猫箱ただひとつ

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エロゲが好きでもアニメが趣味でも小説を愛していても「鮮烈な物語体験」をしたことがない人は実は多いんじゃないか、という仮説(6315文字)

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(1)物語がもたらす体験×仮説

 

「物語がもたらす鮮烈な体験」に『オーバーライド』という名前を当てた。それは物語によって救われた、のみならず物語が読者を貫くほどの力を見せた時、ジグソーパズルがカチっとはまった瞬間、全てを真白色に染め上げる一瞬、さまざまな種類の鮮烈な物語体験が含まれる。

そして胸を締めあげられたり、どうしようもなく泣き崩れてしまったりする力が物語にはあるのだと語った。

 

物語は人生をぶっ壊し『オーバーライド』する力がある。Fateは文学CLANNADは人生って言いたくなるのもこの体験があるからこそ

 

 

それは人それぞれ異なる肌触りや感触があるものだと思うが――認知優位によって顕著になる領域だろう――しかし「物語がもたらすとてもつもない体験この一点のみにおいてここで言っている体験は共有できるものだとも思う。

あなたにだってそういった経験あるはずだ、そういう前提で話していた。

しかし後日フォロワーさんと話したり、あるいは今まで私の出会ってきた人々を思い返すと誰も彼もがそういう経験をしたことがあるわけではなさそうだなと思い始めてきた。

エロゲを多くプレイし、アニメを趣味だと公言し、小説が好きだと発言していても「物語に至上の価値を見出していない」人は多いし、それは結局のところ鮮烈な物語体験(=オーバライド)をしていないからではないか? 実はこの世界にはそういった人々が溢れているのではないか? 

と。

というのも先に挙げた「オーバーライド」に「自分はそういう経験がない」と教えてくれた方や、あるいは以前書いた「エロゲ血肉化」に対し「所詮娯楽なのに何言っているの?」という意見が寄せられたこと、それもエロゲを一回もやったことがない人ではなく100作品以上もプレイしている人がそんな発言をしていたり、詰まらない詰まらないと言いながら仲間と話題を共有したいが為にエロゲを買うのをやめられない人がいたり、「エロゲオワタ」と言いながらエロゲを惰性のごとくつづける人がいたり、「エロゲで感動する人いるの?」と言っているエロゲ愛好者がいたりそんな状況を見るとこの仮説の信憑性が増す気さえする。

ただこれは私の観測範囲内の出来事でしかないため、実際どうなのか分からない。もしかしたら鮮烈な物語体験をした人でこの世界は溢れているのかもしれない。違うのかもしれない。分からない。

だが私としては「鮮烈な物語体験(=オーバーライド)」を多くの人が経験しているものであって欲しいとは思っている。

私は物語に救われたり、物語によって滅茶苦茶になった経験があるのでどうしても今まで語ってきたものを「当たり前だ」「誰もが通った道だ」と思ってしまう節がある。普遍性ある事柄だとさえ感じている。きっとそれはオーバーライド記事の文面にも現れているだろう。

でも そうではない のだとしたら、私にとってかなりショックな事実になる。カルチャーショック・ジェネレーションギャップを覚えた時の「自分が当たり前だと思っていたものが実はそうではない」体験とよく似ている。やはりそこにはすこしの疎外感と、悲しさを覚えてしまうものだ。

それに「鮮烈な物語体験」をしたことがないというのであれば、この人達の「好き」とか「大好き」とか「素晴らしい」って言葉は一体何なんだ?  一体何がどう「素晴らしい」んだ?  物語に心を締め上げらたことがないのに「傑作」とか「名作」なんていう言葉は一体どこから来るんだ? と疑ってしまう。

そんな事実は歓迎したくないしまったく嬉しくない。全然これっぽちも。全く。微塵も。喜べない。この世界には物語に至上の価値を与えている人でいっぱいなんだっていう事実のほうが嬉しい。

