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佐々木俊尚氏のWeb文芸【百年後の本】1~9ページを精読しました(13230文字)

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レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)

佐々木俊尚氏が執筆されているWeb文芸『百年後の本』について、言及させていただきます。とはいってもだらっとした思考の吐き出し記事ですが。

ちなみに「9連載目」文字と記憶術のお話は、もう最高でした! 文字と本による考え方が180度変わり、コペルニクス的転回ってこういうこと言うんだなーと興奮の嵐。

今年読んだWeb記事の中で、私的に一番といっても過言じゃありません。

100年後の「本」|集英社 WEB文芸 9連載目


ということで、精読していきます!笑



ギャルゲーを構造化し検索可能な状態にしてみたら

"EPUBのように自己完結的にパッケージにくるまれている電子本を、外部からAPI経由でページ情報、文字テキスト、目次、画像、表などにアクセスできるようにする。これによって書籍は構造化され、ウェブ化していく。"


これを「ノベルゲーム」で考えよう。

ノベルという確固としたパッケージ。その中身にある言葉、音楽、絵がすべて構造化し「検索可能」になった未来。このことがユーザーに先進的な体感が訪れるんだろうか?

Aノベル、Bノベル、Cノベルのコンテンツ全てが横断可能に構造化し、ワンフレーズを検索することで目的の「映像、言葉、音楽」が手元に呼び寄せられる。ふと思ったのがこれは「MAD動画」にちかい性質を持っているんじゃないかってこと。多重想起化。 しかし使い道は……。んーんーなんだろうなあ思いつかない。

本は知識が蓄えられているものだから、参照するために言葉を検索できるというのは有り難みがある。しかしノベルは「体験」するものだからか、あまり有り難みを感じられない。

一部の人間(私とか)は、ノベルの言葉を参照することが出来ればそれはもうありがたい。フレーズで思いつかないところを「だいたいあの場面」で絞りこめることも可能ならば、グッドである。

とはいってもやっぱり「頭の中」にノベルをいれたほうが、使いやすさ抜群なんでしょうね。

話し変わるんですけど、ノベルのUX(=体験)は近いうちに刷新されるのは目に見えているので、はやくその未来に到達してほしい!!ほんと!ほんとさ!

次世代ゲーム機Oculus Rift』によって、あるいはその同列の機器によって実現しますよ!

 

暁の護衛 トリニティ(通常版)

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ニコニコ動画活弁

"元作品がクソゲー戸山ケ原で花火を使って撮られたインチキ映画であっても、優秀なゲーム実況者や活弁は、駄作という一次コンテンツをうまく活用して秀逸な二次コンテンツを創作してしまうのだ。 " 


ニコニコ動画活弁は同種のものとのこと。

一次コンテンツを、実況者によって変質させ、実況者自身をコンテンツとしての「主」とする。それによって一次コンテンツは「従」となり主従関係が逆転する。MAD動画然り。

これらの行為は、「面白くする」という視点ならありありなんだけど、「素材そのもの」という視点にたった場合相克してしまうよね。

つまり一次コンテンツを重要視している人にとっては、面白いかどうかは関係なく実況者(活弁者)によってコンテンツを「変質」させられることに違和感を覚えてしまうんだろうなと。

料理に例えれば分かりやすくなるのだろうか。プレイ動画、あるいは映画そのものが出来上がった素材だとする。実況者や活弁者がマヨネーズとかケチャップといった調味料。 くそまずい素材料理だった場合、調味料(伝家の宝刀・カレー粉など)使うことで「まし」にすることができる。

あるいは実況者の腕が良ければ良いほど、とても美味しい料理がもっと美味しい料理にすることだって出来る。

しかしその素材料理そのものが優れて居た場合、そういった調味料は「邪道」になってしまう。刺し身に醤油をつけるのを嫌ったり、唐揚げにレモン汁をかけるのを拒むみたいなねそんな感じ。


 考え続けることで生まれるものとは?

