猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

残響さんに返信。アルドノアゼロと哲学ゾンビについて(5767文字)

スポンサーリンク

アルドノアゼロ11話の記事にて、残響(id:modern-clothes)さんからコメント貰いました。またもや長くなりそうなので記事にして、適時引用して返事書きたいなと思います。

(もし記事で返事されるのが嫌だったら言ってくださいー) 


にゅにゅーー。

f:id:bern-kaste:20140926005251j:plain


この記事の書き手順はというと、

残響さんのコメントを小さい塊で引用します

そこに私がその小さい塊の引用文"のみ"に対しコメントします。

小さい塊の引用文へのコメントが終わったら、また次の塊で切れる部分を引用して、そこにコメントをします。この繰り返しを取りたいと思います。

引用は途切れ途切れになりますが、中略したり、あるいは意図的に削除することはないので安心してくださいー。

なんでこの形式を取るかというと……私がコメントしやすいからだったりします爆∑(ノ∀`) 

あと私の思考過程が明らかになるので考えを追いやすいかなあー……と思います! ええ!この形でいかせてもらいます!w


それでは、本筋の部分から残響さんのコメントを引用します。

最近読んだものの中で(でもどこで読んだのか忘れてしまったという残念ぶり)、「自分」というものを認識するときに、

・「自分」という人間を、感情が内在する存在として、そのまんま認識する(ふつうに感情のまま生きる)

のと、

・「自分」という「感情を抱えた人間」を「とりあえずいつも外から認識している」

というスキーマを常時展開している。その上で、各種物事に対する判断をこなす

タイプのふたつがある、というのを読みました。説明へたですいません。

その2つのタイプ分けは面白いですね。1つはいわゆる普通に生きて普通に暮らしている一般人。何か嬉しいことがあったら「わ、嬉しいありがとう!」と感情を内部から溢れ、それを外部の世界に表現するふつうの人間かなとイメージしました。

もう一つのタイプは、何か嬉しいことがあっても「ああ、わたしは今"きっと"嬉しいんだろうなあ」と感じてしまう……タイプなんですかね? 「感情」という概念そのものが希薄で、うまく感じることが出来ないからこそ「感情を"抱えた"人間」だと自分を認識している人なのかなー?と。

でもスキームを常時展開っていう表現が気になりますね。スキームは知識の枠組みであり、物事を判断するときに使われる「フィルター」や「加速器」のようなものだと私は思っているんですけど、この場合は「バイアス」みたいな意味なのかなと考えました。

つまり、このタイプは、「自分は感情を抱えている人間」だと「思い込み」をしている人間ってことでしょうか。

それとも生来の気質として「感情を抱えている人間」そのもの、なんでしょうか。

なんだか書いてみると、正直どっちも一緒ですし結果的には変わらないと思うんですけど、気になりました。

「外から」というのは……まあここに残響という人間が一応いるとして、その残響が生きたり、ものを食べたり、怒ったり、神経症になったり……という一連の行動を、まるでテレビの画面を見ているがごとく、「残響の外部の神視点」から見ている、もうひとりの残響がいる、っていう「外」です。

こういう時物語読んでてよかったーって思いました。この概念はおそらく理解できます。

戯言遣い』っていうライトノベルがあるんですがその主人公である「いーくん」がこう言うんですよね。「ねえ君は、自分の後ろにすーっと自分を外から見ているもう1人の自分を感じたことはある?」と。*1

このいーくんの言葉は、残響さんが言っている「常時・客観的に自分を見続ける客観性を有す人間(あるいは心情)」みたいなそういう感覚なのかなと思いました。

なんとなく、イナホの思考のベースの前提に、このようなものがあるんじゃないのかなー、って思いました。

感情を蔑視している、というよりは(すいません、このアニメ見てないので正確にはいえませんが……)、「感情というノイズは、考慮するには程度が低い」みたいな。

確かに、そう言われればイナホくんも、その可能性ありますね。なんか……うん……確かに……感情を手元に置いていない感じしますもん彼。

「感情というノイズは、考慮するには程度が低い」

っていうのはそう思ってそうな気は私もします。感情というものに重みを置いていなくて、やっぱりロジック優先しちゃうんじゃないかなと。

べるんさんには叱られそうですが、自分(残響)自身、感情に振り回されがちな人間であるので、こういった認識を、少しは「参考」として学んだほうが自分(残響)にはいいのかなー、と思うのですが……