物語にどうしようもなく救われて、どうしようもなく涙がでてしまって、どうしようもなく破壊された人が大勢であって欲しいとさえ思っている。『CARNIVAL』に触れて希死で押し潰されそうになったとか、『猫撫ディストーション』でため息がでるほどに美しい光景を見れたとか、『ナツユメナギサ』で多幸感で苦しくなったとか、『AIR』で涙でぐちゃぐちゃになったとかそういうことを真顔で言えちゃうような人達でいっ ぱいのほうが嬉しい。

そして、この仮説が間違いであればいいなとも思っている。

 

 

 

(2)でも鮮烈な物語体験をしたことが無いといわれれば

 

ただこういう体験をするってことが稀な事だと言われればそうなのかもしれない。分かるといえば分かるような気もするし、理解しろと言われればしぶしぶ納得してもいい。

何故なら、この仮説の本質は「今もなお月に餅を突いてるウサギがいるって信じられる」かどうかだと思うからだ。

世の中には実利でしか物事を量れない人が存在する。効率や結果でしか対象の価値を見定められないそんな現実との関わり方でしか付き合えない人が存在する。

けれどもこの世の中で価値があるのは「面白い」かどうかであり、そしてそれを面白いと思える「感情」に他ならない。価値の原泉はそこにあると私は思っている。

そして実利で世界を観ている人は "やさしい嘘" や "風船ウサギ" のお話なんか信じられるわけがないと思う。というか出来ない。

冗談じゃなく冗句でもなく、今も尚、空をトナカイで滑空する赤いサンタクロースがいるって信じられる? お月様でぺったんぺったん餅をついてるウサギがいるって、この年齢になっても信じられる? 無理でしょ?

鮮烈な物語体験をする前提がここだとしたらどうだろう。

自分が見たことがないものを"絶対に無い"とは言い切らない心の持ち主。この世界には自分が"観測"していないだけで神も魔法も月兎もどこかで存在すると思っている姿勢。悪魔の証明を地で行くような人たち。

そんな人たちが、物語に至上の価値を与えられるんじゃないか? 鮮烈な物語体験を、人生が書き換わるような経験をする事ができるんじゃないか?

 

 

「物事ってのは、常に信じるヤツと信じないヤツがいるべきなんだ…! 例えいくら証拠が積み重ねられようとも、誰かが潔白を信じなきゃならない! 

世の中には、証拠じゃ示せない真実なんて、いくらでもあるはずなんだ。みんながそうだというから、きっとそうなんだ、なんてことを、俺は二度と受け入れたくない!!」

 


――うみねこのなく頃に

 

月の裏側を見たこともないのに、月の裏には何もないと、どうして断言できる?!
それを信じなくちゃいけない道理がどこにある?!

月の裏を実際にこの目で確かめるまで、その裏には、何もない可能性と、うさぎ型宇宙人が文明を築いてる可能性が、どちらも否定できないはずなんだ……!

 

――うみねこのなく頃に

 

俺は月の裏に文明を信じたぜ?!
でもそれは、小学校で馬鹿にされて囃し立てられた。だから俺は、月に文明があるなんて信じるのは、恥ずかしいことなんだと思い……、…その"信念"を捨てた。

俺は、……証拠もないのに、信じる真実を、捨てた……!

 


――うみねこのなく頃に

 

 

 

「……負けられねぇんだよ。

真実ってのはさァ、誰かが否定するもんじゃねェ。……自分が疑って、捨てた時に消え去るんだよォおおぉおおおおおおお!!」

 

 

――うみねこのなく頃に

 

「……真実って何?

人の数だけ真実がある。人の数だけ解釈がある。そしてそれは主観によって歪められ、いくらでも姿を変える。……真実ってものは、そんなに不定形であやふやなものなの?」


「 そうよ。

……真実は不定形。粒子のようでもあり、波のようでもあり、相反する形状を同時に持つ。箱の中の猫が、生きていると思うが死んでいると思うが自由。

……でも、真実はとても繊細。
それは観測されただけで姿を変えてしまうわ。」

シュレディンガーの猫箱とかいう話? ………寝言よ。
箱を開ければ真実はわかる。開ける前の議論なんて、机上の空論もいいところ。」

「 そうね。にもかかわらず、その空論を否定するには箱を開ける必要がある。……開けられない箱の中身についてのあらゆる想像は否定不可能。

つまりは真実ということ。」

「 ………真実は、否定されない限り、その形状を維持する。」

「 そう。真実は、観測されない限りその形状を維持する。」


「つまり、暴けなきゃどんな妄言も真実たりえるわけね。」

「えぇ。……無限の想像は、それらが互いに矛盾していたとしても否定されずに同時に真実として存在できる。」



――うみねこのなく頃に

「実際の人間でも同じことだ。人間は肉と骨の固まりでしかない」

 