しかしこうしたすぐれたイスラムの学問は、その後のヨーロッパの近代科学の域には到達しなかった。

科学的な研究手法が確立しなかったからだ。なぜならまず仮説を立て、実験をして仮説をたしかめ、その繰り返しで知識を増やしていくというアプローチが構築されなかったからだ。イスラム学者にとっては、科学はあくまでも思索をめぐらすことによってのみ生み出されるものだったのである

――百年後の本2(印刷革命は何が革命的なのか)


このイスラム学者たちがやっていることは、なんなんなのだろう。知識は口伝から本などで得たあと、それをひたすら暗記し、頭の中で考えつづけるこれは。

得た知識を構造化し、有機的に結合可能な状態が脳内で広がっていたとする。組み合わたり、分解したりまた組み合わせたりして、今まで考えもつかなかった発想に辿り着こう。それがこの「思索だけを巡らせる」ことだったんだろうか?

私の今の認識ではトライアルアンドエラーをしないってことが不思議で仕方ないが、ここはなにか思想背景が隠されているんだろうなちう気もする。 


 印刷革命

ルネサンスによって再発見された文献は、そのままでは単なる写本にすぎなかった。

写本は言ってみれば、アーカイブされたデッドストックである。工芸品としては無類の美しさをもつけれども、コピーをつくるのは非常にたいへんで、焼失や水没などで数少ないコピーがすべて失われてしまう危険も大きい。

コピーが少ないためだれもが読めるわけではなく、このため文献の知は多くの人には共有されなかった。

この写本の閉鎖性は、文献が修道院からホコリをはたいて引っ張り出され、ルネサンスの盛り上がりの中で知識人の間に共有されるようになっても、本質的には変化していなかった。 

 
本が無い、本が少数のものにしか共有されない世界っていうのが新鮮に感じられ、かつ恐怖を覚える。

本を読めないということはすなわち、経験でしか物事を計れなくなってしまうからだ。

しかし本があることで、その経験は拡張化されていく。自分が見たことがない聞いたことがないものでも受け入れやすくなったり、またその事象に対する活用方法なども生み出せる可能性も高まる。

歴史書などは自分の経験時間を横に広げてくれるものだし、物語は想像力を格段に上げてくれる。自分の経験を絶対視したり、想像力が貧しい人間を「野蛮」と言うんじゃないだろうか。ふとそう思った。

また、それ以前には「古典の復活」といってもごく限定的な文献に限られていたのが、印刷によってさまざまな古代の遺産をすべて復活させ、文書としてオープンにしていこうという展開へとつながっていく。

 
知のオープン化によって、大衆の知能指数がめちゃくちゃあがったんじゃないだろうか。

つまりは印刷によって、知の全体を俯瞰的に見通せるような理性的な目を持つことができるようになったということなのだ。 




 知識の構造化と再構成

もともとは民族伝承だったと言われるホメーロスの「オデュッセイアー」「イリーアス」は、

語り手たちが多様なストーリーや場面に対応する決まり文句を習得しておくことによって、物語を的確かつ迅速にその場で構成することができたと言われている。
つまり物語を丸暗記するのではなくて、決まり文句を駆使して口頭で構成していくという方法を採ったということだ。これは「どこかで聞いたようなエピソード」「どこかにいるような高校生」「どこかにあるようなシチュエーション」といったモジュールをつなぎ合わせ、その場その場でアドホックな物語をつむいでいくケータイ小説と構造的にはつながっているといえる。

――100年後の「本」3(横滑りするコンテンツ)


物語すべてを覚えて、それを伝えていくのではなく、分解されたモジュール同士をつなげ合わせ即興で物語を展開していく…。ふむふむ。

これは子どもに適当に物語を紡いでいくのと似ているかもしれない。適当にその場その場で物語を展開する、もちろん面白いように練り込んだものではなく、即興的に作り上げた物語。

それでおそらく、技術があるものが行えば、面白い話しに生まれ変わるんだろうね。

これはいわゆる「王道」とよばれる話しが出来上がる技術かもしれないなと感じた。なぜならどの物語でも機能する決まり文句とは、普遍的でしかも聞き手に分かりやすいものじゃないといけないから。

 *
そういえばケータイ小説は、どうしちゃったのだろう。もう消えてしまったのかな? それとも私が観測していないだけで盛り上がっていたりするだろうか?

