がっていてぐるぐると円環のように廻り続けている。*1(私の真上に存在するこの青空が世界中に繋がっているように)(全は一で一は全のように)(A≒Bだ)

世界はメタファーだ、田村カフカくん

―――私はそんな世界認識を持っている。

それはとても当たり前のことだった。あまりにも当たり前すぎて例え話そのものを嫌う人がいるなんていう事実をうまく飲み込めなかった。*2 

私が今まで知らなかっただけで案外、例え話そのものを嫌う人はそれなりにいるみたいだった。(少なくとも両手の数ほどにはいるみたいだ)*3

そして、そうか、そういうこともあるんだなと。
 

アナロジーで考えるとオブジェクトに固定されてしまう.ある種,具体的なイメージであるが故に,いらぬ制約をつけてしまうと思うんです.「日記なんだから,オフィシャルなものはつくれないでしょ」とか.それはねぇ,ウソでしょ

アナロジーで理解する危険さ - syohの二軍ブログ

 

では、「何が本質的要素か」について双方の意見がことなっていた場合には?その場合、アナロジーは議論をミスリードさせるだけでしょう。

――議論の際にアナロジー使うの禁止しませんか? - Discommunicative

確かに。

例え話、類推、アナロジーには危険な部分があるのも頷ける。上述引用のように「◯◯と☓☓は同じ」だとイコールで考えてしまうと、概念が固定化されてしまい本質がまったく見えてこなくなる。

「言葉は世界のよう」だとしても「世界は言葉」ではないのだ。

次に下段の引用にしても同じで、例え話によって議論が混乱することも否定できない。

けれども

だけれども

しかし

だ・か・らといって「例え話は悪い」っていう話にはもちろんならない。

うまい表現がないとき我々は”例えば~のようなものだ”といった様にアナロジーを使っている。
未知のものを解くありふれた方法としてよい。と思われる。
アナロジーを使うことに問題はないと思われ、適切なアナロジーを探すのも悪くない。納得するうえでアナロジーは良い。
本質はおのずと見えてくる。疑問ときちんと向き合っていれば

 ――コメント欄議論の際にアナロジー使うの禁止しませんか? - Discommunicative

私はこのコメントに同意する。問題視されるべきなのは例え話を用いることではなく、例え話を仕様しているその人が議論に向き合っていないことなのでは?

議論のさい何故例え話を用いるかというと、「理解と納得度」を満たす有用なツールだからだ。相手に自分の意見を識ってもらい納得してもらうために行われる。

それを悪いとは私は思わない。

「何云っているのよ……そもそも説得なんてのは、自分の意見に賛同してもらう為にやるものよ。わざわざ自分に不利な情報なんて、敢えて開示する必要なんかないわ」

――神尾愛生

とはいっても神尾愛生のように自分の有利な条件で話を推し進めようとするから、混乱が起きるのだろう。

騙し欺きは悪魔のテクニックだとしても、それはもっぱらミスリードが前提の――相手と正面切って話し合いをしない――姿勢だ。

「議論にちゃんと向き合う」上で求められるのは、隠し事をしないということなんじゃないか。

達哉:「フィーナ?」
フィーナ:「達哉、私は隠し事をしようとは思っていないわ」
フィーナ:「本気で立ち向かうとは、そういうことでしょう?」
達哉:「……そう」
達哉:「その通りだ」

――夜明け前より瑠璃色な

夜明け前より瑠璃色な ポータブル

夜明け前より瑠璃色な ポータブル

 

さらに言えば例え話をすることで議論が乱れるならば、それはそれでいいことなのかもしれない。

議論にちゃんと向かい合っているならば「どうして乱れたのか?」を考えると思うから。

例え話を使ったことで、その議論の問題点や本質、意見の対立部分が明確になるとすれば、それはそれでまた一歩先に進めるんだとすれば、やはり私は全面的に類推での会話は肯定できる。

 

それに1個人の世界認識なんて経験×知識×感情の広さしか持ち得ない。あんまりアナロジー・類推・例え話を突き詰めて危険視しすぎるとなんにも出来なくなっちゃうよね。なんにも考えられなくなっちゃう。

「危険だって」分かっていればいいんだよ。きっとね。そうしたら姿勢が変わってくるはずだから。

 

話変わるけど『輪るピングドラム』と『うみねこのなく頃に』は、とくに「メタファー」という概念を知っているか知らないかでずいぶん違う景色が見えてくるとは思う。

それを知っているから楽しめるという話ではなく、景色ががらりと変わるよという意味で。

輪るピングドラムなんてすんごい顕著で、アニメ版とノベル版での物語の"鮮やかさ"が違うのはひとえにメタファーゆえに。だと私は思っているのですよん。異論待ってるね。

オチなし。

ではまた。

 

 <参考>

*1:ぐるるるるるるしろ!

*2:注:誰宛てでもない。一般的現状についての気持ち

*3:もしかしたら「例え話」そのものではなく、限定的なシチュエーション下での例え話なのかもしれない。例えば議論のときに持ちだされる例え話は嫌い、とそんなふうに。