「そんな肉の塊に、なぜ、観ている者は『魂の存在』を感じる?」

 

「同じなんだよ、絵も、機械も、人間も」

 

「ただのモノに『意味』が与えられた時、そこで初めて粒子の固まりでしかないこの宇宙は『世界』になる」

 

「初めに『言葉がある』とはそういう『意味』だ」

 

「人間だけが世界を『観る』とはそういうことだ」

 

「悪魔や神という『意味』は、それが意味を持つ人間にとって世界に実在する真実となる」

 

 

 

──七枷結衣/猫撫ディストーション

 

 

私はこの前提仮説を経験則的に正しいと思うことができる。何故なら小さいころきっと誰もが物語によって "現実を上書き" されてきたと思うからだ。

幼少期に友達とママゴトと称して家族ごっこしたり、プリキュアに憧れたり、戦隊物や特撮ヒーローを観て「将来レッドになりたい!」と願ったのものそう。

さらに言えば「厨二病」といわれる人たちもまた物語によって現実をオーバライドされた結果に他ならない。

 

 

 


「くくく、わしの右手が疼く……」と言いながら右手の包帯を解き黒竜を呼び出そうとしたり、「私の前世は千年を生きた魔女なんだ」と自分の知識と経験に年齢+1000年分のオリジナリティを付加させようとしたり(いわゆる精神向上系)。あるキャラの外見・仕草・口調・思考体系をすべて真似て、完全に模倣しようとしたりするそれら(いわゆる空色パンデミック系の患者)。

彼彼女らは周囲からみればなんてことのないただの人間でしかない。普通で平凡で彼彼女の一挙手一投足で世界が終わったり、創世したり、手の平から火の玉が現れるわけじゃない。

けれども彼らの観ている世界では、"実際"にそういう不可思議なことが起きているのである。自分の右腕には邪王真眼という特別な力が眠っていると本気で信じているし、その腕からは黒龍が現れ、不可視の敵と戦っているのである。

彼らは信じている。己の心象風景に住まう幻想を。

そしてこれこそが現実と虚構が一体化し、現実にまで虚構を持ち出し、現実を虚構で上書きしようとしている「厨二病」と言われる人たちだと私は思う。それもトップランカーの厨二病度である。 ハイパー厨二病である。

空色パンデミック』や『中二病でも恋がしたい!』を見たことがある人は、穂高結衣と小鳥遊六花ちゃんを思い出してくれればいいと思う。ああいうの。

 

 

 

こういった厨二病経験って私は誰にでもあると思っている。大なり小なり誰もが現実にまで虚構を持ちだしてきてやいのやいのしたことがあるんじゃないだろうか?

(あれ、もしかして誰にでもない?無い人っているのかなどうなんだろ。いやけどおままごとレベルはあるでしょきっと)

そして中二病になるには影響を受けた「物語」が必ずある。それは両親という物語かもしれないし、TVドラマかもしれないし、幼稚園に眠っていた心踊る冒険譚かもしれない。自分の中でとてつもない価値を与え、現実が書き換わる体験をした物語が必ずあるはずだ。

もう忘れているだけで、もう覚えていないだけで、きっと誰もがそんな鮮烈な体験をしてきたんだと思う。そんな物語を有しているんだと思う。

しかし

あの頃持っていた

自分が見たことがないものを"絶対に無い"とは言い切らず、この世界には自分が"観測"していないだけで神も魔法もどこかで存在すると思っていた姿勢。悪魔の証明を地で行くような心の在り方