恋空を読んだことがないので、一度ちゃんと触れたほうがいいのかなとも。

 

恋空―切ナイ恋物語 スペシャル・バージョン〈上〉 (魔法のiらんど文庫)

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書物は知識の容器にすぎない

 

"もともと書物というものの発生を考えてみれば、それは単なる「知のアーカイブ」でしかなかった。「知」というコンテンツそのものではなく、知のコンテンツを保存しておくための容器として考えられていたのだ。"

 




書き文字によって集合無意識から自己内面へ

口承から「書き文字」に移り、書かれた書籍が登場したことで、書き手は自分たちの集合的無意識を体現するのではなく、自分の内面を描くという方向に変わった。

「話す」文化は相手がいなければ成立しないが、 「書く」文化は自分との対話であり、内面を取り出す作業だったからだ。そうやって書くことの内面化が自己意識を増幅させ、それが近代を生み出したともいえるのだ。



口で伝える知は、集合無意識みたいなものだったとのこと。(この集合"的"無意識とはなんだろ?)

集合無意識って全人類の、無意識化にある思考の澱みたいなやつだよね確か。animaとかAnimusとかトリックスターとかああいうやつ。

神話的概念や、宗教的思想とかそういうのだった気がする。普遍的な(=多くの人間が体験する【なにか】みたいなね)。しかし私はここいまいち分かってないので適当だったり。

たぶんここで言っている「口承で再現される集合的無意識」とは、いわゆる王道的物語・あるいは神話・宗教物語を民衆に伝えていたと推測する。より普遍的に、より多くの人間に受け入れられる物語を紡いでたんじゃないのかなと思うのだ。

書く文化が自分の内面を描き出し、己の奥底に深く深くもぐる行為だというのはよく分かる。(=心海のような闇であり光ある領域)

それゆえに人は、自我を活発かさせより大きく発達させていったのだろう。私は現代の人間の自我は強く、今よりもっと昔の原始の時代の人間は自我が弱かったと思っている。もっともっと獣のような存在だったんじゃないのかなと感じるのだ。

本は太古、口伝えで伝達される口承だった。

それが書き文字に移り、記録されるようになった。そして書き文字の本を読み、読み手と聴き手が一体化した朗誦の時代が12世紀に終わり、本は黙読の時代に移る。

これによって本は神の言葉や人々の集合的無意識の体現ではなく、書き手が自分の内面を描くというパラダイム転換を招く。読み手の側も、単に神の言葉を伝えてもらうのではなく、

本の論理構造を読み解き、自分の思考を深めていくための材料として本を利用するようになる。

朗誦の時代は神の時代だった。しかし黙読は自分との対話であり、内面を取り出す作業だった。そうやって読むことの内面化が自己意識を増幅させ、それが西欧における近代を生み出したということなのだろう。







 知識の構造化と検索可能な状態にしておくこと。そこから全てがはじまる

イスラームでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、その場でディクテーションで教えてやる」

 ディクテーションというのは書き取りのことだ。つまり本の内容を口頭でしゃべるから、それを書き取ればいいというのである。

実際、井筒がアラビア文法学の聖書といわれている『シーバワイヒの書』という1000ページもあるような本を習いたいと申し出たところ、先生はその内容だけでなく、その本の注釈書までをもすべて暗記していて、さらにそれに自分の意見も加えて口頭で教えてくれたのだった。

――百年後の本4(静的な「蔵書」から、動的な「蔵書」へ)



この先生は本当にすごい。そしてこの人の存在が、あるいはWeb文芸記事によって私はなにか手応えを得た。


そうだ次はこれだ!と。

知識を脳内で構造化し、検索可能な状態にする。ここがスタート地点だ。そこから何が生まれるかというと、知識の創発に至るんじゃないのかと考える。


つまり、無数の知識が有機的に結束可能な状態にあるときにこそ、さらなる『知』が生成されるということだ。ある知識と知識がぶつかりあい、今まで考えもつかなかった事を思考できるようになったり出来るようになる。

少なからずそういう体験をしたことはある人はいると思う。私も程度ながらしたことはある。そしてその体験を踏まえて、より意識的にその思考の"発火"を起こすことに力を注いでいくのも一興だと思うのだ。というかめちゃくちゃ楽しそう!!いやっほううう!!

