猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

物語に感動するには【祈り】が鍵になる

スポンサーリンク

俺たちに翼はない (通常版)

 

 

 

祈り論


先日、『結界師』最終巻を読んだときぽろぽろと泣いていました。このとき「なぜ自分は泣いているんだろう?」と考えてみると、"結界師である彼らを応援しているからだ" という結論に至ります。

つまり私は限、墨村良守、守美子さん、烏森に対して幸せになって欲しいと願わずにはいられなかったんですね。失われてしまった限、良守の誰も傷つかない世界を作りたい気持ち、守美子さんの凪の心、烏森の無垢さを見てただただ幸せになって欲しい、不幸なんかじゃなくて、笑って、歓んで、後悔しない人生を生きていって欲しいと―――例え幸いにありつけなくても生きたいように生きていって欲しいと思いました。

これは他者の人生に寄り添う行為と言っていいと思います。それは同情や哀れみというよりは、ただただ相手の人生を尊重し、相手の生き方に自分の気持ちを重ねていくことです。

この「他者の人生に寄り添う行為」を私は「祈り」と呼びましょう。押し付ける願望ではなく、結果がどうなろうとも他者に寄り添っていくこの気持ちをそう呼びたいと思います。

また相手の人生に祈れる心があるからこそ、そこに「涙する」ことが出来るとも考えます。そこにいる彼らの幸いを本気で希求しているからこそ、だからこそ彼らが傷つけば悲しくなりますし、不条理な現実に突き当たれば怒りが生まれもする。BADENDとも呼ばれる苦しい世界に至ったとき、そこには虚無感や絶望、あるいは悔しさが私自身に立ち込めるんでしょう。

逆に彼らが幸せを掴んだ時、どうしもうなく涙が出てしまうものだとも。



結界師 (1) (少年サンデーコミックス)

 

物語とはそんな誰かを祈る気持ちで成り立っているのだと考えます。涙したり感動することができるのもひとえに他者を想える心を持っているか? 知らない誰かの人生に自分の気持ちを乗せることができるか? に尽きるでしょう。

物語鑑賞にあたってこの「祈り」は大切なファクターだと考えます。

小さな頃を思い出すと分かるのではないでしょうか。あの頃は知識とよべるものを使わず(あるいは使えず)、けれど様々な物語を読んで身を震わせてていたのですから。大人が見たらチープだと笑ってしまうような映画でも、泣く要素なんて皆無な童話でもうるうるしてしまうことも多かったはずです。

逆にこの考えが正しいのならばこう言うことも出来ます。――「祈る心」が完全に欠落してしまった場合、物語に感動出来ないと。

それは他者の人生に寄り添うことが出来なくなった場合、物語を読んでも涙する事が出来ない可能性です。

他者というのは本来は絶対に理解できないもので、受け入れるのが難しいものです。何故なら自分とは違う存在で、違う考え方を持ち、違う生き方をしてきた生物なのですから。しかしそれを緩和させ、あるいは許容を可能にさせるのは、「自己感覚の類推」と「想像の飛躍」にもたらされる理解です。

「わたしは頬を抓らるのは痛くて嫌なのであの人もおそらく嫌だと思う」とか「『身長高いね』と言われるとわたしは傷つくので同じことをあの人に言ったら傷つくかもしれない」といったふうにまず自分を中心にして考え、そこから飛躍し、トライアンドエラーの積み重ねで他者にその類推が適用可能なのか判断していくことになります。

視点取得限界のお話とも重なる部分です。

物語における『視点取得限界』を考える(24463文字)

 

しかしそれが行えないならば、物語内の他者という異物を"自分のことのように"感じるのは難しいでしょう。登場人物の気持ちを皮膚感覚で触れられるからこそ、そこには身を震わせるような感動があるのではないでしょうか。

 

   ◆ ◆

 

