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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

自己肯定感が高いことは「倫理観」の影響下にないということ(8925文字)

オピニオン
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 自分を愛する力 (講談社現代新書)
*私はこう思っている以上の記事ではないのでお気をつけを

一時期、一部の界隈*1でくりかえされた「自己肯定感」。今日はこの自己肯定感について私なりに語っていきます。

ただこの言葉に馴染みがない方もいると思うので、まずは言葉の定義付けから。

 



 

 

自己肯定感の定義付け


自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない人間である」と思える心の状態の度合いを示す言葉です。*2

肯定感が高ければは自分を大切なものだと認識できますが、反対に肯定感が低くなってしまえば「自分は要らない存在だ」「俺はなんで生まれてきた?」という自己認識に繋がります。


気をつけなければいけないポイントは、自己肯定感が高いことと、その当人が社会的に優れていることは関係がないってことですね。


つまり有名人であることや、学歴、年収、ルックス、肩書、技巧的な能力(スポーツ/音楽/小説/絵etc)が優れていても、それは自己肯定感の高さには結びつきません。

私が言っている自己肯定感が高い人とは、上で挙げた要素をすべてひっくり返しても「自分を大切な存在だ」と思える人のことです。


何者でもないただの一般人で、最終学歴が中卒の年収0のニートであるが故に何の肩書も持たず、かつルックスは最悪の不細工で、技巧的な能力をなにひとつ有していないんだとしても!

周りの人間が当たり前のように持っている「腕」や「脚」といった身体的機能が、欠如し、自分は有していないんだとしても!――
――なお自分のことを大切だと、好きだと言える人を、自己肯定が高い人間だと私は呼んでいます。


何が言いたいかというとですね。上で語った自己肯定が出来る人は、「外」の要素と比較しないで生きる事が出来る人間なんですよね。

社会的評価、市場価値、周囲の目、多数派の価値観によって回る世界だったとしても、「私は気にしないよ(にっこり)」となんでもないかのように受け止められる。それこそが自己を肯定出来ていると言えるんじゃないでしょうか?


「自分を大切だ」と思える人間は、得てしてこういう人達です↓

1「結果を考えずに物事に取り組める」(←その取り組みが社会的に劣っているものでも関係ない)

2「その取組に、充足感を得られる」(←1人で完結できる世界を持っている)

3「他人の承認なしで充足できる人」(←他人の評価より自分の評価で満足し行動出来る)


この3つは、社会の価値観に捕らわれていません。

だからこそどんな事も、どんな出来事もさえも、自分の尺度で物事を捉え、自己評価をもってよしとできるのです。

上で挙げた(1)、これは周囲から「それは無理だできっこない!」と言われても自分がやりたいことを黙々とこなすでしょう。例えば子どもの頃、プロの野球選手になると宣言したら、周りの大人から無理だとバッシングされるとします。

「プロの道はとても険しいんだぞ」「ちょっと努力したくらいじゃ叶いっこない」

そう言われたんだとしても、そしてかつ自分自身も茨の道だと認識しても尚、自分が"やりたい"から、夢を叶えたいからという一心で、プロ野球選手になれるよう鍛錬を続ける人をイメージしてください。

それが「結果を考えずに物事に取り組める」ということです。


(2)(3)は、いわゆる内発的動機で動いている人間のことです。その取組の先に「ご褒美(=お金や物)」がなくても、ただひたすらに行動し続けられる。なぜなら行動動機が「外」にあるのではなく、自分の「内」にあるからです。

内発的動機で動いている人間は、他者の評価も承認もいりません。自分がしたいから、ただそれだけの理由で充足感を得られます。

(参考:モチベーションを下げる罠、「アンダーマイニング効果」にご注意

つまり自分だけの自己完結した世界を有しているってことです。


繰り返します。


つまり自己肯定感が高いという人は、社会的評価、他者評価、他人の承認によって生きることの充足感を得られる人ではありません。自分の価値観で、自分の評価で自分を決定付けられる人のこと。

そして生きることの充足感を「自分だけで」得られる人間のことを指します



どんなにダメな自分だとしても、受け入れることが出来る。それが自己を肯定できる人間。それが私の考えです。


そしてここまでは言葉の定義づけ。ではどうすれば自己肯定感を上げることが出来るのか?を考えていきます。

 

 

 