病床に伏せった井筒を見舞いに来てくれたこともあった。部屋に上がってもらうと、先生は「おまえ、ずいぶん本を持っているな。この本、どうするんだ」と訊く。井筒は「もちろん、これで勉強する」と答えた。

「火事になったらどうする?」

「火事で全部焼けちゃったらお手上げで、自分はしばらく勉強できない」

 するとムーサー先生は呵々大笑した。

「なんという情けない。火事になったら勉強できないような学者なのか」

 別の時に、先生はこういうことも訊いた。「おまえ、旅行するときはどうして勉強するんだ」

「必要な本を持っていって読むんだ」

「おまえみたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない



ムーサー先生が言っていることはよく分かる。本という外部容器に頼らなくなればなるほど、自分の中でどんどん『知』が生まれてくるのだろう。そこを私は目指したい。

本は、蔵書しているだけでは意味はない。そこから知識を引き出し、自分なりの価値を加え、新たな知見へと再構成されていかなければならない。蔵書というのは参照されるべき知識の泉であり、そこから湧いて出る水を飲まなければ、何の価値もないということだ。

 だから理想の蔵書は、ムーサー先生のようにすべて頭の中に入っている状態ということになる。自分の意見を組み立てようと思考をめぐらせる時に、頭の中の蔵書であればすぐに検索され引き出され、思考の中に組み込んでいくことができる。つまり書籍が構造化されたデータベースとして脳内に保存され、それが神経パルスの速度で検索可能な状態になっているということだ。

 

「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。

いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それを他のさまざまの知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである」



今までのWeb文芸の主張を踏まえて、私なりに『知』の生成方法を箇条書きしてみる

・『知』を得ようとするならば本を読むのではなく、暗記するべきなのだ。

・暗記すべき項目は少なくてもいい。ただやるなる暗記の純度を高めよ。

・脳内で知識を構造化し、検索可能な状態に出来ているからこそそこから創発的段階を踏める。つまり知識の有機的な繋がりによって、神経パルスが発火し、『知』が生成されていく

・その"発火"を引き起こす行為こそが、「アウトプット」と呼ばれるものだ。ここでいうアウトプットとは、ある一つの事柄を考えて考えて自分の意見を出す行為である。

・『知』とは新たな思考領域へシフトすることだと私は考える。


つまり『知』という次なる思考領域にシフトするためには、必死になって何かを『考え』なければならない。しかし考えるだけでは不適当で、前提として脳内に構造化され検索可能な知識がなくてはならないということだ。

もぐもぐと口におさめる知恵

 

"あなたは食物を反芻する正真正銘の動物になりきらなくてはなりません。

そうすれば書かれたものは、『知恵ある者の口の中に、好ましい財宝がとどまる』(『箴言』二一、二一)という状態になることでしょう」

その言葉の甘美さを楽しみなさい。私はそれをくり返し、くり返し噛むのです。すると私の体中の器官は新しい力を得て、腹は満ち足り、全身の骨が賞賛の叫びを上げるのです。"

――百年後の本5(場としての読書)



いい言葉だね。 まだ私には実感が伴わないものでもあるのだけれど。

ただ言えるのは、自分が好きな言葉を何度も何度も、なんどもなんども口にすることで、心を込めながら呟くことで見えてくるものがあるんじゃないのかということ。




 本当の『知』

王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。

 

 ところがタモスは、このことばを咎めた。

 

 たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。

いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。

なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。

それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。



つまり、「文字」は記憶を呼び起こすための引き金でしかないということ。

そしてソクラテスは、本当のことばのありかたについてこう語る。

 

 それはほかでもない、
ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケー(佐々木注:対話、あるいは対話によって弁証法的に昇華すること)の技術を用いながら、

その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。

その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新なる心の中に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである。



すごく分かり難い引用なので、意訳してみる。

 *
人が相手の中にふさわしい魂を得て、対話技術を用いたとき、その相手の中にある魂に知識と言葉を蒔き、植え付けることが「本当のことばの在処」だ。

この言葉は自分も相手も助ける力を持っている。そしてこの魂の中に蒔かれた種子(言葉)は枯れたり徒花となることはなく、一つの種子(=言葉)からまた新たな言葉が生まれ育ち続ける。

