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『悪』は世界を変えていける―――あなたの心には今なお『宝物』はあるだろうか? ならば自分が自分でいられるための生存戦略をはじめよう (3786文字)

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 *【ギャングスタ・リパブリカ】という作品の内容に触れています。出来れば、プレイしてから読まれるほうが良いかと思います。

そんなエ口ゲやりません!という方は、このままお進みください!

  *

 

あなたの心の中にまだ『宝物』はあるか?
捨てなくてもよかったものを未だに持ち続けているか?
自分が自分のままでいられているだろうか?



ならば『悪』で世界を変えていこうか―――

 

 

 

 

 

大切な『宝物』を持ち続けるために、するべき生存戦略

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私たちは知らず知らずのうちに、生きているうちに、「大事」だったものを捨ててしまうことがある。 


小さいころからずっと好きな趣味、世間では笑われてしまうほどの真っ直ぐな生き方、石を投げつけられそうな思想から信条まで、そういう「大事」で「大切」だったもの、そういったものだ。

こういったものは年齢を積み重ねていくと、多くの人が捨てていってしまう。『宝物』だったものが『ガラクタ』になったとそう嘯いて。 

自分の意志で宝物を捨てるのならいい。だが、それは"ほんとう”に自分の意志だったのか?

世間では忌み嫌われていたり、大勢が許容できないモノだったり、他者の評価によって、他人の視線によって、周囲の人間によって"泣く泣く”捨ててしまったものだったりしないか?

自分の中で『宝物』と呼ぶべき大切なものを、もう捨てないようにする。そうするために、必要なのが『悪』なんだ。

『悪』とは、自分が自分のままでいられる生存戦略だということ。

 

 

倫理観をぶっ壊し、善の意識では囚われない『悪』で行動するということ

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ふつう「悪」と聞いたら、犯罪を犯すことや他者に膨大な迷惑をかけることを連想するだろうが、ここで言っている『悪』はそう意味じゃない。 


ここで言う『悪』とは、倫理観や周囲の人間の共感の「制約」を無視するという意味だ。 「善」に囚われず行動するっていうことだ。


「善」とは即ち、大勢が決めたことにすぎない。


大勢の総意によって、◯◯はしてはならない、◯◯は推奨されるべき行為。◯◯は忌み嫌われるべき所業―――と設定されていく。

これは"集団”の価値観によって、ルールが設定される、もっと簡単に言おう。 国によって、地域によって、時代によって、その時その時で「ルール」が違うっていうことだ。

16世紀のドイツでは、神さまを罵ったら死刑になっていたが、21世紀の日本では神を罵ったところでどうということはない。思想の違いだったんだねで終る。

6世紀のサリカ法典では、殺人を犯したとしても大公を殺さな限りは賠償金で贖うことが出来たらしいが、今の日本ではもちろんそんなことない。

もっともっと言おう。


例えば、アニメは一昔前は「子どもだけ」が見るべきものとなっていたし、マンガは読むことを忌避される時代もあった。食事中では「げっぷ」と「おなら」でどちらが"悪い”かは、国よって違う。


そう「善」とは、大勢の総意によって多数が是認したものが「善」と呼ばれるんだ。つまりは倫理観。

倫理観は最高の概念だと思う。「法」では制御できない部分を人の善意の心によって、不利益な行動を律することができるからだ。

しかし。


しかしだ。倫理観は最高の概念であると同時に、最悪で最低なものとなりえることもある。

たとえばその時代、その国で日常的に「着物」を着ることが「おかしい」ものとされたとする。けれど「日常的に着物を着る」ことが好きな人はどうすればいい?

日常的に着物を着ているだけで、大勢は「あいつおかしい」とか「よくないよねあれ」と、そう言い続ける。なぜなら彼らは日常的に"洋服”を着ているからだ。それも自分だけじゃない周囲の人間ほとんどが日常的に洋服を着ている。

 

だから彼らは、「日常的に着物を着る人」のことを理解できない。理解できないものすなわち「悪」となる。悪いものとして扱われるようになる。

 

そうだな、もし彼らがたとえ口で「おかしい人」なんて言わなくても、「視線」という圧力が胸に突き刺さってくるものだ。 しかし着物を着ている人は「法を破っている」わけでも、「他人に膨大な迷惑」をかけているわけでもない。

ただその時代、その国の大勢が「なんだかおかしい」と思っているだけ。理解出来ない人が多いというだけのことだ。

こんな時「日常的に着物を着ていることが好き」な人は、自分の好きなことを諦めなければいけないのだろうか?  着物を脱ぎ捨て、洋服を着なければいけないのだろうか?


自分の大事な『宝物』を捨てなければいけないのだろうか?


これは何も「着物」に限ったことじゃない。今のこの国で、二十歳を超えてから「ミニ四駆」で遊んでいる人、世間の目を憚らず「ダックレース」でおおいにはしゃいだり、大人の分別を忘れて子どもみたくゲームをしたり、会社を辞めてニートを満喫している人、ドール蒐集が好きな人、エ口ゲが大好きな人、ある宗教を信望している人、大学に居残り続けたくて留年に留年を重ねている人、自分の性器を焼いて食う人、


―――そういった人たちは、それらを咎めなければいけないのだろうか? 生き方や考え方を周囲に合わせなければいけないのか?