私は自分でも分かっているんですが、「感情」をすごい肯定してます。これがあるから私が私であるって感じられますし、感情が生じる矛盾・狂気・愛こそが「人間が人間だと思える人間らしさ」と暴論のような考えすらも基板に置いてます。

そういう面で見るとある意味わたしは恋愛脳なんじゃ……と自分に戦慄するときがあったりなかったり……(汗)

あと「感情に振り回している」他人にイラっとし、それは嫌だなってハッキリ思うんですが、でも「感情に振り回される自分は嫌い」とはならないんですよね……強欲というか自分に甘いだけかもしれませんが。

残響さんが参考にする部分って感情というノイズは、考慮するには程度が低い」←これのことですよね。

私としては、これを思考基板に組み込んでしまうと(組み込む努力をしてしまうと)、自分が壊れちゃいそうな気がするなと思いました。うーむ、やはり私は感情を(あるいは自分の感情)を肯定する側なのかなーと。

もちろん「感情というノイズは考慮するには程度が低い」っていうのもアリだなって思います。私は自分でそれを適用したいとはあまり思いませんが、この方向性を突き詰めるとどんな思考と心になるかなー?っていう好奇心はあったりします∑笑

今ちょっと考えてみたのは、単純に感情の優先順位を低くすると、理屈や論理の項目の優先順位が相対的に上がってくるのかな?と思いました。イナホくんのように感情の価値よりは、最適解・実利・効率という視点によってセカイを解釈し行動するようになるのかもなーと。

ただ、ちきりん氏が言ってたのですが、フランソワーズ・サガンの言葉「自分の人生の傍観者になるな!」という言葉を、彼女は非常に心にとめているわけです。

このメソッドを徹底すると、客観視点・冷静視点ってものは……「イナホ自身を、イナホの人生の傍観者にさせる」ということになるんでしょうが、はて、じゃあイナホはなんで生きているのか、って話になりますね。

記事で考えたのは、だいたいこういったことです。記事を曲解してるかもしれませんが……

で、最後の疑問。
「傍観者にとっての最適解とはなにか?」
……このことを考えると、とくにイナホのような人間が自問自答しだすと、とたんにロクでもないことになりだすのを、わたしはわりによく見てきたというか……(ぶるぶる)

ここ面白いです。

うんうん、なるほどー。

「イナホはイナホの傍観者になっている」と仮定すると、じゃあ彼はなんで生きているのか? 生という舞台を客席から見るように、観劇するように、傍観者でしかないイナホはどんな世界を見ているのか? ってことを考えると良質な疑問だー!!って思います。

 

うーんうーん、そうですねー。

 

アルドノアゼロ、傍観者思考、カイヅカイナホ


私の感覚だと「自分の人生の傍観者」になってしまった場合、自分の人生を"進め"ようとは思わなくなると思うんですよね。だって人生に興味ありませんし自分にだって興味はそんなにないでしょう。だからとても省エネ的に生きて、ふとした瞬間に立ち上がれなくなりずるずると死の淵に行ってしまう。

あるいはRPGで勇者を操るように「誰かの人生を進めるのが楽しい」場合というのもあるかもしれません。

ただここは2つの分岐に分かれると思っていて

1)自分は傍観者だけれど、傍観者だと認識しないで他者の人生を進める場合
2)自分は傍観者だと理解してなお、他者の人生を進めようとする場合。

になるかなと。

そして1の場合だったら、擬似的でも「自分の人生」だと思えるので、本質的にはもうそれは「傍観者」っていう役割を消失しているんですよね。これは普通にゲームをプレイしているプレイヤーですよね。みんな熱中して感情移入することで自分が傍観者だなんて感覚ありませんから(もしかしたら傍観者だと認識してなおもRPGプレイしている人もいるのかもしれませんが……)

ってことでここで問題にしたいのは(2)の「傍観者だと理解してなおも他者の人生を進めよう」かなと思います

(2)の場合、私自身が疑問に思うのが「傍観者だと理解してなお他者(一応自分)の人生を進める」ことの、楽しみってなんだろ?ってことです。

これってもしかして「プロデュース」する感覚なんですかね。アイドルを育てるように尽力する。才能を見つけ、磨き、育てることが好きな人はいるのは感覚として分かります。

子供を育てることもある意味プロデュースだと思いますし、イナホが(2)の状態だとして面白味があるんだとすれば

「自分がどこまで出来るか試したい」っていうチャレンジ魂だったりするかも???

