猫箱ただひとつ

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→「さてエロゲを終わらせるか」←これに不自然さを覚える(2929文字)

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 彼女たちの流儀[アダルト]


「さてエロゲを終わらせるか」

「今日はさくっと『☓☓(タイトル名)』を終わらせてしまおう」


という言葉を見たとき、あるいは自分の思考に流れてきた時、それはなんか変じゃない?と思ったんですよね。違和感というかどこかしら"おかしさ"なる印象を受けました。

その印象の原因は、エロゲは終わらせる為にあるものではないのに関わらず、「終わらせよう」と発言してしまう事にある種の不可解さを感じてしまったのではないかと考えます。

つまり、(少なくとも私にとっては)エロゲは終わらせる為に購入したのではなく、エロゲは"楽しむ"為に購入したものです。だからこそ「エロゲを終わらせよう」という言葉は倒錯したものに見えてしまう。

エロゲは楽しむ為のものなのにどうして、「終わらせる」という言葉を浮かばせてしまうのか。

 


もちろんその脳内に過ぎった言葉は「言葉を掛け違えた」だけ、何気なく思考してしまっただけなんだと思います。特に深い意味はないし、深く意味を取る必要もない自然な言葉。

しかしそれでも問いかけます。

つまり何で楽しむ為のエロゲを、終わらせる為のエロゲとして扱ってしまうのか? そういう意図が無いとしてもそのような発言をしてしまうのか? と。

理由の1つに、「次にプレイする物が決まっている」からなんだと考えました。

例えば『彼女たちの流儀』をプレイしている時に、自分の部屋には『木洩れ陽のノスタルジーカ』や『ガンナイトガール』、『レミニセンス』…etc、といった計10作品が積んでいるといった状況だとします。

そんな状況で『彼女たちの流儀』をプレイしていても、「そういえばカノギが終わったあとにはノスタルジーカやらなくちゃなー」とか、「積みエロゲそういえば10本あるんだよなあ……」といった焦りが、「はやくカノギ終わらせなくちゃな」という言葉に変換されるかもしれません。

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時間は有限なので、生涯にプレイできるエロゲの数なんて限られています。別にエロゲじゃなくても、趣味に使える時間を考えるとどうしても効率を求めてしまいがち。

効率を求めてしまうとゆっくりプレイするのを敬遠して、出来るだけ早く・迅速に・終わらせよう、そんな意識が「エロゲを終わらせよう」という言葉に集約するのかなと。


あるいは「プレイするのが義務感」になっている場合も考えられます。「次にプレイする作品が決まっている」わけでもないのに、趣味時間に使える時間がほんとうに少なくて、エロゲだけに構ってられない! 外にいって友達と遊んで釣りいって飲んで本読んで話してダーツして……といった具合にいろいろなもの時間を使いたい、でもその時間は限られている、そうなってくると、またしても「さっさとやらねば!」的感覚が生まれるのかもしれません。

なんというか更にエロゲという媒体の性質として、「持ち運びできない」+「継続して読まないと話が分からなくなる」という部分があるので、余計にさっさとやらねば!意識が強くなってくるのかも。

小説のように電車の中で読むことできませんし、例えモバイルPC(あるいはiPad)でエロゲが出来るようになったとしても大衆の目をキにして公共の場ではプレイできなかったり、あるいはプレイできたとしても集中できなかったりするでしょう。それにモバイル環境を整えることも、エロゲを持ち運びして読む敷居の高さに繋がります。

つまり手軽にエロゲはモバイルできないってことですね。

そしてエロゲはだいたい20時間くらいかかる作品が多く、キリがいいところってあまり無いんですよね。だから継続的にコツコツと読まないと話がすぐ分からなくなってしまう。

一週間プレイできなかった場合、久しぶりにプレイしたせいで話の前後が忘れてしまっていて戸惑っちゃう場合もあるんじゃないですかね。

あるいは一週間プレイできないという状態が、エロゲをプレイすることに抑止をかけたり、キリがいい部分というのが無いから自由な時間が30分空いたとしても、「エロゲやるか!」って気分には中々なりにくいです。私的にね。

 

まとめると、「エロゲを終わらせよう」という発言は次にプレイする作品の多さによる焦りや、時間に対する効率を求めてしまう気持ちによって生まれてしまうものなんじゃないかってことでした。

 

 

 

終わらせる、という意識は楽しもうっていう気持ちを阻害するのではないか?という懸念

 

 この「エロゲを終わらせよう」と思考したり、言葉として吐き出してしまうとエロゲを終わらせてしまうことが目的にしてしまって、楽しむことは2の次になってしまうのではないか?という懸念があります。

この懸念は、自分だけに向けたものですね。

他の方は終わらせようと言ったとしても、終わらせることが目的になったとしても十全に楽しめる人もいると思いますので。

 
で!

今はなかなかそういった意識を持つことはないんですが、もし今後「エロゲ終わらせよう~」と思ったら、「いやいや!エロゲを楽しもう!」という風に意識に変換していけばいいんじゃないかなって思っています。

そうすればエロゲを楽しむことが確固とした目的になり、もっと楽しめるようになれるかもしれません。

この記事を何故書いたかというと、エロゲを終わらせようという言葉の倒錯具合に疑問を持ったのももちろんあるんですけど、

エロゲ(=物語性の強いNovel)をはじめた頃って、「終わらせよう」なんて一度も考えたことないんですよね。

当時はただ面白いから少しづつ少しづつプレイしていましたし、時には一ヶ月かかる作品もあったんですけど、全く苦ではなく、プレイする時は決まって「うし面白い時間をめいっぱい楽しもう」って考えていたなと。(CLANNADとかfate等)

 というかこれ、まんまクンフー論じゃないですか。今気づきましたよ。


クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること(13488文字)

 

 CLANNADとかFateは、2つともプレイ時間80時間を超えたんですけど、終わった後に「あー終わってしまった……どうしよう」というロスト的な感覚だったんですよね。

「やっと終わった」ではなく、「終わってしまった;;」という楽しかった時間がもう続かないという損失感。

こういう当初の気持ちを忘れないでいけたらなって思います。

もちろんそれは作品に依存してしまうんですが、それでも、ですね。

それでもその姿勢を忘れずにってことです。


それじゃまたね。

 

 <参考>

 

CLANNAD
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