猫箱ただひとつ

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『ヒカルの碁』で繰り返された「神の一手」って一体なんだったの?~最善手の一歩先~(2938文字)

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 ヒカルの碁』で言われてきた「神の一手」って一体なんなの? 
 

 

 

神の一手とはなにか?


ヒカルの碁』のアニメは、必ず「神の一手を極める為に」というナレーションで始まるし、SAIは神の一手を極める為に囲碁を打ち続けていると言っていた気がする。

当時の私は、「囲碁の定石最強パターン」みたいなものが「神の一手」なのかなと思っていた。相手に必ず勝てる戦略、そういうものを見つけ出すのがSAIの心からの願いなのかなと考えていた。

しかし囲碁に「最強パターン」なんてものはなければ、「必ず勝てる戦略」なんてものは無い。

私は少ししか囲碁を齧ったことが無いがそんなものは無いだろうってことは分かる。何故なら「必ず勝てる戦略」なんてものがあれば勝負が勝負でなくなってしまうからだ。

最初のうちはその戦略を持って一人勝ちしていけたとしても、後にそんな手はバレる。どんな物でも貫ける矛があると分かれば、誰もがその矛を使うようになるのは必定だ。そして最終的にはお互いがお互いに"勝てなく"なってしまう矛盾状況を呼び込んでしまうから。

ゆえに勝負が勝負でなくなってしまうというわけだ。

またそんなお伽話の方向に行かなくても、囲碁を打ったことがあれば(私はぺーぺーだが)あんな無限の可能性を秘めた盤上で「必勝」を思い描いしまうことがどれだけ浅はかなことだと、思わずにはいられないものだ。

囲碁はほんとに難しい。

将棋は相手の王将を殺せば勝敗はつく。しかし囲碁は0から自分の領土を広げていき、相手よりより多くの領土をもぎ取れば勝ちという勝利条件な為、将棋より明確なゲームではないと思う。

ヒカルの囲碁入門

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そんなことを考えているとふと閃いた。

「最善手」の一歩先が「神の一手」と呼ばれるものなんじゃないか?と。

チェスや将棋、囲碁といったボードゲームは基本的にお互いが最善手を打ち合い勝敗を決するものだ。つまり無駄のない一手を繰り出し続けることで、相手を打ち倒さんとする遊戯だ。

でね、そんな最善手を積み上げた先に、ほんっとーにたまーに、ある対局の、ある局面の、ある一手が「芸術性」を伴う場合がある。そんな一手がある。きっとSAIはそれを「神の一手」と言っていたんじゃないか?

最善手を積み上げて積み上げて、最後に至る境地。

そんな神の頂きにまで届いた一手。


それも自分だけが最善手を打っていればいいというわけじゃない。相手もまた同じように最善手を打ってくれないと困る。何故なら「芸術性が伴う一手」というのは、互いが凌ぎを削った戦いの中にこそ生まれるものだからだ。

対局者の力量が同じで、かつとても練度が高い者同士が、本気でぶつかり合った時に「Art」とでも呼ぶべき一手が発現するんだよ。

逆に練度が低い者同士が対局してもその一手は生まれない。本気で本気で本気の戦いだからこそ、そこに「言葉にできない究極」が入り込む余地が生まれるんだ。私はそう思う。

この「芸術性が伴った一手」、というものがよく分からなければ梅原大吾氏のゲームプレイを観てくれればいいと思う。

この対戦は梅原氏が使うキャラのHPがあと1ドットという状況で、相手の必殺技をすべてブロックし(←神業)、そこからさらに相手に必殺技を打ち込みKOしたものである

 

こういう「芸術性が伴う一手」というものは、誰にでも真似できることでは無い。再現性が低く、言葉で説明できないからこそそれは「Art」なんだ

ロジックでは分からないことがある。

理論では辿りつけない領域がある。

だからこそその境地に至った一手は、人の心を揺さぶるんだよ。

ヒカルの碁』でいえば、SAIとトウヤのお父さんが一度ネットで戦ったことがあった。あの対局の、ある局面の、ある1場面が(SAIもトウヤのお父さんも気づかずヒカルだけが気づいた最良の一手こそが)、SAIにとって神の一手だったんじゃないだろうか。*1


このあとSAIがヒカルの前からふっと消えてしまったことも、彼がもうこの現世で果たしたい願いを叶えてしまったからだと考えると私はとても納得できる。

そうあの時―――SAIは神の一手を極めてしまったんだ

 

 

余談・Artとは

人間と機械の差はここなんだよね。機械が「Art」を習得してしまったら、人間なんかもう要らなくなってしまう。この市場社会で最も価値が高いのは誰にも真似ができない物を作れる人だよ。交換可能な存在ではなく、交換が不可能な存在をだよ。

iPhoneMacもそうだし、アニメーションも文学もそうだ。イラストなんてまさにそうでしょ? いとうのいぢ氏の絵を素人が模写してもなんか違うなーと誰もが思うし、例え完璧に模写できたとしてもその模写している人は"新しいのいぢ絵"を生み出せるわけじゃない。

いつも新しく、魅力的で、そして誰に真似できない絵を描けるからこそいとうのいぢにはイラストレータという職業には付加価値がつくんだと思ってる。

いとうのいぢ画集    ハルヒ百花

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もちろんそこには練度の差があって、絵をかける誰もが高い価値を持っているわけじゃない。

けどさ、絵を描ける人を見てると、癒やされたり、この絵いいなーって思うことないだろうか。

私はあるよ。自分には描けない絵を描ける人は凄いと思うし、そんな絵を見ているとわくわくしてくる。

それは絵に限らず音楽でもそう。私は破滅的に音楽的才能がないのでピアノを弾けたり、ギターを弾くことが出来る人は尊敬しちゃう。羨ましいとさえ思わずにはいらない。あー自分もピアノ弾けたらなーって、さそんな感じに。

この気持ちは「再現が難しい」領域だからこそなんだと思うんだよね。私がかんたんに真似できたら、そこに「凄い」と思う気持ちなんてありえなくなるわけじゃない。そういうことなのよね。

 

 

おわり

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先々週のハイキューあったじゃないですか。

鉄壁のブロッカーにボールを通す為になにをどうすればいいか? 日向をどう使い、他のアタッカーとの連携をどう取ればいいか?

司令塔である影山の繰り出す一挙手一投足。そして最後の最後の最後に、日向と旭さんの繋げ方がもう本当に最高だった。

あれを観て私は"最善手の一歩先"(=芸術性が伴う一手)という発想に至ったんだよね。最善手を積み上げていくと、きっとそんな境地に到れるんだと思う。

こんな記事書いたら、ヒカルの碁すごい読み返したくなってきた……。

では、またね。

<参考> 

 

*1:ここは周知の事実な気がしますが、私はようやく気づきました