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視覚優位と聴覚優位って何さ?「天才と発達障害」を精読してみた(6510文字)

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天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)

本書は、視覚優位と呼ばれる「映像」で物事を優先的に感受するタイプと、聴覚優位と呼ばれる「音/言語」で物事を感受するタイプがいる、そしてその2つのタイプはどういったもなのか?を説明したものなります。

簡単にいうと、

視覚優位の特徴は、記憶を「映像」として再生し、あたかも映画フィルムを回すかのように、早回し・逆回ししながら脳内で再現します。その為物事の観察に特化しているとのことです。あとは空間把握能力や、三次元的視点を駆使することが得意な人が多いとのこと。

聴覚優位は、"音"に強いため語学勉強が得意だったり、音楽的素養が高いそうです。耳が良かったりなどなど。

この記事は、そんな「天才と発達障害」を精読した内容になります。

ではどうぞ。

 

 

 

 視覚優位の特徴

過去の記憶などは、映画のように色彩豊かで動きもともなう当時みたままの画像が映ります。これから設計をする空間などは、そこにそのまま映ってきます。

文章を読むときには、読んだ内容が映像にいちいち変換されますから、読む速度は人よりはだいぶ遅くなります。

本書を読む限りでは、私は視覚優位の人間で、「映像」で物事を優先的に捉えているタイプの人間だと思う。 

だから「文章を読むと映像に変換される、その行程ゆえ読むのが遅い」と言われると確かにそうだなと頷いてしまう。どうも文章(=それが技工書であれ小説やエ口ゲであれ)を読むのが自分は遅くて、平均的に1時間で読み終えるものを1.5倍~2倍以上かけて読むなんてザラです。

ただいちいち文字を「映像化」している為なのか、エ口ゲでは以下のようなことが起きます。

ふとした瞬間に、過去にやったゲームのCGが頭のなかにぽわんと浮かぶことがあります。 

「ここの場面良かったなー、ちょっともう一回見よっと」 

とゲームを起動してみると、そんなCGが無かったことに気づくことがあります。これはプレイ中に自分がイメージした場面のものを「CG」だと勘違いしちゃうときにありがちです。 

エ口ゲーをやっているときの、私的6つのあるある??

 

つまり、頭の中に浮かんだゲームCG映像があると思い探してみるものの、実はそんなものはなく、当時の私がイメージしたものが「CGとしての記憶」としてなっているってことですね。

正直なところ、こんなの誰でも起こりえるものだと思うんですが、どうなんですかね? それともこれが視覚優位ってことなんでしょうかね。


―――ってことで、私が「当たり前だ」「ほとんどの人が誰にでも出来るに違いない」と思っていることを記述してみようと思います。どうも自分が視覚優位っていう実感があんまり無いんですよねー……、だから自分の感覚や体感が「普通だ」「一般的だ」と思っているフシがあります。

なので聴覚優位の人からすると、こういうことも不得意なのかな?というちょっとした好奇心もあります。

私は昔の出来事や場面を回想しようとすると、その当時の現場風景、状況が「映像」となって現れます。そしてさもその世界に自分が降り立ったかのように、行動したり言葉を発言したりできます。

ってやつ、、、なんですがどうでしょうか。

脳内回想、あるいは「記憶を思い出す」って私はこういう体感感覚だと思っているんですが、実はそうじゃない人もいるのかなー?……えええどうなんだろ。すごい気になりますぞ!


本書を読むと、「もしかしてこういう映像記憶的な回想って、聴覚優位の人は不得意なのかな?」なんて思ってしまいました。


んーどうなんでしょう。どなたか答えて頂けると嬉しいです。

あとどうもこの脳内回想ではあまり「音」が再現されていないことに気付きました。当時の映像はよく蘇るんですが、当時の空気のふれあい、人々のざわめき、騒音、囁き……というのはすっぱりカットされてるなーと。

 

それとアニメを見ているときに「過去遡及現象」をたびたび感じることがあります。

これはどういったことかというと、相手の過去が明かされていないにも関わらず、相手の過去が(自分の中で)創りだされて、イメージとして浮かび上がる現象のことです。

例えば『中二戀』で言えば、凸守早苗は自分が尊敬する人に追いつきたくて頑張ってきた女の子です。しかしその「頑張ってきたであろう姿」は明示されず、映像としてはアニメーション化されていません。

ただ彼女の言動、思想、在り方を観れば、「昔から頑張ってきたであろう」というのは多くの人が分かることだと思います。

でそんな凸守早苗ちゃんを見てたら、ある話数で"ぶわっ"と 凸守早苗が がんばってきた 過去 の 映像 が浮かび上がってきて涙が出ちゃったんですね。師匠の地点に追い付くためになんてひたむきに修業してきたんだろう! みたいな感じのをです。


これも視覚優位となんか関係ありそうだなって見てます。

 4話「中二病でも恋がしたい!戀 」_他者の履歴が映像として飛び込んでくるということ


 7話「ニセコイ」_鶫誠士郎の在り方は怖い……すこし恐怖を覚えるくらいに危うい

 