前提)倫理観と自分の価値観の線引を明確にする

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まず前提として、倫理観と自分の価値観を明確に分けます

コレが出来ないと、倫理観=自己評価と認識してしまう為、自己を受け入れることが難しくなってしまいます。


どういうことかというと、まず倫理観とはなにか?ということを説明していきます。

この記事で言っている倫理観とは、「大衆の総意の価値観」という意味で使っています。大勢が良いと思ったものが「良い」という評価になり、悪いと思ったものは「悪い」という評価が倫理観として表に浮かび上がるということですね。


例えばこの3つ。

歩きタバコをする人はクズ。
・約束を守れない人は最低。
・浮気とか人としてどうかと思う。


この3つはこの国の、大勢の人間の価値観が反映された結果です。多くの人間が「悪い」と思ったから、この3つは現在社会的に「悪いこと」になっているんです。

これを理解してもらうために、男女の対話で問題を浮き彫りにしてみたいと思います。どうぞ。

 


―――――――――――――――
男「浮気をして二股をかけるのはどうして悪いのか?」

女「だって浮気された人は悲しむでしょ」
男「ふん。じゃあなぜそいつを悲しませてはいけない?」
女「自分がされたら嫌だからに決まっているじゃない」

男「なら、自分がされて嫌じゃなければ浮気はしていいんだな? ちなみに俺は浮気をされても平気だ。自分がされて嫌じゃないことは積極的にしてもいいとは思わないか」

女「………でも、…それは人としてどうかと思うよ」

男「"人として" というがこれはどう意味なんだ? 人間であるのならばこうしろっていうことか? ちなみに「人間であるのならばこうしろ」と決めたのは誰だ? おまえか? 」

女「…………。……今のやっぱなし。それじゃ私があなたに浮気をされるのは嫌だから、浮気をやめて欲しいという理由はどう?」

男「それはつまり、お前を悲しませたくないのなら、俺は浮気をやめるべきだ。ということだな。しかし俺はお前が "悲しもうとも" 気にしない。泣こうが怒ろうがどうでもいいんだ。なぜなら俺は俺の為に生きているのだから、決してお前の為に生きているわけじゃない」

女「だからそれは人としておかしいでしょッ!!!」

男「……。じゃあさっきのとは別の言い方をしよう。俺は人であることを辞めると宣言したら浮気をしてもいいのか? どう思う。"人として"ということはそういうことだぞ」

女「……………」
女「……っ」
女「それは分からないけど……でも…浮気ってみんなしてないよ。ごく一部の人だけだよやってるの」

男「"みんな"がやっていないから何だ? それが【浮気が悪い】ことの答えなのか?―――確かに倫理観という社会的文脈に沿った意味でなら浮気は悪いことになるだろう。大勢の人間が悪いという価値観を持っているからな。でもだ。

でも俺は浮気を悪いとは思っていないんだよ。俺は俺の行為を悪いものだとは思っていない、なら実行しても構わないじゃないか?」

女「……………………」
……

―――――――――――――――

 


意図的な会話ですが、どうだったでしょう。

この男と女の対話でわかるとおり、浮気を「悪い」と定めているのは倫理観です。しかし倫理観はしょせん外部の価値観。大衆の総意の意見でしかないのです。

つまり倫理観とは自分の意見じゃないってこと。ただの他人の意見でしかありません。ゆえに、浮気は悪くないと思う自分がいたのなら、それが自分の為になると思ったのなら、浮気をしてもいいっていうことです。

浮気だと分かり難いかもしれませんが、これがパチンコとかだったらどうでしょう?

周りの人間からパチンコは悪いもの、パチンカス!と言われたとしても、自分自身がパチンコは悪いものだとは思ってないなら、パチンコ店に通い続けますよね? 

なぜってそりゃあパチンコの善悪なんて他人の意見なのであって、自分の意見じゃないからですよ。他人が悪いと言っても、自分がそう思わないのなら従わないですよね? 

(余談ですが私はパチンコは「悪」だと思っています。Cf.ひろゆき「パチンコやる人ってバカなんですか?