これってぶっちゃけぶっちゃけ!ですよ、第三者として見ている方としては普通の人間として変わらないんですよね。彼が自分のことを「傍観者」だと思い「他者物語を進めている」んだとしても、傍からみれば普通の人間です。自分の人生を生きているように見えるはずです。


そしてここで思い出すのは「哲学ゾンビ」です。哲学ゾンビはクオリアと呼ばれる感受機能が消失しているけれど、それは他者からクオリアがないことを判断不可能な人間のこと。

この(2)を突き詰めていくと、哲学ゾンビってもしや、傍観者である外の精神的自分が、肉体的自分を操っている状態と近いのかなーと。(話がごちゃごちゃになってきたような)

 ◇

ちょっとまとめます。

「自分の人生の傍観者(仮定)であるイナホは何故生きているのか? 何の為に生きているのか?」 

という疑問に私が提示できそうなのは

1、傍観者だと理解しているけど、他者(一応自分)の人生を進めるのはプロデュース的な楽しみがある。他者(一応自分)が最適解を選び、最善手を打ち、良い結果をはじき出すのを見ているのは面白いから。

(傍観者である彼が面白いと思える感情を感じられることが前提です。もしその傍観者に感情はないとなれば、この答えは無意味なものになりますね)

 

あるいは面白いと思える感情の発露によって他者物語を進めいてるわけじゃないとします。

するとじゃあなんで他人の物語進めてんのイナホ君?ってなりますよね。もしかしたら進めるだけの「目的」があるのかもしれません。

例えば、この記事のコメントで 

アルドノア・ゼロ10話_お前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいで(1703文字) - 猫箱ただひとつ。

 

aさんという方が

イナホが本来学生が真剣に取り組まないことを"本気"で取り組んだ結果ゆえに異様な知識・技術を有しているのは、きたる火星人との戦争を見越しての目的ある行動(=戦争社会を皆と生き抜くこと)だった

と、イナホくんのことを捉えました。

彼が過去に経験したであろう戦争が引き金となり、「戦争社会を生き抜くこと」という目的を自分の人生の最重要目的だと定めたんだとしたら―――自分の人生の傍観者であるイナホが、自分の人生を"外"から積極的に進めているのも腑に落ちるような気がします。

これなら感情に重み付けを全然していないことと、最適解だと思うことに全リソースをぶっこめることも筋が通るかなと思うんですがどうでしょうかー。

 

しかしまさかアルドノアゼロと哲学ゾンビ(っぽい)ものが接続するとは思いませんでしたね……凄い!

 

 

最後の質問


「傍観者にとっての最適解とはなにか?」について考えて終わりにしたいと思います。

 

「傍観者にとっての最適解とはなにか?」

 

うーん難しいですね。傍観者の役割って、客観的な立場、ニューロラルの視点を持っていることだとすると、分析と評価が期待されるのかなと思いました。分析と評価。なにについて? それはきっと"観て"いるものでしょうか。

観劇している舞台について、分析し評価を下すこと。

それも主観的な視点や感情は期待されていませんから、どこまでもロジックと理屈で構成されるレポートになるんですかね。


これを「自分の人生の傍観者」な人間をモデルとして考えると、傍観者の役割は「日常的な反省」を行えるってところでしょうか?

日常的な反省というのは、日常的に間違いを見つけ、正し、修正する。悪い部分を良い部分にして、最悪を最良にする。そして良き結果を求め、最適解を弾きだすことを目的とする……あれこれイナホ君ですね。


傍観者としての最適解って、こういうフィードバックを常に行い、監視するってことなのかもなーと思いました。

そしてこの前提に、「傍観者」は「主体的な自分」と接続していなきゃダメだと思うんですよね。

何故かというと、「傍観者」が「傍観者」だけだったら日常的な反省とか意味ないと思いますから。反省が意味をなすのは、それを修正し最良にしようとする「自分」がいなきゃただ分析して終わりです。

って思ったんですが、どーでしょうかー。

 

(ちょっとお返事長くなりすぎちゃいましたねね……にゃはは(ΦωΦ))

 

 

*1:ほんとこれ余談なんですけど『運命が君の親を選ぶ 君の友人は君が選ぶ』では逆パターンの、「自分の中に自分が閉じ込められる」っていう自分の中が二重構造になった体感覚を感じたことがあって、この感覚も追求してみると新しい発見が生まれそうだなと、ってほんと脇道