 

 

視覚優位と会話と

 

会話をしているときにもその内容が映像に変換されますから、長い話のときには途中で理解不能に陥ることもあります

映像になりやすい具体的なことは良いのですが、映像に変換されにくい言葉は、映像にならないがために記憶として残りにくいのです。
(37P)


まあ……そりゃ会話してれば相手の言葉がうまく理解できなくて会話が止まっちゃうことってあるんですが、でもそれって「理解不能」っていう程なのか?と聞かれると微妙な感じです私の場合。

だって、会話してて分からなかったことは聞き返せばいいですし、それでも理解できないことは「相手と自分との膨大な文脈背景を知らないだけ」と見ているんで、それを「視覚優位だから言葉という音が理解できなくなる」ってなっちゃうのはえー!?って思っちゃいます。


ただ「言葉が記憶に残りにくい」というのは、分かります……。言葉そのものより映像を記憶しやすいんですけど……あれ、でもこれ誰でもそうなんじゃないかって気がしますね。

あと私は頭の中で「言葉(音)が再生」されるとき、脳内で響く感じなんですが、聴覚優位の人はもしや、"耳元"で音が再生されるのかなー?なんて思ったり。ここ何方かにすごい聞いてみたいです。

 

 

 

視覚優位の記憶状況

 

しかし文章の内容をいったん映像化しておくと、かなり長い間、時には何十年もの間忘れることなく保存されます。ちょうど映像記憶が頭の中で圧縮パックされ、保管されているようなものです。

それを今度は他の人に言葉で伝えるために引き出すにあたっては、自分なりの言語表現になり、言葉そのものの再生はされにくくなります。

視覚で読んだ文章でも、聴覚で聞いたものでも、映像化されないものは、言葉のままですから記憶にはなりにくいのです。

映像記憶が圧縮パックされ、長期保存っていうのは別に視覚優位者じゃなくても出来るとは思うけれど、視覚優位者はその保存状態に強いってことなのかな? 映像欠損が少ないとかそんな感じで。
 

ちなみに私は小学校の同級生の顔を全員思い出せますが、そういうことなのかな? 

でも別にクラスメイトの顔を思い出せるのって、当然っちゃあ当然な気がして視覚優位だからって感じしないような。でもこれは私は自分の感覚を「一般的なもの」と思い込んでいるから?……。

くっ。

自分の感覚って普遍的なものだと思っているし、それが"ズレ"ている、少数派って思うことって考えたことあんまり無かったな……。自分と他者が違うのは「価値観」や「思想」、「経験」という部分でのみ、それのみで、感じ方が違うと思ってきましたから

まさか「そもそも物事の捉え方、感受する前提が違う」なんて思わないよー! 比べようなんて思ったことないし、本当に本当に私の感覚って、聴覚優位と呼ばれる人と180度違うんだろうか?

本書によると、世の中は聴覚優位が半分以上を占めてて、視覚優位はあまりいないんだそうな。むー。


 *

話戻します。

―――"それを今度は他の人に言葉で伝えるために引き出すにあたっては、自分なりの言語表現になり、言葉そのものの再生はされにくくなります。"


これはよく分かるような。膨大な文脈のある内容を人に話すとき、すごい躓いで「悪い、長くなるのでこの話題やめよう」って言っちゃうとき結構あります。

私が常々「他者の意味記憶を共有できる技術ほしー!」って言ってるのもそこらへんありますね。

つまり、頭んなかの概念(=あるいは映像)、のみでコミュニケーション出来たらどんなに楽で素晴らしいかってことです。

言葉でのコミュニケーションはちょっとたるいのですよ。

 

 

視覚優位と、客体視

時には映像記憶には、温度や湿度感覚も再現されていることがありますから、視覚認知を中心とした触覚などの感覚が統合された状態のようです。

場合により、自分が見ている風景だけではなく「客体視」と言って自分を含んでいることもあります。中には走る電車の中から見える景色の一瞬を切り取るように、記憶している人もいます。

湿度と温度感覚はどうだなろうなあ……意識したことがないのでよく分かりません。ただ私個人でいえば記憶映像に触覚情報はなさそうです。

あと本書でいわれる「客体視」とは、説明がちょい難しいんだけど、例えば自分の部屋を"真上"から、あるいは"足底"からの視点で眺められることを指しています。

映画とかアニメとかで「俯瞰」とか「煽り」って呼ばれるカメラパースあんじゃん?あれです。あれを頭の中で、ぐりぐり動かせますか? 再現できますか? っていうのが「客体視ができる」てことです。

これを視覚優位者は、自分を含めた状態で俯瞰し煽りも出来ると言われているんですけど、いやいやいやこれ誰でも出来るんじゃないの?……って私は思っているんですが……どうなんですかね。

こんなの当たり前というか、そんな難しいことじゃないとは思っている程に、(私ん中では歩くことやハミガキと同程度の行動なので)、簡単なものだと思っています。

聴覚優位の人は、これが苦手?……ということ?それとも全然出来ないとうことなんでしょうか? ほんとに?んん

他人の感覚ってもう全然わからないので、すごい気になる。

 