浮気もパチンコと同じで、自分の為になるのならしてもいいんですよ。度がすぎれば法に引っ掛かり裁かれるでしょうしね。

つまり倫理観はただの道具ってことです。多くの人間が快適に暮らせるように生み出されたものにすぎません。浮気が悪いのは、浮気をされたら嫌な人が大勢いるからであり、ゆえに浮気を『悪』と定め、この行為の抑制につなげているだけなのです。

しかしそれは【自分が守ったほうが不利益が生じないから】倫理を守るだけであって、守りたくなかったら守らなくていいんです。倫理も道徳も。法でさえも。

祈「この前椎名さんが言っていたんですけどね。『ありがとう』って、言葉の端々に付ける人は、基本的に『ありがとう』って言って欲しい人なんですって

 

兎子「相手に求めているからこそ、自分がするって言うこと?

 

<老人に席を譲る>のは、老人になった時に席を譲ってもらう為であり、<ゴミを捨てない>のは誰にもゴミを捨てさせず街を衛生に保つため。……って言う事かな?

 

祈「法も道徳も、結局は人のために在る物ですからね。人は群だが……でも同時に、個だ。だから実は守る必要なんて無いんです。自分が必要ないと感じたら

――【Sessions!!~少女を監禁する事情~】(7785文字)


倫理観に自覚的になることで、自分の価値観と外部の価値観(倫理)を明確に線引出来るようになります。

線引することで外部の価値観を、自分の価値観だと思ったり、その延長線上である自己評価に繋げなくてすみます。


例えば、一昔前はアニメは子どもが見るべきものであり、大人になっても見続けるなんて恥ずかしいものだと言われてました。

その時代、大人になってもアニメを見続けていた人は「自分は恥ずかしい人間」「ダメなやつ」と心の中でウツウツとしていたかもしれません。

しかしこれはしょせん倫理観です。他人の価値観なのです。他人が自分のことをどう評価しようとどうでもいいことです。


だって自分がどういう人間か(恥ずかしいのかダメな奴のか)を決めるのはあくまで自分だからでしょ。自分の考えで、自分の尺度で、自分の価値観で、自己評価すべきものだと私は思います。


もう一つ例をあげると、周りに「恋人ができない……年齢=恋人歴無しなんだけどまじどうすんだよ……」と一年中愚痴っている子がいます。

私からすると「恋人がいないとダメって思っているのはあなたの価値観じゃなくて、世間の評価でしょ?」っていうことになります。

恋人いない奴は、年齢=恋人なしとか恥ずかしい―――そう言っているのは世間です。その世間の価値観を、自分の評価として直結してしまうからこそ、恋人がいないことに劣等感を抱いてしまうんじゃないのと。

だっておかしいじゃないですか。「恋人が欲しい」っていう考え方がそもそも。意中の気になる子を恋人にしたいんじゃなくて、ただ「恋人という存在」が欲しいと叫んでいるのはそういうことでしょ?

ようは世間の評価をあげたいから恋人が欲しいんでしょ?ってことになります*3


つまりこういうことです。

倫理観(大衆の総意の意見)という他者の評価を、自分の評価だと思うからこそ自己肯定出来なくなると。

他者が■■は恥だ! ◯◯出来ないことはダメ人間だ!と言っていることを、真に受け、それを恥だと思ってしまうからこそ「自分はなんてダメなやつなんだ……」と思う原因になってしまう。

そこでまずは他者の評価・価値観を意識することから始めるといいんじゃないでしょうか。

例えばこの4つの言葉、「いい年になって」「人として」「みんなが」「男として女ならば」これは紛れも無く倫理観の現れです。この言葉が主張の枕についたら受け止めはせず、流しちゃいましょう。

「所詮倫理観なんて他人の価値観であり、周囲の意見にすぎないんだよ」と意識し続けることが出来れば、少しづつ、倫理観は自己評価に繋げなくていいことが分かるはずです。


次は、自己肯定感を高める方法に移っていきます。


 

 

(1)好きなことを追いかけまくる

 

今まで語ってきたのは、他人の評価がイコール自己評価だと思ってしまうから、自己を肯定できなくなる。自己肯定感が低くなってしまう。


だから他人の評価/価値観(=倫理観)を見極め、常に意識することで自分との価値観と区別することが出来るようになり、他者評価を自己評価につなげる必要はないと実感できるようになっていくということでした。


次は今までのを踏まえて、自己肯定感を高めていきます。


それが「好きなことを追求する!」です。


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しかし、なぜ好きなことを追求することが、自己肯定感を高めることに繋がるのでしょう?


