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話しの前提に「人それぞれ」があるなら、結論に「人ぞれぞれ」を持ってきてもいいのよ (3380文字)

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Twitterで呟いていたのを記事に残しておこうと思います。

 

 

 

 

前提として

まずこの記事の前提として、「話し合い」とは以下のことを指します。 


・個人の考え、思想、信念、信条、好きなこと嫌いなこと。 


ようは、会社は組織内で「1つの結論」に持っていく為の議論ではなく、「1つに決めなくていい」 ”はず" の話し合いのことを指しています。 

 

 

 

話し合いの前提に「人それぞれ」があるなら、結論にも「人ぞれぞれ」を持ってきていいのよ

 

 

 

「人それぞれ」って言うな


この記事を読みました。

 

上述したこの記事は、「前提に人それぞれが入っているの当たり前なんだから結論に人それぞれと結ぶな」というものとして読みました。

でもなんだかおかしくないかな? って思うんですよね。



前提に「人それぞれ」を入れているのなら、結論が「人それぞれ」になるのは当たり前では? と。それも「考え方、信条、好悪」の部類ならなおさらです。

 

”今、問題にしているのは、私とあなたたちとで進行していた議論についてである。この日記を読んでいる人たちには関係のないことになってしまうので、皆さんは内容を身近なことに置き換えてください。

職場での議論だとか、夫婦間の議論だとか、親族会議とか、町内会とか、PTA会議とか、10代しゃべり場とか、学級会とか何でもいいので。ネットバトルでもいいか。"


とのことなので、ここでは「個人の考え方、信条、好悪」のみの話し合いで考えていきたいと思います。

 

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例えば、『魔法少女まどか☆マギカ』の好きなキャラクターについて2人が話し合っているとします。Aさんは「まどかが好き」で、Bさんは「まどかが嫌い」の両者が、なぜ好きなのか? 何故嫌いなのか? を話しているという状況です。

Aさんはまどかが好きな理由、また好きになった事実を積み上げていきます。逆にBさんはまどかが嫌いなワケ、嫌いになった事実を積み上げて話します。

「笑顔がチャーミンだよ!」とか、「やさしい心の在り方をしている」とか、「いつも受動的な態度が許せない」とか、「へらへらしやがって」とかとか。そういった好きと嫌いの理由を、言葉で交わしてきます。


当然(?)最後まで、二人は自分の主張を譲らないんですが、このとき、「結論」として「人ぞれぞれ」で締めていいんです


Aさんはまどかは好きでいいし、Bさんはまどかが嫌いでもいい。とそんなふうに。

 

 

 

 

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例えば、「映画を ”映画館" で10回見るのと、 ”家" でDVD100回みるのがどちらが良いか?」という話し合い。

私はもちろん、「DVD100回を家で見るのが良い」と主張しますが、反対に「映画10回のほうが良い」と主張してくる人も当然います。 

私の主張理由としては、映画館の音が汚すぎる(&爆音)、チケット代が高い、マナーの3点から、「家で見るDVD100回」のほうが好きなんですよね。家のほうが居心地がいいのです。

参考記事:わたしが「映画館」を嫌いな3つの理由(1246文字)



しかし反対主張としては、こんな理由があるかもしれません。映画館の音が好き、独特の閉鎖空間が好き、大きな画面が素晴らしいなど。

そして、どれだけ話し合ってもお互いの意見は平行線を辿るとします。お互いの主張理由に「受け入れられない」ものがありますから。(映画館の音が好き/嫌いなど)

となると結論としては「私は家で見るDVD100回のほうが良いけど、反対主張の方は映画館で10回みるほうが良い」という

人それぞれ"

で、この話は締めることになると思います。



もし結論で「人それぞれ」で締めることができないのであれば、どちらがより「優れて」いるか? どちらがより○○で妥当か? という方向になり、「1つの優秀な意見」として収束していってしまうんですね。

(○○は、社会とか倫理とかある限定的な枠内のことを入れてみてください)