 

 

 

ガウディと視覚優位と聴覚優位

 

さらに第一章で述べたように、ガウディはこうも言っています。

"人は、2つのグループ、すなわち時間の人と空間の人のいずれかに属さざるを得ない。数字に弱い人は、音楽とか言葉にも弱い。なぜなら音楽も言葉も時間を必要するからである。 "

ガウディのこの言葉は、めちゃくちゃ自分に当てはまっていてどきっとします。

つまり数字に弱いですし、音楽も弱く、言葉(おもに概念を言語化すること)に弱いのです。

また「音楽」と言っても、人によりメロディだけの取り込みは得意で、一度聞いたメロディはいつまでも覚えていられるにもかかわらず、歌詞という「言語」となると、とたんに聴覚からの記憶の弱さゆえ、覚えられない人もいます。

そうそれ!それ私だよ! メロディは思い出せても、歌詞はもうほんっとほんっと全然ダメ。覚えられません。ある曲を100回Repeatしても歌詞を覚えられない自信がありますもん(汗

詳しくはこの記事で→「歌詞非認識」という音楽との接し方(3925文字) 

 

 

 

 

知識のフィルターを通してしかみれない教養主義

知識を先に入力している人は「教養が邪魔して……」などと言うことになり、知識のフィルターを通してしか見ることができなくなります。

たとえばそれが料理であったなら、「これはフランスの有名な料理人の◯◯氏によるもので……」などという前触れがあったときに、素直な人は「ははー、なるほど……この上なくおいしい」との評価になりがちではないでしょうか。

ところがそのような前触れがないときには、皆さんの自由に自身の感覚を頼りに、比較検討をするのではないでしょうか。

ガウディは自身の映像思考から、実際に見て発見していくことの重要性を述べているのです。

 
聴覚優位・視覚優位の話からちょいずれますが、昔から教養主義者は嫌がられていたんだなーと思ってしまいます。


大事なのは知識ではなく、"考え"ることです。


そしてガウディがいうように*1、そのものを"視"て何かを発見することです。

これはずーっと前から私は言っているんですが、知識を詰め込んでいる教養主義者がそれをあたかも凄いことのようにひけらかすのは正直嫌悪しか湧いてこないんですよね。スノップはもううんざりなのですよ。


作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話。

 

 

 

映像でコミュニケーション

さらに映像思考ができる一部の人は、映像でのコミュニケーションをすることができます。(中略)自分のイメージと同じ映像が、相手の脳裏に映像として映ってしまうことがあります。(中略)

例えば映像思考の親子の場合、子どもが今行きたい場所をイメージしていると、親の映像にも同じ場所のイメージが映り、言葉で言わなくても子どもが行きたい場所や、考えていることが分かってしまうというものです。会話としては「行きたい」だけで通じてしまうのです。

 これは私の家族では、無かったかなー……映像でコミュニケーション出来なかったなと思います。

 

たとえばCさんは、ウィンドウショッピングに出かけ、気に入ったジャケットを見つけました。

数日後、そのジャケットのことが気になり、家族に(この間見たジャケットのことだけど)を省略して、「気に入ったのがあって、よかったんだよね。やっぱり買っておこうかな」などという発言になるので、周囲の家族は、何の話なのか、皆目見当もつかないことになります。

そんな人に「話のテーマになる映像がすでにイメージされているのではないでしょうか」と聞くと、まさしく「そうそう」とうなずかれることがあります。このようなことは本人には無意識なことですから、あえて聞いて、考えてもらわなくては、自身でも理解できないことなのです。(中略)

このような人はおそらく幼少期に、ダイレクトコミュニケーションができていたと、推測できるのです。

 

 

 

 

自分の感覚を普遍的なものだと思ってしてしまう人のサガよ

 

ガウディは生まれ持っての認知について、他の人も同じであると思っているのです。

まさか自身の見え方が、特に際立つ視覚優位であることを意識していませんし、またガウディと反対の視覚的なあいまいさを持ちながらも、聴覚からの記憶や理解・処理に長けた聴覚優位な人の存在など、想像もできないのです。

おそらく多くの皆さんも、そのことを言われるまで、想像もつかなかったのではないでしょうか。

 いやー気づかないよー。今だってかなり半信半疑ですしね……。

客体視ができないとかほんとに?……って感じですもの。(聴覚優位の人からすれば歌詞覚えられない人っているの?っていう感じかもですね。私は歌詞カードを凝視して文字として書くことを繰り返さないと覚えられそうにない、あと耳コピは無理だと思うな♪)

 

 

 

おわり

ほとんど、

いえ全て「視覚優位」の言葉ばかりの抜き出しになってしまいました。けれども実は本書もどちらかというと視覚優位のお話が7割占めていた印象なんですよね。

もし興味が出てきましたら手にとってみてください。自分の体感覚が実は人のものとは違うんだぜ?みたいな感覚を味わえると思います。私としては面白かったです。

ではではまたねー。

 

<参考>

 

 

 

 

 

*1:この本書で抜き出された引用文だけを見れば