それは好きでやることは、他人からの評価を気にしないからです。ブログを書くことや、水泳を続けること、ベースを弾く、絵を描く、アニメ、映画を観ること____そういったことは他者が存在しません。自分が好きでやって、自分の為にやっているから当然ですよね。

他人の評価ではなく、自分がどう満足するかで行動できるのが「好き」から始まった行動なんです。


だからこそ難しい練習も好きだからこなそうと思えますし、ハードルが高い課題もなんとかして飛び越えようと思うものです。好きだから出来るものです。

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私の例をあげましょう。私はエ口ゲをプレイすること、アニメを見ることは誰かに強制されたわけじゃありません。自分が見たいと思ったから見て、好きだからソフトを購入したんです。

エ口ゲが好きだからこそ、1つの作品に一ヶ月以上かけて感想を書くことも出来ますし、徒歩で往復5時間以上かかるゲームショップに自転車で行くこともあります。(たまにですけどね)

エ口ゲ感想記事に「42時間」費やしてみて (3216文字)
4年間書いてきた「エ口ゲ感想」の移り変わりと作り方のまとめ(9863文字)

このように「好き」からはじまる行動は、他者承認(=他者から認められたい気持ち)が得られなくても、自己承認(=自分で自分に満足できること)によって心の充足を満たすことが可能だと思っています。


ゆえにこの自己承認(あるいは先で語った内発的動機)を鍛えることで、自己肯定感を高められると考えます。

つまり「好きなことを続けて、好きを追求していけば自己肯定感は自然と高まるんじゃね?」ってことです。


『好き』の鍛え方、追求の仕方は以下の記事に書きました。

エ口ゲとアニメを主ですが、そこは自分が好きなものに置き換えて読んでみてください。

【決定版】アニメ・エ口ゲをもっともっと好きにできる9つの方法 (4543文字)

まとめ

・お店にいって買う
・集中しやすい環境づくり
・集中が切れたら筋トレ(心拍数を上げる)
・集中する「スイッチ」をイメージ
・お酒を飲んで集中
・感想記事・呟きを書く
・作品を読解する
・誰かと話す
・日記(=意識のズレ)を意図的に起こし続ける


あと最近、エ口ゲを自分の「血」とし、「肉」にする方法を見つけたので、今度語ろうと思います。

これまた『エ口ゲが好き』を追求した結果だと思うので、面白い記事になりそうです!ええ多分!(自分でハードル上げてみます)

 

 

 

自分の自己肯定感がどれくらいか知る為には?


自分の自己肯定感が高いの低いのかは
次の質問にどう答えるかで決まってくるかなと思うんですが、どうでしょう。

つまり「あなたは自分のことが大好きですか?」と。


自分のことが好きでしょうか、それとも嫌いでしょうか? この返答によって、自分にある自己肯定感がどれくらいのものか判別できるかもしれません。


最後に自分語りして終わりたいと思います。(興味なければスキップ推奨です)



Q、本稿管理人は偉そうに自己肯定感語っていますが、どうなの高いの?


ちなみに私は先の質問「自分のことが大好きですか?」という問いに関して、そうですね好きですと答えられる人です。自分の歩んできた人生を過去を良しとできますし、今現在の自分も肯定できます。「ここにいていい」と思えますし、「生まれてこなければ」といった問いをしたことがありません。

つまり後悔たる後悔があんまりないのですね。反省することはいっぱいありますし、あの時ああすれば良かったな……と思ったり、たまに落ち込んで鬱々するときもありますが「過去に言ってやり直したい?」と聞かれたらいいえと答えます。(過去をロールしたい?と聞かれたらYESと答えちゃうあたり人間性出てると想いますねええ)

ただだからといって自信に溢れているかといえば、そんなことないですね。むしろ逆です。自信に欠けている人間です。勇気や自信をどっかに落っことしてしまったようなヤツで、新しい環境に放り込まれるとまごつく人間でもあります。一歩を踏み出すのが常に遅く、鈍重である。

さらに言えば、自分のすべてを曝け出せるかというとそうじゃない。もちろん他者との親密性によって、曝け出せる度合いは1ヒチ1人変わってきますが、だかたといって自分の内側にある全ての思想、価値観、好きなことをあっぴろげにできるかといわれたら出来ない。そういう意味では、自分のことを肯定できていない部分もまだまだいっぱいあるんでしょうね。。