この魂の中にある言葉は不滅である。そしてこのような言葉を身につけている物は、人間としての最大の幸福を、『魂の中にある言葉』によって勝ち得るのである。


うん大体分かった。ただ「ふさわしい魂」と「その魂を相手に得」という部分がよく分からない。

自分の言葉が相手に魂のなかに種子となって残るという意味合いは納得できるし、それが腐ることなくずーっと残留し、ふとしたときに芽生え育ち花を咲かせる感覚も私は出来る。
けれど…けれどふさわしい魂ってなによ? なんでそれが相手の中ニなきゃだめなのよ?ッて感じです。


 世界を得るのなら、世界と対話し考えなくてはならない

 

本当の知は人間の頭の中にあって、本はその写し絵にすぎない。本を読んでも、その著者の世界観を得ることにはならない。著者の世界観をわが物にするためには、著者との対話がどうしても必要であり、対話によって著者と読者である自分のあいだに知のぶつかりあいが生じ、そのぶつかりあいが昇華してあらたな知の高みへとつながっていく



これ完全に読解モジュールの話ですよね。ある物語を必死でかんがえて考えて読みといてを繰り返すことで、確実に自分の血肉になる。考えの深度が深くなり、今まで曖昧だった風景がすこしづつ鮮明になっていくと私は思うのです。

私がここで言っている『対話』とは、「話す」ことではなく、双方向性のコミュニケーションをなんとか成立させる行為です。世界と対話するってことは、その世界についてよく知りよく学びよく考えることです。

世界に口はなく、言語はなく、声帯などない。だから自分が必死になって手を突っ込みつ続けるしかないと思うのだ。


 価値ある記憶とは、正確さではなく

彼らにとって価値がある記憶とは、客観的な正確さではなく、むしろ完成度の高さや内容の豊かさだった。

つまり原典を一字一句覚えておくことではなく、その原典からどのように知識を引き出し、自分のものとするかということの方が重視されたのだ。



自分のものと出来るのなら、原典の正確さはさして重要ではない。これは分かるんですけど、すらすら淀みなく言いたいんですよー!かっこいいじゃないですか!(バチコーン)

私の場合は、自分の血肉になった言葉は「イメージ/画像」とセットになって現れるのでそんな感じでいいのかなーなんて思っています。ただイメージによる言葉なので、やっぱりというか正確な言葉は思い出せないんですよね。


本質的な意味だけは引き出せるみたいな。それはそれでいいと言及記事は語るのですが、やっぱりきっちり覚えてすらすら言えるように頑張ろ。


本を読むことと、本を血肉にすることはまた別のお話

本を読むという行為は、別の知性との出会いにほかならない。だから書物をありのままに理解するのではなく、昔からの知恵の泉を利用するように、自分の人生に本を利用していく。

いっぽうで読書の成果を記憶の奥深くに秘め、実践によってそれに馴染み、飼い慣らして、自分自身のものにしてしまうのが瞑想だという。瞑想によって他人の著作を自分のことばにしてしまい、改変も厭わない。原典を学び、記憶の中で追体験してそれを消化し、解釈するだけでなく、新たなふたりめの著者になってしまうような読み方が中世の知識人のあいだでは一般的に行われていたのだ。



なんども繰り返されている話題ですが、何度でも言及したくなるとても良い知見。

私のイメージだと、言葉というより、その『世界』が自分の心象風景の一部となり糧となっていく感じでしょうか。大好きな世界の粒子ひとつひとつが空となり風となり大地となり星となる―――うんうん。


"他人の著作を自分のことばにしてしまい、改変も厭わない。"


暗記することが大事ではなく、暗記した結果、その言葉を自分のものにすることが大切なのねふむふむ。となるともうそれは成功している気もしますが、暗記することで自分の世界に出来る密度がより厚くなっていくかもしれませんので、暗記集中したいです。

過去の膨大な知を整理して並べ、それらを体系化する。これはすなわち、本連載の第1回で書いた「知の構造化」にほかならない。

さらにそうやって構造化された知は、印刷物流によってオープンになり、多くの人の手で共有されていく。この15世紀から16世紀にかけて起きた「構造化」と「オープン化」という二つの流れは、まさに21世紀になってインターネットが引き起こした流れと見事に重なっている。

 にゃるほどーです。


世界と一体化する感覚

この時代に聖書を読むという行為は、儀式でもあった。
読む人もそれを聴く人も、読む人が発する音の前に平等だった。全員が、聖書の声の空間の中に取り込まれて、そこはひとつの「場」と化していた。