けど多様な主張を「1つ」にしてしまうのって、「人それぞれ」ということを許容していないんですよ。これの方向性としては、「あなたの意見は(私にとって)妥当じゃない」「(私にとって)優れていない」というものだと思います。

つまり、「個人の考え、思想、信念、信条、好きなこと嫌いなこと」の枠内で、いろいろ話し合いそれでも平行してしまった2つの主張を「人それぞれ」として結論を結べないというのは、

 

そもそも前提に「人それぞれ」なんて、無いんです。もしあるのならば、最終的な結論としては、「あなたとわたしの主張は違う。でもまいっか」となると思うんです。



自分と相手が「違う」ものと分かっているのなら、受け入れられない意見だってありますし、それが例え「確定事実の積み重ね」によって「片方が優れている意見」だとしても、 ”認めなくてもいい" ということに繋がりますから。

どんなに客観的に良かろうが、世間という大衆の価値観によって育まれた意見だろうが、「人ぞれぞれ」が前提にあるのならば、「相手の意見に同調」しなくてもいいんです。


先述した記事では、結論に「人ぞれぞれ」を持ってくることをこう揶揄しています。

他者の意見を認めたフリだけして実は自己の正当化しかしていない下の下な態度である


私から言わせると「分かったフリ」して、「他者との摩擦を回避」する為に、自分の信じている主張を変えちゃうほうが下の下な態度だと思います。


相手の意見が認められない、優れているとは思えない、なら、自分の意見を変えなくていいのです。「人ぞれぞれ」と締めくくっていいんですよ。

 

 

「でもそれじゃ会話することの意義が無くなってしまうんじゃ?」



という意見も分かります。あまりにも「人それぞれ」が過ぎると、じゃあ会話しなくていいよね? とか 会話する必要性は? とか、じゃあなんて会話してんの? いう疑問にぶち当たります。

それでもなお「会話」することに意義や価値があるんだとすれば、「自分と相手はぜんぜん ”違う" ことを知る」ことができる、ですかね?


この意見は、希望がないような感じもしますけど、私はわりとこれ好きです。「他者はそういうもの」として認識していれば、不用意な思想対決なんか起きないので。


 

 

多様性を受け入れるのは難しいんだけどね

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私がこの「人ぞれぞれ」にこだわるのは、「多様性を否定」したくないからですね。


自分とソレ以外の他者の意見は、なかには共感し許容して、吸収する意見もあるかもしれません。

しかし、自分の意見とは殆どが食い違い、ズレているのものが多いです。


それを「こっちのほうが正しい」とか「世間ではこう言われている」とかアホみたいな理屈で、塗りつぶされるのが大嫌いなんですね。

逆に、相手が ”信じている"意見に、「お前の意見が間違っている事実がこんなにもある!! だからお前の意見は信じるに値しない!」って破壊するような真似もしたくはないです。


(話し合いの中で相手の意見の脆さに突っ込むことや、相手の意見が嫌いだと主張することはありますけど、執拗に破壊するような真似はしてないかなと)←でもたまに私は無様を晒しているんですけどね(汗)

 

相手の「自由」に寛容になることで、自分の自由が保証される。不寛容のままでは自己をも殺しかねない。(3612文字




基本的には、いえ、理想的には、上の記事のようなことを目指したいんです。他人の多様性を受け入れるということですね。(でもまー難しい!) 自分と相手は違うんだよと、ぜんぜん、ぜんぜん違う生き物なんだよと。

姿形が似ていても、動物界脊椎動物脊椎動物亜門哺乳綱サル目サル亜目サル下目ヒト科ヒト亜科ヒト属――――として根っこの共通項があっても、

文化や習慣、経験や記憶といった積み重ねてかものが「違う」のだから、隣人はぜんぜん別の生き物なんだよと。



そういう「人それぞれでいい」という前提があると、うまくうまく自分の周囲は廻っていくと思うんですよね。



今日はここまで、んじゃまたね!

 

関連しそうな記事



<参考>

 

生物多様性とは何か (岩波新書)
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「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき
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