だから自己診断、自己評価としての自分は、自己肯定感はけっして低くはない。けれど高いかどうかと言われるとそうではない。低くはないけれど高くもないそんな感じです。


ちなみにこの記事であげた「好きなことを追求する」ことを、私は一年間(2013/04/26から2014/04/16まで)続けてきたんですが、効果はあるんじゃないかなー?とは思っています。

『好き』という方法だけを純粋に効果測定できるわけじゃないし、私の主観でしか語れないんですけどね。

ただ一年前より確実に憎しみや恨みといった感情はなくなっていますし、今までめちゃくちゃ悩んでいた事が実はもう消え去っていたことに、今日気づいたり。

つまりこの記事を書くまで、一年前悩んでいた「他者に内蔵を曝け出す」ことや、「エントロピーの概念」が綺麗さっぱりなくなっていたのです。

この悩みは結構心がどろつくらいには思い悩んでいたんですけど、いつの間にか消失しちゃってて悲しくなる自分がいたり……いやなんでしょうね?ほんとはこの手の悩みは無いほうがいいに決まっています。でも、もうあの「体感覚」に行けないんだと思うと、寂しくなるわけで。

ちなみにエントロピーの概念とは、簡単にいうと

「ぶっちゃけ私達は幸せになれないじゃん? どこにもないそんなものを必死に探すなんて馬鹿げすぎ。私たちが感じている幸せっていうのは幸せではなく、ただ消費されるだけの一瞬の出来事でしかない。美味しいものを食べ続ければ、慣れて、美味しさが薄れていくだけの消費でしかないんだよ。わかる?永久につづく幸福なんてものはないってことを。なにそれ?それを求めるだけの生きているの?馬にぶらさがったニンジンを追いかけんの? 自転車操業みたいな人生いきつづけんのかよ馬鹿みたい」

参考:幸せってなんだろう? シュビラシステムによってもたらされたもの。


ってことです。今でもその考えは変わってないんですけど、今じゃ全然悩んでいないんですよね。変な体験すなー。


そういえば少し前に(4日前くらい?)にエニアグラムという自己診断を、久しぶりにしてみたんです。

一年前のエニアグラムの結果と比べると、すごくバランス良くなっていて、ははーんなるほどねー数字にも表れるものなのねーと1人納得している自分がいました。


・これ一年前で [タイプ4] ――10 [タイプ5・6・9] ――8 [タイプ7・2]――7 [タイプ8]――5 [タイプ1]――4 [タイプ3]――2

・これ4日前の [タイプ4・5・6・9]―8 [タイプ2]―6 [タイプ7]―5 [タイプ1]―5 [タイプ8]―3 [タイプ3]―2


個人的に注目した点は、「タイプ4」の点数度合いが一年前より下がっていること、そして4つのタイプ(4・5・6・9)が同じ点数であることです。(タイプ4は点数が高くなるほど意識が外界に向かなくなり閉鎖性を強めるので、あんまりよくはないよねと)

だから何って感じでもあり、エニアグラムじゃ人格の全てを推し量ることなんて出来ないんですけどね。それでも自分が感じてる心の状態が、数字として表れるのは面白いなーって思うのです。

確かに。一年前より精神、心象風景、内在世界はよりよくなっていることを実感できます。ただそれは一年前と今じゃ環境の変化、対人関係の変化も少なからず影響しているだろうし、全てを「好きを追求していたから」と持っていくことは出来ないことはわかります。さらにこれが自己肯定感が高まったから、心が安定しているのかも謎ですしね。

ただやって損はないかなーと個人的に思っています。(後付の結果しかないんですけどね)

てことでほんと推敲もしないだらだらっとした語りでした。この記事がちょびっとでも参考になれば嬉しいですね。ええきっと。たぶん。

それではまた。




<参考>

 

 

*1:例】母親の呪縛~自己肯定できない女達 そして私たちは、自己肯定感というタマネギを剥きながら生きる。薄れる私の自己肯定感、それでも自分なりに維持していく

*2:はてなキーワードによれば

*3:(もしかしたら彼はセックスドールという性処理人間が欲しいという明確な目的を持って、恋人が欲しいと愚痴っているのかもしれませんがそこはあえて考えないようにします)