猫箱ただひとつ

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私信、タウさんへ。物語の<核>とクンフー論など

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クンフー論の記事にてタウさんからコメントを貰ったので、この記事にてお返事させていただきます。理由としては今回は文字が多いのと(+後々の自分の思考の種になりそうな内容なので)記事にて言葉を書き残してみようかなと。

 


あ、もし記事での返信というこのスタイルが、タウさんにとって嫌ならば言ってください。その場合はコメント欄に返信内容を書かせて頂きます。 


べるんさんは、物語を読んでいる最中に「核を見つけよう」ということをどのくらい意識していますか?

というのも、僕は今『ローゼンメイデン』全9巻中の第3巻を付箋を貼りながら読んでいるのですが、「?」と思ったところでも、「ここは本筋とは関係ないっぽいしいいか」と飛ばしてしまう事がときどきあります。意識を核に集中させていくためには、このように切り捨てる部分を選ぶことも必要かと感じます。ただ、クンフー論の「今」を楽しむという立場からすれば、「核を見つける」という遠い目的を見るのではなく、目の前の1巻1巻に集中して、気になったとこは気が済むまで掘り下げていけばいいと。そして「その結果」核が「見えるようになる」という感じなのかあと。

「正解」なんてものを求めているわけではないのですが、べるんさんはどんな風にしてらっしゃるのかというのをお聞きしたいです。

コメント有難うございます!
 
(ではちょっと本筋から脱線したところからお話始めます)

私はここ一回ドツボにハマってしまったことがあるんですね。つまり「楽しむ為に物語を読む」のではなく、「意味を見つける為に物語を読む」という逆転現象?が起きちゃったんです。

それで意味という名の「核」を見つける為に、物語(マンガでもアニメでも)読んでいるとなんかすんごいつまんなくなっちゃったんですね。

多分これって物語を感情で楽しむという視点が欠けてしまって、「頭で考える」というスタイルになってしまったからだと考えています。つまり論理で物語を突き詰めすぎると、それはもう物語というか「文字記号の羅列」「意味の羅列」でしか認識出来なくなっちゃうので、つまんないんです。

 

だから私が一番良いな!と思っているスタイルが

1)→物語は感情で楽しむ(つまり物語を"読んでいる"時に、論理で解釈したり、意味を能動的に探したり、あるいは先の展開を予測すしぎない)

2)物語を感情で楽しんだあと、→再度読み込んでいくと(=考えながら文字に書き写す)、よく分からなかったキャラの行動や感情が理解できた!とか、どういう意味があの行動にはあったのか? あの現象はなんだったのか? だった「よく分からない」ことだったのが「分かる」になってきます。(もちろん全力で挑んでも分からないままの時も私はありました)


です。

そしてこの物語を再び読み込んで→考えて→文字に書き写していくことを何回も繰り返していくと、ふとその物語の<核>が現れるときがあります。(抽象的な表現のまま話を進めていきます)

その時に、私は「核を見つけた」「血脈はここだ」という表現をします。

 

まとめます。

つまり(1)の物語を感情で楽しむのが最優先で最重要です。ここで楽しくなければ楽しめないまま物語を終わったも同然です。

(2)はおまけといってもいいです。ただ(2)をやっていくと、(1)で楽しくなかったな……これ……と思っていたものが"ひっくり返る"時があります。つまり楽しくなかった物語が、楽しい!すげー!となる時があるんですね。

それは何故かというと(2)で自分で見つけた<核>が、(1)の楽しさより上回ったからです。

 

補足として、(1)が楽しかったら(2)も必然と楽しくなります。(1)が楽しくなかったら(2)はだいたい苦しかったり辛かったりする場合が多いです。

だから出来るだけ「物語を楽しむ」ことが出来たほうがいいと私は考えてます。それも物語を"読み終えた"後の楽しみより、"読み進めている"ときの楽しみを上げたほうが良いと思っているんです。

こういっちゃうとクンフー論の記事であげた「読解モジュール」や「エ口

ゲ血肉化論」はメインではなく、あくまでサブなんです。

ただサブとはいっても、好きな作品にやってみるともっともっとその作品好きになるしおすすめだよ! つまらない作品でも面白くなったり楽しいと思える"時"もあるからやってみて! と言っている感じなのです。

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(1)はクンフー論でいう「今だけを楽しむ」ってことに繋がると思います。何かある意味を探すために物語を読むより、ただ今その瞬間を楽しむ、それだけで十分ですよ!ってことなのです。

で、でも年齢を重ねていくと一回性(=一回目に感じるワクワクドキドキ)が減っていってしまって、日常がループしていってしまいます。同じことの繰り返し、同じ毎日の繰り返し、物語を見ても"経験"によって楽しめなくなってくるなと思っています。

そこで「感受性を磨く」というのが大事だなと。具体的にどう磨くか?は「自分が経験したことのないことに触れて心を刺激しろ」=旅がいいよ! という結論を導き出していますが、いかんせん私自身うまく行動に移せていないので机上の空論の域を出ていません。(Cf.読解モジュールの記事の内容)

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▼はいここでようやくタウさんの質問に移りたいと思います。(ちょっと前置き長すぎでしたね……)

>>「物語を読んでいる最中に「核を見つけよう」ということをどのくらい意識していますか?」

意識しているときもあります、そして意識していない時もあるので、その物語によってまちまち……でしょうか。(なんという中途半端な答え!)

私の経験的に物語を読み進んでいるときに、「あ、核見つかった」くらいの方が自然でいいかな?と思っています。

「核を見つけよう」と思っていると、前述したように物語が意味を見つけ出す為だけに読んでしまうことになるので、楽しいという感情がなくなっちゃうかも?……という危惧が私にはあります。といいます実際そうなってしまったことがあるのです。

もちろん私はそういう体感覚に陥りやすいだけで、タウさんは違うかもしれません。

「核を見付けよう」と思いながら物語も楽しめる方ならば、私の危惧感はとくに心配することないと思いますヾ( ・ω・ )ノ

ということで質問のお返事は以上です。ご期待に添えられた内容だったら幸いです。有難うございました><!

 

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ここからは自分のメモとして文字書いていきます。

1)物語の意味探しや、核を見つけることが第一優先となってしまって、うまく物語を楽しくことができなくなってしまった。

→"思考を止める"。そして体感覚をフルに使って"感じる"。この2点を意識的にやってみると、なんだか良い感じな気が。つまり没頭感覚・集中することが割と早くできるようになる。

思考を止めるのは、呼吸。それと脳内で言葉を吐き出さないこと。
体感覚をフルに使うとは、物語でリンゴが出てきたら"リンゴの味を自分の舌で再現"するということ。腕が切り刻ま割れた、"切り刻まれた"感覚を再現する。あとはその場の「空気」や「雰囲気」「湿度」「匂い」なんかも意識してみると良いなと。