猫箱ただひとつ

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人殺しに生理的拒絶がともなうなら、なぜ「殺人」が起きるのか? 倫理的価値観と自己拡大化の影響について(2030文字)

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空の境界(中) (講談社文庫)


印象論ですが、現代の文化的教育を受けた人は「他者を害す」ことに、生理的拒絶感を伴うものと思います。


人を物のように奴隷のように無機物のように扱ったり、理由もなく殴ったり蹴ったりできない、また理由があっても他者を害することになんらかの精神的負担を感じるもののことです。


その国の教育、環境、倫理観(=大衆の総意による価値観)によって個人の踏み入ることができないラインが確立されていくと私は思っています。

物事を論理的に積み上げていって「良い」「悪い」という価値観で判断することなく、「……ムリだよ無理無理」と心が否応もなく拒絶してしまうラインの向こう側のこと。



私だったら、背中にコルセットを縫い付けるこれとかですね。

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背中にコルセットを縫い付けることが、良いか悪いか役立つか利益を伴うかとかそんなことを考える前に、「……直視に耐えられない」と目を瞑ってしまいます。心が拒絶している状態です。背中の肉と肉に"縫い付けられ"ている感覚というのが、リアルに感じてしまって心臓がぎゅーっとなってしまいます。

他にも、全身の刺青、毛虫や蜘蛛、Gの類もダメです。心が拒絶してしまって、存在を受け入れられません。


そして、物語上での「殺人」も時として、「ムリ!」といって投げ出してしまうことがあります。心が掻きむしられ、肺腑に異物が詰まるような息苦しさを覚えたり。また目がぱっと開く感覚というんですかね……そういった理屈ではない、生理的な拒絶感


例え、物語の出来事だとはしても、許容が難しい出来事がある。ならば、私は自分が育んできた倫理的価値観によって、現実でも「殺人を犯すことが難しい」と考えます。

現実でも、相手を殺す(=害す)ことに、臆病になり、そもそもそんなことをしたくないと想像します。


しかし、殺人を犯すことに、息苦しさを覚え、生理的拒絶感に苛まれても、「やって」しまうことがあるかもしれない。絶対に無いとは言い切れない。可能性としてはあります


そして考えるのですね。

「わりと強いルール(=自分の倫理的価値観)」によって、人を殺すことを阻害している状態にも関わらず、起こしてしまう場合があるとしたら、それは一体どういう状況なのか?


HUNTER X HUNTER32 (ジャンプコミックス)

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他者を害すことが難しくなっている要因の1つに、「自己の拡大化」だと私は考えています。根拠とかないんでただの想像ですが、今現在の教育は、「自分の気持ちになって他者を考えろ」というものが主軸です。

本質的に異物である他者(=たとえ人間だとしても)を、「自分と同じように扱う」という価値観を育ませていると。


この「自己の拡大化」の延長線上に、犬や猫といった他種族までも「自分と同じように扱う」ようになっている。人に守られるべき領分・人権が出来上がったように、動物愛護法も動物を「人と同じように扱うようにしよう」と出来た例だと思います。


もし、犬や猫を「自分と同じように」見ることがなくなれば、殺してバラして食べることを躊躇わないでしょう。どっかの国ではむしゃむしゃ食べていると聞きます。(中国だっけ?)そこの国では、犬猫を自分と同じように見えない。食べ物にしか見えないというだということも言えます。

アリを殺すように、魚を焼くように。じゃがいもに刃を差し入れることに躊躇いなんてありません。だって「自分」じゃないのですから


この「自己の拡大化」が進めば、機械や人形にたいしても「人権」と呼べるものが出来上がってくるかもしれません。

鉄腕アトム(1) (手塚治虫文庫全集)

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そして、このことが「人を殺せない倫理的価値観を持ちながらも、殺人を犯してしまうことがある」という状況を考えるのに役立ちます。


「人を殺せない倫理的価値観」というのは、「自己の拡大化」の影響下に、ある他者が入っている状態と言えます。他者を自分と同じように扱うからこそ「害す」ことが難しい。他人を殴ることは、自分を殴るにも似た覚悟が必要になるということです。

ならば、その「自己の拡大化」の影響が "可変" するのなら、「人を殺せない倫理的価値観」を持っていても他者を殺してしまうことがある、という説明ができるかもしれません。


今まで「自己の拡大化」の影響にあった他者が、なんらかの事情により、その範囲から漏れてしまった。怒りや悲しみという感情をきっかけに、ある他者が、人間だった存在がモノへと移行してしまった。モノならば大丈夫、ざくざくばらせるね、ってことでしょう。


ええたぶん。


まとめ

  • 生理的拒絶感は、教育・環境・倫理観(=大衆の総意による価値観)によって育まれていく(と私は思っている)

  • 生理的拒絶感に「良い」「悪い」はない。ただある物事を許容できない状態。

  • 「自己の拡大化」によって、「自分と同じように扱う」存在が増えてきた。

  • 「自己の拡大化」による "可変" によって、人を殺すことに生理的拒絶があっても、殺人を犯してしまう状況になってしまう(かもしれない)




おわり

ということで、さいきんぐにゃぐにゃと考えていた事を吐き出してみました。

では、またね


<参考>