なんていうのは時間耐久できるものじゃないのかもしれない。途中でこんなもの要らないと嘯きながら意識的に無意識的に捨ててしまう人が多いのかもしれない。月面にウサギ型宇宙人なんているわけねえ! そう思うのがこの世界の多数派なのかもしれない。焦がれた物語を偽物だと断じてしまったのかもしれない。

こんな在り方を青年期を脱却しても有している人は稀で、稀だからこそ年齢を経て物語によって「物語がもたらすとてつもない体験」をしたことがないという人が出てくるのかもしれない。後天的に出来なくなったという人が出てくるのかもしれない。

だとしたら――これは私の中でとても納得がいく話だ。

センス・オブ・ワンダーがなぜ小さい頃に多発し、大人になると感じにくくなる傾向にあるのか? 何故学者や知識人でも芸術上の盲目といわれ銀行通帳のような感覚でしか物語を見れない人たちがいるのか? その疑問に「感受性が磨耗した」という以外の言葉を使うのならば、小さい頃の心の在り方を捨ててしまったがしっくりくる。

つまり、信じる気持ちを無くしてしまったんだ。

不思議なことを信じようと思う気持ちを失ってしまった。

 

 

アリス「どうして人間は神様を信じられなくなるかしら? どうしてサンタクロースがいたらいけないの?」

どうしてだろう?
改めて考えるようなことじゃないし、わからなかった。

アリス「いないほうが、より自然だから。あなたがさっき言ったように、何億もの人間が生きているのに、神様を観たなんて人はほんのひとにぎり。サンタは親の変装。 だからって、いないことの証明にならないわ。たまたま本物に会えなかっただけかもしれない」



透矢「…アリスが言っているのは、へりくつだよ」



アリス「そうね。でも、確かに天動説はひっくり返ったのよ。反論できなくなるほどのへりくつを積み重ねた結果ね」

 

――水月(F&C)

 

世界は実利で回っている。物質的な世界だからこそ、物質的なものが尊ばれる。逆に非物質的なものは疎まれる。だから人々はそんなものを捨てていく。偽物だから、虚構だから、噓っぱちだからと。

けど、今尚も持ち続けられている人は「忘れたくない何か」を見てしまったんじゃないかな。いつかの物語に、どこかのセカイに、果てなき空想を―――じゃなかったら社会に組み込まれた時点で、とうの昔に、そんな心の在り方は失われているはずだもの。

きっと他者からすればそんなものガラクタに過ぎないだろう。持ってても仕方ないし何の財産にもならないジャンク品。でも、持っている人からすればとても大事なもので、決して失いたくない「宝物」。少なくとも私は死ぬまで抱え続けていたいし、誰かにちょうだいって言われてもあげたくならない。

 

 

チヨダ・コーキはいつか、抜ける。

それは、青春のある一部分にだけ響く物語で、皆、自分のその次代が終わるとそこから卒業する。現代の諸問題、今を切り取る作家と呼ばれても、彼のそれは、所詮は人と触れ合った経験のない、完全な一個人の頭の中の産物であり、それ以上でも以下でもない。経験を獲得し、小説や漫画より現実が楽しく、そち らに惹きつけられていく人間を、これでは到底、引きとめることなどできない。

コウちゃんの話が、そう言われているのを、環は知っている。環はそう思わないけれど、そう言う人達がいることを知っている。

(中略)

チヨダ・コーキはいつかは抜けるのだ。皆がそうやって忘れる。

それがどうした! きつく唇を噛みしめて、環は車窓の向こうに広がる昼間の町を睨みつけた。

だったら、忘れてしまえばいい。私は絶対に覚えているから。絶対に、忘れたりしないから。あの心に響いた感じに揺り動かされながら、ここまでやってきた。これから先もきっとやっていく。

 

 

――赤羽環/スロウハイツの神様

 

私も忘れない。絶対に。

 

 

 

 

<参考>

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

 

水月

4,104円

 

 

猫撫ディストーション
ホワイトソフト (2011-02-25)

 

 

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