これはまさに、ジル・ボルト・テイラー脳卒中の際に経験した感覚である。自分が世界とシームレスにつながり、世界と一体化しているという感覚だ

しかし黙読が発明されたことで、この状況はがらりと変わる。読書は、読み手と聴き手すべてが参加して神の声を全身で聴く「場」ではなくなる。

そのかわりに、読書は思考を深め、抽象的な概念を考えるための手助けとなるものになっていく。
書物は朗誦されるものではなくなり、歌と一体化したものではなく、全体が緻密に編集され、ロジックで構成されたひとつの構造体へと変化していく。

 
世界と一体化する感覚かー…。ジル・ボルト・テイラー氏が感じた「自分が原子へと成り代わる」感覚っていうのは、体験してみたいよなー…。ここらへんトランス状態とか、天啓を得た時、瞑想のある境地にいたったときと全部同じものだと思っている。

身体感覚が鋭くなったり、あるいは向上した、あるいは機能不全、自我が薄くなった場合に引き起こされる感覚が「世界と自分の一体化」だと。

しかしその方法はあるんだろうか?…

あると仮定する。というかあってほしいというのが私の願いだ。順当に考えれば、「瞑想」がまず手っ取り早いだろうか? 準備もツールもいらない、ただやり方さえ分かっていればいい。後は続けることだけだ。 

始めよう。瞑想―15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)

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 継続化がいちばんむずかしいんだけどねー。でも瞑想は心の調子を整えてくれますし、なによりあの体感覚は気持ちいいので、「時間」さえどうにかして作ってあげられれば…。やるぞー!


テクストという概念 

 

 この変化は、本を「読む」ということの意味を大きく変えた。イリイチは書いている。

「神学および哲学の本は、〈物語〉を再現する手段ではなく、〈思考〉、すなわち思考構造を実現する手段となる。この〈思考〉は、何よりもまず出来事の語られた記憶ではない。それは考え抜かれた理性の概略である」。

皆で物語を共有するためではなく、ひとりの読者という個人が思考するためのツールに変化したのである。

 そして本は、本の中に描かれるひとつの「世界観」を文字で映し出すものになる。本そのものが世界観なのではなく、世界観はどこかの空中に浮かんでいる抽象的な存在で、本はそれを文字で表現したものになるということだ。これはわかりにくい概念かもしれないが、本の書き手ならだれでも直観的に理解できるはずだ。



分かるよすごくよく分かる。テクストってそういう意味だったのかーって今やっと納得しました。

この記事を書いたとき、コメントで「テクスト論思い出した」と言われたのでああそういうことかと。

テクストとは、書かれいる文字、パッケージングされた物質的な本ではなく____人間が目に見ることが出来ない、もうお一段階上位の概念にある『世界』をテクストというのでしょう。

世界を概念と読み替えてもいいと思います。テクストは私的に言うと、「イデア」かな?

イデアとは

プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。   
――イデア - Wikipedia


 ね、そんな感じしますよね。


このシンボリックな天空に浮いている概念に、イリイチは「テクスト」ということばをあてている。

「十二世紀末までに、書物はわれわれの時代に引き継がれている象徴的意味を帯びるようになる。書物は、先例のないある種のものの象徴となる。その文字に表わされているが、触れることのできない存在を、私は〈本の形をしたテクスト〉と呼ぶことにしよう


うんやっぱりイデアでいい気がするな。

 

 書物は、語の根付いている大地であるという性格を失った。

この新しいテクストは、書物のページから作りごとが浮き上がって、独立した存在となったものである。

この新しい本の形をしたテクストは、間違いなく物質的存在ではあるが、それは普通の存在ではない。それは〈文字どおり〉ここにもなく、そこにもなく、どこにもない存在である。ただその影だけが、唯一、形あるあの本、この本の中に現われるのである



 つまり本を引き金として、私たちの心の中に具象化するのがテクストってことですかね。

 時間の無限直線と、円環について

 

そして古代ギリシャでは時間は反復ではなく円環に閉じていると捉えられるようになり、一方ユダヤ社会では、一神教の神が創造し、いずれ終末を迎えるという区分された直線として見られるようになった。

ヨーロッパ近代社会はこのユダヤの時間感覚から神による創造と終末という概念を取り除き、時間を無限の直線として認識するようになったということだ

――百年後の本7(永続する瞬間)



確かヨーロッパの考え方が、現代に強く反映されているんでしたっけ。「国民」「国家」という概念から、時計の中心地など。

そして「時間を無限の直線」と見るという、現代でも今まさに当たり前のように適用されている時間概念すらもヨーロッパからだと。

もし時間への認識が、ギリシャあるいは東洋のように「円環」だとしたら、私の時間にたいする考え方はどうなっていたんだろう?