違うだろう。もし他者のそういった「同調圧力」によって自分の生き方や考え方、好きなことを諦めてしまったのならそれはもう立派な「自由」の侵害だ。

前提条件として今現在の「法律を犯していない」、「他者に膨大な迷惑をかけるものではない」限り、私はこういった自由(=趣味、生き方、信条)は許容されるべきものだと思う。

となればあとは自分次第なのだ。他人の評価を気にすることはなく、他者の視線なんて気にもしない―――そういった精神が必要になってくる。 

自分が自分でいられるために、好きなこと、生き方、信条を捨てないために、『悪』という信念が必要になってくる。

『悪』によって自己を肯定する力を、倫理を超える覚悟を、そういったものを養ってくれると私は思っている。


つまりは、『悪』とは大勢の総意(=善)によって作られた倫理観を無視し、囚われないようにし、自由になる覚悟を持つことだ。

「自分が自分のままでいられる」こと、そのための生存戦略なんだ。

 

 

 

『悪』という自己肯定力

 

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本記事を作るにあたって、参考にしたローモデルがいる。それが『ギャングスタ・リパブリカ』に登場する時守叶(トキモリカナエ)という人物だ。 


彼は、高校生になってもなお、学校の屋上で紙飛行機を飛ばし、道の上にいた「アリ」にドキドキできる人間だ。

宮本「アリはすごいな。
こんなにでかいものを運ぶんだぞ 」

時守叶「すげーなー! 自分の体の何倍あるんだよ?
カッコイイなそのアリ!


叶(かなえ)は高校生なってもなお、少年の心を持ち続けていられる稀有な人間だ。もちろん彼は周囲の人間に「おかしい人」扱いされている。

しかし、叶にとって他者の評価なんてどうでもいいようだった。それは彼が『悪』の信条を持っていたからだろう。



彼はことあるごとに、「悪は愚かさをためらわない」「目立つことは悪いことじゃない」「悪は他者の評価をきにしない」などと宣言し続ける。

そんな彼の姿を見て、私は『悪』という信条によって、叶は叶自身を自分を認めて、許容し、肯定しているように見えた。

自分が他人によって変わっていかないように、自分の心の中にある大事なものをいつまでも持ち続けていられるために―――。

そのためには、「他人の評価」なんてもんは犬にでも豚にでも食わせておけばいい。じゃないと自身の運命は変えられない。

悪は人々の共感を得られないかもしれない。
しかし、だからこそできることがある。共感の制約を受けることなく、人の運命に介入できるからだ。

 

 

悪のスタンスは不動。確信的。

 

 

昔、アメリカのベストセラー作家がこんなことを言った―――

 

善のヒーローは作るのが難しく、
悪のヒーローを作るのは簡単だ。
悪は行動の制約を受けず、
理想どおりの活躍ができるから



だから、素人は悪のヒーローを作りたがる
……けれど、悪のヒーローに人は共感しない

モラルや世のなかのしがらみに縛られ、
制約のなかで最大限の努力をするヒーローにこそ、
人は共感する……と。

 

 

たしかにそうかもしれない。
悪は人々の共感を得られないかもしれない



しかし、

 


だからこそできることがある。
共感の制約を受けることなく、人の運命に介入できるからだ。

世界の唯一の敵である悪だからこそ、
世界の意に反して世界を変えることができるんだ。



悪とは、


『人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、
人がそうなりたいと思うことを実現すること』

 

 

――――悪を……自分のものにしてみないか?

 

 

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「善い」ことが、本当に自分にとって善いこととは限らない。「善い」とは自分にとってではなく、"周囲”の人間にとって善いことなのかもしれないのだから。

だから『悪』という考え方によって、それが本当に自分の利益たるものかを今いちど考える必要性が出てくる。そしてもし、それが自分にとって不利益になるのであれば、『悪』によって大胆に倫理を超えていけばいい。


他人の評価なんて無視してしまえばいい。
他人の視線なんて意に介さなくていい。

自身の自由(=趣味、生き方、信条)を、他者が乱暴に干渉してくるのなら精一杯あがくべきだ。自分の聖域に侵略していくる奴など敵でしかない。

自己の魂に踏み込んできているんだ。もちろんそいつらはそれ相応の覚悟を持って踏みにじっているんだろう。覚悟が無いとは言わせない。持ち合わせていなかったなんて言わせない。 

私たちは自分の好きなことにもっともっと誇りを持っていいし、蔑まなくていい。世間がどう思っているかどうかなんて、とても些細なことだと思わない?

 

「人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことを実現すること」

 

『悪』は世界を変えていけると、自分の世界の価値観を強固にしていけるとと私はそう思うよ。

 

 

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ギャングスタ・リパブリカ 感想レビュー__悪は世界を変えていく (13975文字)

 

<参考>

 

倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 (ちくま学芸文庫)

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国家〈上〉 (岩波文庫)

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ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

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ギャングスタ・リパブリカ
ホワイトソフト (2013-07-26)