人が「他者に寄り添える心(=祈り)」を育む過程は定かではありませんが、それを獲得し者が後に欠落させる理由はいくつか考えられるかもしれません。

例えば、睡眠不足栄養不足といった健康状態の悪化、悪辣な環境での労働、対峙関係の懊悩といったストレスによって精神が磨耗してくと「他人の心なんか鑑みている余裕」なんてものはなくなっていきます。そんな状態で物語を鑑賞したとしても、誰かの気持ちに寄り添いたくても出来ないのも必然でしょうか。

 

 

 

人を「物」として捉える欠落者


思考遊びではありますが、もしも「祈る心」を獲得できない人がいたとしたらどんな人でしょうか。

思うに「人間を物のように扱う」でしょうし、それを躊躇いなく行える人物と言っていいでしょう。陰湿な虐め、虐待、セクハラ、迫害、殺害そういったことを一時の昂奮で行うのではなく、食事をするように平然と行える場合、その人には他者の気持ちを鑑みることができないと考えます。

自分の欲望と興味によって他者を蹂躙し、他者の痛みを解らず、"自分"じゃないのだから、他者を壊そうが殴ろうが構わない。そういう傾向の強い人物が、物語鑑賞にあたって登場人物に寄り添って涙が出るというケースは想像しにくいです。

 

 

 

感動にも種類がある

 

冒頭では「感情類推=物語の感動」という図式で語ったきましたが、それはあくまで登場人物の気持ちを媒介にした物語の感動という事にほかなりません。物語にはそれ「以外」の感動もあることを記述しておきます。

 

まず「祈る心」から生まれる感動というのは、「祈る対象」がいなければ成り立ちません。つまり物語に登場人物がいて、かつその人達に心を重ねあわせられる状況です。

俺たちに翼はない』であれば渡来明日香を好きでなかったり、彼女の気持ちに寄り添うことができなければ、彼女に対して幸いを掴んで欲しいといった感情が芽生えることは難しいでしょう。

 

俺たちに翼はない (通常版)

俺たちに翼はない (通常版)

 

 

逆に登場人物たちのことを全く知らないし、登場人物に自分の気持ちを重ねていないにも関わらず感動してしまうパターンってこものが存在します。

蒼の彼方のフォーリズム』のOPムービーはそれが分かりやすい例と言えるでしょう。

 

www.youtube.com

関連記事→「蒼の彼方のフォーリズム」OPムービーを見てると涙が

おそらく人は「美しい」ものを見ることでも感動するのだと思います。

「美しい」 が以下なるものかは言語化は難しいですが、とかく当人が「美しい」と思えるものを観たとき心が融解していくような体験をしたことは多くの人にあるはずです。

これは物語全般そうですし、音楽や、絵画といったジャンルに同様でしょう。

またセンス・オブ・ワンダーという現象もそれに類するものだと考えています。

 

 


 

祈る気持ちを分解してみると

 

「他者の人生(or気持ち)に寄り添う(=祈り)」を別の言い方をすれば、自己内に他者の気持ちをエミュレーションすると言えます。本来自分が生成する感情出ないにも関わらず、何かをキッカケにして――自分が生成できる範囲内で――ある感情を生み出していく。

これに必要なのは「推測」「類推」「抑制」の3つが要だと考えます。

つまり相手がどんな気持ちを抱いているのか推測し、自己感情を元にその気持ちはどんなものか見当をつけ、かつ自己を抑制しつつ他者の気持ちを優性にしていく。

これが出来るからこそ、他者の境遇に本気で泣いたり、怒ったり出来るのだと思います。



 

おわり

 

ってことで、物語鑑賞による「感動」を「祈り(=他者に寄り添う行為)」でもって説明してみました。本文中でも言いましたが、これはあくまでも感動の一つです。けれど大切な側面だとも考えます。

 

 

関連記事

物語における『視点取得限界』を考える(24463文字)

 

物語は人生をエミュレートし多視点を獲得させる力を持っている

 

『芸術的盲人』とは、物語を読むこと=銀行通帳の残高を眺める無感動な人間