時間を直線にしてしまうと、大事なものをぼろぼろと失っている気がしてしょうがないのだ。円環というのはすなわち「同じことが繰り返される」ということの意だろうか。

つまり悪いことも良いことも、経験してきたことも、いつかは必ず一回りして巡ってくるんじゃないだろうか。ぐるぐるまわーる。

今を見続ける認識。そこには未来も過去もない

 

明日を信じないという時間感覚の世界へと社会は突入していこうとしている。 

そういう世界で生きていくため、明日を信じるのではなく、「今」の意味を解明し、「今」の意味を問い、その上で「今」を楽しみたいという方向へとわれわれの無意識は舵を切ろうとしているのかもしれない

 

先行きの見えない社会の中で、将来を考えるとつらく厳しい気持ちに立たされる。しかしそこで不安を抱いて考え込んでいても仕方ない。とりあえず今を楽しみ、その中でひょっとしたら自分が今ここにいることの意味が見えてくるかもしれない。そういう心持ちが人々の中に芽生えてきているのだ



この【今】という概念を、最近おっかけています。ここに良いヒントありそうなんですよねー。「良い」っていうのは私自身の為になりそうなとか、もう一段階上の思考領域へと行けそうなそんな意味です。

 
「百年後の本」では、今現在の社会は「今」に注目しているそうです。昔は山頂を目指すスポーツが流行っていたのにたいし、現在では山道という到達すべき場所がないただただ歩くだけのスポーツが流行っているんだとか。

なるほどねーと思いました。未来とか過去っていうのは所詮、「ない」ものですから。「ある」のは今だけです、【今】自分が見ていることと考えていることだけです。

その数秒の【今】から過去が再構成されているだけにすぎません。そしてその【今】によって起こりえるであろう未来も予測されているだけにすぎません。全部まやかしです、幻です。だって唯一存在して体験しているのは

―――今だけなのですから。


ここは煮詰めます。


音楽のライフスタイル

 

"「もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった」"

いま進んでいるのは楽曲を歴史的な体系の中に位置づけて聴くのではなく、いま現在のコンテキストと融合して楽曲が聴かれるというスタイルである。 歴史の中の位置づけから、いままさにある現在の中の位置づけへ。 体系から、コンテキストへ。 

 

音楽を「体系的」に考えず、「今」その瞬間のメロディだけに浸っている私の状況はまさにこれなんだろうなと思います。

音楽に限らず、その他の趣味ギャルゲやアニメなんかも「歴史的」に、時間軸上的に、体系的に見ることが少ないですね。むしろほとんど無いといっても言いと思う。 

確かに。横の軸として物事をとらえることは視野を広げてくれるものでしょう。でもなんかなー……自分の好きな範囲のものだけは線ではなく「点」として観るほうが面白いんですよね。

何かを比較して、歴史的にどこの位置かに作品を置くか? そういうふう見方をすると見落としてしまうことがいっぱいでるので、作品と接する方法と考えるとあんまり採用したくないですね。

アニメをアニメとして、エ口ゲをエ口ゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない

 

 

近接性と偶然性によってもたらされる体験

 

「神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を『近接性』と『偶然性』のもとで与えてくれるのだ

 

そうか偶然性とは『運命』という言葉に出来るのか。 『天啓』(=に近い体験)を得られることと、『運命』を感じられることが、この神が死んだ世界で生きる動機を確保できると! 

しびれるねー?

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

 

 いやでもこれは私も思うよ。同意見です。

天啓っていうのは自分に分かりやすい言葉にすると、「一回生の塊」をぶつけられるようなものなんだろう。 そりゃね?そりゃあビビッドきちゃうと思うよ。さらにそこで『運命』でしょ?運命くれるんでしょ?神さまに惚れちゃうのよさ

 

 

 

おわり




<参考>